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冬の憂鬱
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冬の廊下は、素足に冷たい。
その、冷え冷えとしたフローリングを、怜美はことさらしっかりと踏みしめながら静かに歩いていた。彼女の両腕には、アイロンを掛けたばかりの衣服の束。バランスの悪いその荷物が床に落ちないように気を配りながら、怜美はそっと目的地の扉を開けた。
扉の向こうには、机にかじりついて一心不乱に勉強している妹の後姿が確かに見える。廊下を歩いていたときよりも更に慎重に、怜美は妹の部屋に足を踏み入れた。
と。
ただでさえ危うかった荷物のバランスがいきなり崩れる。
「あっ!」
声をあげた時にはもう遅い。せっかく綺麗にアイロンを掛けた衣服は、床に落ちてその形を思いっきり崩してしまった。いや、服のことはどうでもいい。問題、は……。
「お姉ちゃん!」
ヒステリックな声が部屋中に響く。恐る恐る顔を上げると、思ったとおり、妹の瑞穂が目を吊り上げて怜美を睨みつけて、いた。
「何度言ったら分かるのよ! 静かにしてってば!」
キンキンと鳴りそうな甲高い声が、怜美の耳を容赦なく打つ。
「あ、あの、洗濯、もの……」
その圧倒的な希薄に押されて、しどろもどろになってしまった怜美は、かろうじて、それだけ呟くのがやっとだった。
「だったらさっさと置いて出てって!」
それでも、妹の声は容赦が無い。
散らばった衣服を片付ける間もなく、怜美はほうほうの体で瑞穂の部屋から逃げ出した。
妹の部屋のドアを閉めるや否や、ふうっと溜息をつく。
一体何ヶ月、この状態が続いているのだろうか。
この雰囲気が解消される日は、本当に来るのだろうか?
瑞穂がはっきりと自分の進路を決めたのは、今から大体一年半くらい前、怜美が大学の二回生、瑞穂が高校二年生の秋頃だった、と思う。
その年にたまたま、怜美が通っているからという理由で一緒に行った西都大学の学園祭が、何故かいたく気に入ったらしい。それまでは、「西都大学って田舎の大学じゃん」とか「交通の便だって悪いし、なんかダサいってカンじ」などと散々バカにしていた瑞穂が、この日を境に「西都大学って良いじゃん」と、掌を返したようなことを言い始めたのだ。
在校生である怜美自身、毎日家から車で大学に一時間ほどかけて通学しており、講義や研究は面白いけれども他に良い所がない大学だと、西都大学のことを評価しているのに、瑞穂は一体何が気に入ったのだろうか。怜美には未だに分からない。でも、瑞穂が西都大学に行きたいのなら、反対する理由は全く無い。
だが、しかし。瑞穂が西都大学に入学するには、実は大きな障害があった。西都大学のレベルが、県内の、いや近隣で比べても結構高かったのだ。高校では帰宅部に近い運動部に属し、家に帰るとすぐにゲームや漫画に没頭する、ろくに勉強してこなかった瑞穂にとって、それはあまりにも高いハードルだった。
だから怜美は最初、瑞穂はすぐに諦めるだろうと内心考えていた。
ところが。その日から、瑞穂の猛勉強が、始まったのだ。
毎日、授業も宿題もきっちりこなし、夜は夜でゲームもせずに机に向かっている。
瑞穂って、案外頑張り屋、だったんだ。いつも家の手伝いなどろくにせず、漫画やゲームにうつつを抜かしている姿しか知らなかった怜美は、瑞穂の現在の姿にしっかりと感心して、いたのだった。
……しかし、それでも。
あのピリピリとした態度は何とかして欲しい、本当に切実に。
入学試験がもうすぐなのだから、瑞穂がいつも以上に神経を尖らせているのは怜美にも分かる。しかし、それでもこの状態は異常であるように怜美には思えた。
更に悪いことに、瑞穂は姉に対してだけ、態度がきついのだ。父や母の前では結構『普通な感じ』に振舞っているのに。一体何がいけなかったのだろうか? 畳んだタオル類を洗面所の物入れにしまいながら、怜美は内心首を傾げた。
これまでの自分の行動を、静かに、振り返ってみる。確かに、この前サークルの追いコンがあったときには、両親が共働きなのでいつも怜美がやっている家事を殆ど全て放棄した。大学に朝早く行かないといけないときには、高校が受験休みに入っている瑞穂を叩き起こしてから大学に行き、二度寝していないか確かめるために何度か瑞穂の携帯を鳴らした。やはり、瑞穂が受験生であることを無視した怜美の行動が、妹の反感をかっているのだろう。
でも、と怜美は思う。私が受験生だったときには、瑞穂は自分も高校受験があるくせにゲームに熱中していて、家事仕事は全部怜美がやらないといけなかった。それでも何とか勉強し、本来の実力どおり大学には合格した。それに比べれば、今の瑞穂の状況は恵まれている。朝から晩まで机に向かっていても、誰にも何も言われないのだ。それでたまに家事を放棄したら怒るなんて、どうかしてる。そう考えて、怜美は自分の立場を正当化した。
……でも、やっぱり。
頑張っているんだよなぁ、瑞穂も。それなりに。
だから私も、瑞穂を助けないといけない。怒りは、とりあえず胸に仕舞っておいて。
そして、季節は巡り。
「……お姉ちゃん、あったよ!」
受験票を振り回して、怜美の前にスキップして現れる瑞穂。車でここまで連れて来るまでの、蒼ざめた顔はどこへやら、満面の笑みが、そこにはあった。
だから怜美は、すべての感情を胸底に沈めて、にこっと笑う。
「おめでとう。良かったね、瑞穂」
その、冷え冷えとしたフローリングを、怜美はことさらしっかりと踏みしめながら静かに歩いていた。彼女の両腕には、アイロンを掛けたばかりの衣服の束。バランスの悪いその荷物が床に落ちないように気を配りながら、怜美はそっと目的地の扉を開けた。
扉の向こうには、机にかじりついて一心不乱に勉強している妹の後姿が確かに見える。廊下を歩いていたときよりも更に慎重に、怜美は妹の部屋に足を踏み入れた。
と。
ただでさえ危うかった荷物のバランスがいきなり崩れる。
「あっ!」
声をあげた時にはもう遅い。せっかく綺麗にアイロンを掛けた衣服は、床に落ちてその形を思いっきり崩してしまった。いや、服のことはどうでもいい。問題、は……。
「お姉ちゃん!」
ヒステリックな声が部屋中に響く。恐る恐る顔を上げると、思ったとおり、妹の瑞穂が目を吊り上げて怜美を睨みつけて、いた。
「何度言ったら分かるのよ! 静かにしてってば!」
キンキンと鳴りそうな甲高い声が、怜美の耳を容赦なく打つ。
「あ、あの、洗濯、もの……」
その圧倒的な希薄に押されて、しどろもどろになってしまった怜美は、かろうじて、それだけ呟くのがやっとだった。
「だったらさっさと置いて出てって!」
それでも、妹の声は容赦が無い。
散らばった衣服を片付ける間もなく、怜美はほうほうの体で瑞穂の部屋から逃げ出した。
妹の部屋のドアを閉めるや否や、ふうっと溜息をつく。
一体何ヶ月、この状態が続いているのだろうか。
この雰囲気が解消される日は、本当に来るのだろうか?
瑞穂がはっきりと自分の進路を決めたのは、今から大体一年半くらい前、怜美が大学の二回生、瑞穂が高校二年生の秋頃だった、と思う。
その年にたまたま、怜美が通っているからという理由で一緒に行った西都大学の学園祭が、何故かいたく気に入ったらしい。それまでは、「西都大学って田舎の大学じゃん」とか「交通の便だって悪いし、なんかダサいってカンじ」などと散々バカにしていた瑞穂が、この日を境に「西都大学って良いじゃん」と、掌を返したようなことを言い始めたのだ。
在校生である怜美自身、毎日家から車で大学に一時間ほどかけて通学しており、講義や研究は面白いけれども他に良い所がない大学だと、西都大学のことを評価しているのに、瑞穂は一体何が気に入ったのだろうか。怜美には未だに分からない。でも、瑞穂が西都大学に行きたいのなら、反対する理由は全く無い。
だが、しかし。瑞穂が西都大学に入学するには、実は大きな障害があった。西都大学のレベルが、県内の、いや近隣で比べても結構高かったのだ。高校では帰宅部に近い運動部に属し、家に帰るとすぐにゲームや漫画に没頭する、ろくに勉強してこなかった瑞穂にとって、それはあまりにも高いハードルだった。
だから怜美は最初、瑞穂はすぐに諦めるだろうと内心考えていた。
ところが。その日から、瑞穂の猛勉強が、始まったのだ。
毎日、授業も宿題もきっちりこなし、夜は夜でゲームもせずに机に向かっている。
瑞穂って、案外頑張り屋、だったんだ。いつも家の手伝いなどろくにせず、漫画やゲームにうつつを抜かしている姿しか知らなかった怜美は、瑞穂の現在の姿にしっかりと感心して、いたのだった。
……しかし、それでも。
あのピリピリとした態度は何とかして欲しい、本当に切実に。
入学試験がもうすぐなのだから、瑞穂がいつも以上に神経を尖らせているのは怜美にも分かる。しかし、それでもこの状態は異常であるように怜美には思えた。
更に悪いことに、瑞穂は姉に対してだけ、態度がきついのだ。父や母の前では結構『普通な感じ』に振舞っているのに。一体何がいけなかったのだろうか? 畳んだタオル類を洗面所の物入れにしまいながら、怜美は内心首を傾げた。
これまでの自分の行動を、静かに、振り返ってみる。確かに、この前サークルの追いコンがあったときには、両親が共働きなのでいつも怜美がやっている家事を殆ど全て放棄した。大学に朝早く行かないといけないときには、高校が受験休みに入っている瑞穂を叩き起こしてから大学に行き、二度寝していないか確かめるために何度か瑞穂の携帯を鳴らした。やはり、瑞穂が受験生であることを無視した怜美の行動が、妹の反感をかっているのだろう。
でも、と怜美は思う。私が受験生だったときには、瑞穂は自分も高校受験があるくせにゲームに熱中していて、家事仕事は全部怜美がやらないといけなかった。それでも何とか勉強し、本来の実力どおり大学には合格した。それに比べれば、今の瑞穂の状況は恵まれている。朝から晩まで机に向かっていても、誰にも何も言われないのだ。それでたまに家事を放棄したら怒るなんて、どうかしてる。そう考えて、怜美は自分の立場を正当化した。
……でも、やっぱり。
頑張っているんだよなぁ、瑞穂も。それなりに。
だから私も、瑞穂を助けないといけない。怒りは、とりあえず胸に仕舞っておいて。
そして、季節は巡り。
「……お姉ちゃん、あったよ!」
受験票を振り回して、怜美の前にスキップして現れる瑞穂。車でここまで連れて来るまでの、蒼ざめた顔はどこへやら、満面の笑みが、そこにはあった。
だから怜美は、すべての感情を胸底に沈めて、にこっと笑う。
「おめでとう。良かったね、瑞穂」
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