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キスとは好きな人とするものです
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「資料、助かった。
サンキュ」
机に左手をつけて黒縁眼鏡の奥から私を見下ろし、小野瀬さんが眩しいばかりに真っ白な歯をのぞかせてにかっと笑う。
「はぁ。
仕事ですから、別に」
お洒落眼鏡の彼とは反対に、いまどき分厚いレンズで、見るためだけに特化した黒縁眼鏡のブリッジを人差し指の先で上げて答えた。
「鶴岡さんって、真面目だよね」
なにがおかしいのか、軽く握った拳を口もとに当て、彼はくすくす笑っている。
彼のそれが、褒め言葉なのか嫌味なのかは判断しかねた。
私の場合、嫌味で使われる場合が多いが、彼の調子からはそうではない気もする。
「そうですか。
用が済んだんなら、私は」
もう話すこともないし、さっさと彼から目の前の画面へと視線を戻そうとした、が。
「あっ、ちょっと待って」
止められて、改めて小野瀬さんを見上げる。
彼は胸ポケットから名刺大のカードを取り出し、わざわざ私の手を取ってその上にのせた。
「これ、資料のお礼。
じゃ」
ひらひらと手を振りながら去っていく彼の背中を少しのあいだ見つめ、手もとのカードに視線を落とす。
「……名刺?」
それは、会社から支給されている名刺だった。
なんでこれがお礼なんだろうと何気なく裏を見て、そのメモ欄に書かれている文字に気づいた。
【キス券♡】
赤のハートマークと共に書いてあるその文字を見て、首を捻る。
キス券って、なんなんだろう。
意味わかんないし、あとで小野瀬さんに聞いてみようかな。
なんて軽く考えて、仕事を再開したんだけれど……。
「あ、鶴岡さん」
終業間際、給湯室でカップを洗っていたら、ちょうど小野瀬さんが来た。
「一緒に洗いましょうか?」
「いいの?
じゃあ、お願いします」
差し出されたカップを受け取り、また流しへと向かう。
小野瀬さんは私の後ろで、壁に向かってなにかしているようだった。
「じゃあこれ、お礼」
終わって振り返ると、彼がなにか差し出してくる。
それはさっきと同じで名刺だった。
「あのー、小野瀬さん?
これってどういう意味ですか?」
今回のも裏に【キス券♡】と書いてある。
やはり私にはこれの、意味がわからない。
「あー……」
長く発し、笑顔のまま小野瀬さんが固まる。
「……言葉どおりの意味だけど?」
「はぁ……」
困ったように彼は笑っているが、それでも私にはわからなかった。
「キス……とは、唇をあわせるあれですよね?」
「そう、だねぇ」
軽く困惑気味に彼が返事をする。
「それの〝券〟とは、これがあれば小野瀬さんとキスができる、ということですか?」
「うん、そうだよ」
ようやくわかってくれたのかと彼はぱーっと顔を輝かせたが、まだ謎は残っている。
「小野瀬さんとのキスは、〝チケット制〟なんですか?」
これは、そういう意味だよね?
そして、モテ男でいつも女性から囲まれている彼なら、そんなものが必要なのかもしれない。
「あー、うん。
そうだねぇ……」
なぜか彼は伏せ目になり、その瞳はきょときょとと忙しなく動いていた。
「でも、キスって好きな人とするものじゃないんですか?
それとも、小野瀬さんは好きじゃない人ともキスできる?」
「うっ」
びくりと大きく身体を震わせ、小野瀬さんが言葉を詰まらせる。
「そ、そりゃ、好きな人としたいよ?」
「でも、このチケットがあれば、誰でも小野瀬さんとキスできるんですよね?」
「……そうだね」
がくっと、彼の肩が大きく落ちた。
しかし、私にお礼だと気軽に二枚もくれたし、きっと他の女性にもこんなふうに配っているはず。
じゃあ、好きな人とじゃなくてもするのか、――それとも女性ならみんな好き、とか?
「……でも、それはキスしたいと思った人にしか渡してないよ」
眼鏡の奥から小野瀬さんが、ちらっと私をうかがう。
もし、その言葉に嘘がないとすれば。
「なら、チケット制にする意味があるんですか?」
彼とキスしたい人がたくさんいて、それを捌くためならチケット制はわかる。
しかしキスしたい人としかしないのならば、そうやって整理する必要はないはずだ。
「だーかーらー」
ガシガシ等しろ頭を掻いたかと思ったら、小野瀬さんが迫ってくる。
気づいたときには壁に追い詰められていた。
「俺は好きな人としかキスしたくないし、それはキスしたい人にしか渡してないの」
左前腕を壁につき、小野瀬さんが私を見下ろす。
「これがどういう意味か、まだわかんない?」
彼の右手が私の顎にかかり、上を向かせる。
強制的に視線をあわせさせられ、いつもにもなく真剣なその瞳に目は逸らせなくなった。
「その」
彼の言い分を整理すると、好きな人にしかキス券を渡していないということになる。
で、それを私が渡されたというのは。
「小野瀬さんは私がす……」
そこまで言ったところで、彼の長い人差し指にその先の言葉は止められた。
「それで。
これ、使う?」
私の手の中から名刺――キス券を取って人差し指と中指で挟み、彼が得意げに右の口端を持ち上げてにやっと笑う。
それを、なんの感情もなく見ていた。
「その。
小野瀬さんはキスしたいのかもしれませんが、私は小野瀬さんが好きではありませんので」
「ああ、そう……」
一瞬前とは反対に、小野瀬さんが項垂れる。
「鶴岡さんって、そういう人だよね……」
まるで私が悪いみたいな言い草だが、キスとは好きな人とするものだと小野瀬さんだって認めたではないか。
ならば、私が彼とキスしたくないのは当たり前だ。
「でもそういう真面目で、融通が利かなくて、鈍いところが好きなんだよね、俺」
小野瀬さんがなぜか眼鏡を外す。
顔が近づいてきてなにを、とか思っているあいだに唇が重なった。
「……なに、考えてるんですか」
どきどきと心臓の音がうるさい。
それでも彼を、睨みつける。
「キスしてみたら、好きになるかもしれないだろ」
眼鏡をかけ直し、ようやく小野瀬さんは私から離れた。
「もう一枚、いつ使ってもいいからなー」
軽い調子で言った小野瀬さんが給湯室からいなくなり、私はその場に腰が抜けたかのように座り込んだ。
「……はぁーっ」
抱え込んだ膝の中に顔をうずめる。
息が苦しいほど心臓の鼓動が速い。
顔が、燃えているんじゃないかというほど熱い。
「……なに、考えてるんだろ。
小野瀬さん」
周りからは欠点だと言われる点を、彼は好きだと言ってくれた。
それは嬉しくもあるが、同時に真意を測りかねる。
まさかあの彼が、こんな私に本気……だとは考えられない。
……うん。
からかわれたんだよ、きっと。
終業のベルも鳴っているし、気を取り直して立ち上がり、席へと戻る。
机の上に置いたままになっていたキス券に目が留まり、また顔から火を噴いた。
……いや、ない。
ないから。
それを手に取り、破ろうとして止まる。
これってもしかして、小野瀬さんなりのラブレター……?
そうだとしたら、恋に百戦錬磨な顔をして意外と不器用な彼の一面を見た気がして、とくんと心臓が甘く鼓動した。
いやいや、そんなはずないし。
それとも彼の言うとおり、キスから始まる恋ってあるのかな……?
――私がもう一枚のキス券を使うまで、あと……?
【終】
サンキュ」
机に左手をつけて黒縁眼鏡の奥から私を見下ろし、小野瀬さんが眩しいばかりに真っ白な歯をのぞかせてにかっと笑う。
「はぁ。
仕事ですから、別に」
お洒落眼鏡の彼とは反対に、いまどき分厚いレンズで、見るためだけに特化した黒縁眼鏡のブリッジを人差し指の先で上げて答えた。
「鶴岡さんって、真面目だよね」
なにがおかしいのか、軽く握った拳を口もとに当て、彼はくすくす笑っている。
彼のそれが、褒め言葉なのか嫌味なのかは判断しかねた。
私の場合、嫌味で使われる場合が多いが、彼の調子からはそうではない気もする。
「そうですか。
用が済んだんなら、私は」
もう話すこともないし、さっさと彼から目の前の画面へと視線を戻そうとした、が。
「あっ、ちょっと待って」
止められて、改めて小野瀬さんを見上げる。
彼は胸ポケットから名刺大のカードを取り出し、わざわざ私の手を取ってその上にのせた。
「これ、資料のお礼。
じゃ」
ひらひらと手を振りながら去っていく彼の背中を少しのあいだ見つめ、手もとのカードに視線を落とす。
「……名刺?」
それは、会社から支給されている名刺だった。
なんでこれがお礼なんだろうと何気なく裏を見て、そのメモ欄に書かれている文字に気づいた。
【キス券♡】
赤のハートマークと共に書いてあるその文字を見て、首を捻る。
キス券って、なんなんだろう。
意味わかんないし、あとで小野瀬さんに聞いてみようかな。
なんて軽く考えて、仕事を再開したんだけれど……。
「あ、鶴岡さん」
終業間際、給湯室でカップを洗っていたら、ちょうど小野瀬さんが来た。
「一緒に洗いましょうか?」
「いいの?
じゃあ、お願いします」
差し出されたカップを受け取り、また流しへと向かう。
小野瀬さんは私の後ろで、壁に向かってなにかしているようだった。
「じゃあこれ、お礼」
終わって振り返ると、彼がなにか差し出してくる。
それはさっきと同じで名刺だった。
「あのー、小野瀬さん?
これってどういう意味ですか?」
今回のも裏に【キス券♡】と書いてある。
やはり私にはこれの、意味がわからない。
「あー……」
長く発し、笑顔のまま小野瀬さんが固まる。
「……言葉どおりの意味だけど?」
「はぁ……」
困ったように彼は笑っているが、それでも私にはわからなかった。
「キス……とは、唇をあわせるあれですよね?」
「そう、だねぇ」
軽く困惑気味に彼が返事をする。
「それの〝券〟とは、これがあれば小野瀬さんとキスができる、ということですか?」
「うん、そうだよ」
ようやくわかってくれたのかと彼はぱーっと顔を輝かせたが、まだ謎は残っている。
「小野瀬さんとのキスは、〝チケット制〟なんですか?」
これは、そういう意味だよね?
そして、モテ男でいつも女性から囲まれている彼なら、そんなものが必要なのかもしれない。
「あー、うん。
そうだねぇ……」
なぜか彼は伏せ目になり、その瞳はきょときょとと忙しなく動いていた。
「でも、キスって好きな人とするものじゃないんですか?
それとも、小野瀬さんは好きじゃない人ともキスできる?」
「うっ」
びくりと大きく身体を震わせ、小野瀬さんが言葉を詰まらせる。
「そ、そりゃ、好きな人としたいよ?」
「でも、このチケットがあれば、誰でも小野瀬さんとキスできるんですよね?」
「……そうだね」
がくっと、彼の肩が大きく落ちた。
しかし、私にお礼だと気軽に二枚もくれたし、きっと他の女性にもこんなふうに配っているはず。
じゃあ、好きな人とじゃなくてもするのか、――それとも女性ならみんな好き、とか?
「……でも、それはキスしたいと思った人にしか渡してないよ」
眼鏡の奥から小野瀬さんが、ちらっと私をうかがう。
もし、その言葉に嘘がないとすれば。
「なら、チケット制にする意味があるんですか?」
彼とキスしたい人がたくさんいて、それを捌くためならチケット制はわかる。
しかしキスしたい人としかしないのならば、そうやって整理する必要はないはずだ。
「だーかーらー」
ガシガシ等しろ頭を掻いたかと思ったら、小野瀬さんが迫ってくる。
気づいたときには壁に追い詰められていた。
「俺は好きな人としかキスしたくないし、それはキスしたい人にしか渡してないの」
左前腕を壁につき、小野瀬さんが私を見下ろす。
「これがどういう意味か、まだわかんない?」
彼の右手が私の顎にかかり、上を向かせる。
強制的に視線をあわせさせられ、いつもにもなく真剣なその瞳に目は逸らせなくなった。
「その」
彼の言い分を整理すると、好きな人にしかキス券を渡していないということになる。
で、それを私が渡されたというのは。
「小野瀬さんは私がす……」
そこまで言ったところで、彼の長い人差し指にその先の言葉は止められた。
「それで。
これ、使う?」
私の手の中から名刺――キス券を取って人差し指と中指で挟み、彼が得意げに右の口端を持ち上げてにやっと笑う。
それを、なんの感情もなく見ていた。
「その。
小野瀬さんはキスしたいのかもしれませんが、私は小野瀬さんが好きではありませんので」
「ああ、そう……」
一瞬前とは反対に、小野瀬さんが項垂れる。
「鶴岡さんって、そういう人だよね……」
まるで私が悪いみたいな言い草だが、キスとは好きな人とするものだと小野瀬さんだって認めたではないか。
ならば、私が彼とキスしたくないのは当たり前だ。
「でもそういう真面目で、融通が利かなくて、鈍いところが好きなんだよね、俺」
小野瀬さんがなぜか眼鏡を外す。
顔が近づいてきてなにを、とか思っているあいだに唇が重なった。
「……なに、考えてるんですか」
どきどきと心臓の音がうるさい。
それでも彼を、睨みつける。
「キスしてみたら、好きになるかもしれないだろ」
眼鏡をかけ直し、ようやく小野瀬さんは私から離れた。
「もう一枚、いつ使ってもいいからなー」
軽い調子で言った小野瀬さんが給湯室からいなくなり、私はその場に腰が抜けたかのように座り込んだ。
「……はぁーっ」
抱え込んだ膝の中に顔をうずめる。
息が苦しいほど心臓の鼓動が速い。
顔が、燃えているんじゃないかというほど熱い。
「……なに、考えてるんだろ。
小野瀬さん」
周りからは欠点だと言われる点を、彼は好きだと言ってくれた。
それは嬉しくもあるが、同時に真意を測りかねる。
まさかあの彼が、こんな私に本気……だとは考えられない。
……うん。
からかわれたんだよ、きっと。
終業のベルも鳴っているし、気を取り直して立ち上がり、席へと戻る。
机の上に置いたままになっていたキス券に目が留まり、また顔から火を噴いた。
……いや、ない。
ないから。
それを手に取り、破ろうとして止まる。
これってもしかして、小野瀬さんなりのラブレター……?
そうだとしたら、恋に百戦錬磨な顔をして意外と不器用な彼の一面を見た気がして、とくんと心臓が甘く鼓動した。
いやいや、そんなはずないし。
それとも彼の言うとおり、キスから始まる恋ってあるのかな……?
――私がもう一枚のキス券を使うまで、あと……?
【終】
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