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第6章 不安な心

5.客とスタッフ

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お昼休みに意を決して玲に電話をかけた。

――プルルル、プルルル、プルルル……。

けれど、呼び出し音が鳴るばかりで出ない。
タイミングが合わないだけだとわかっていても、悲しくなった。
それでもくじけずにLINEの画面を開いてメッセージを打ち込んでいく。

【わがまま言ってごめんなさい】

【まだ怒っていますか】

【本当にごめんなさい】

いくら待っても既読にはならない。
小さくはぁっとため息をつき、さらに打ち込む。

【ルシエ様から食事に誘われました。
どうしたらいいですか】

【私はあまり行きたくないです。
でも、仕事だからと玲が言うなら】

返事があるのかどうかもわからない。
朝は折り返して出なかったとはいえ、かけてくれたようだけど。

「……はぁーっ」

重いため息をついて仕事に戻る。

「スペルミスにつまらない文法間違いが多いです。
書き直し」

「……はい」

戻された手紙は真っ赤になっていた。
集中できないから、当然仕事もまともにできない。
そんな自分がさらに嫌になった。

「……」

終業時間になって携帯を見たけれど、返信どころか既読にすらなっていない。
そんなに玲は忙しいんだろうか。
あんなに慌ただしく大阪に発ったなんて、もしかしてあちらで大きな問題でも起こった?
なのにあんなわがままを言って玲を困らせたなんて、情けない。

「どう、しよう……」

仕事なら、行くべきなのはわかっている。

「仕方ない、よね……」

私は重い足を引きずって、指定のレストランへと向かった。

「待っていたよ」

通された個室ですでに待っていたルシエ様が、にっこりと笑った。

「ほ、本日はお招き、あ、ありがとう、ござい、ます……」

ウェイターに椅子を引かれ、ルシエ様と向かいあって座る。

「そんなに緊張することはない。
まずは乾杯といこうじゃないか」

こぽこぽとグラスに注がれる、黄金色の液体をただ見つめていた。

「君との再会に」

「……」

持ち上げられたグラスにあわせ、自分のグラスもほんの僅かに持ち上げる。
ルシエ様はごくごくとそれを一気に半分くらいまで空けたが、私は口すらつけられずにいた。

「もしかして警戒しているのか」

「あの、その」

お客様相手にはい、そうですとは言えない。

「そういえばまだ、名前を訊いていなかったな」

「あの、音尾、です」

名前ならすでに、井出室長の紹介済みだ。
それをさらになんで訊くんだろう。

「いや、ファーストネームだ」

「……彩梅、です」

お客様に下の名前を訊ねられる理由がわからない。
親しい親しいお客様ならともかく。

「アヤメ、か。
イリスのことだな、フランスの国花だ。
これもなにかの縁だろう」

うん、うん、と満足げに彼が頷く。
たまにされる誤解を彼もしているようだ。

「そちらの、アヤメ、ではなく。
彩る梅で彩梅、です」

「可憐な梅も君にふさわしい」

上げたグラス越しに彼が私を見る。
なにを言ってもいい意味にしてしまうのは、フランス人だからなんだろうか。

「俺はすでに彩梅のその、指環には気付いているし、彩梅がここの総支配人の婚約者だというのも知っている」

楽しそうに話しながらルシエ様は食事を続けている。
けれどならなんで、この人は私を食事に誘ったりしたのだろう。
ただ単に、本当に手紙に対するお礼なんだろうか。

「そのうえで。
俺は本気で、彩梅を口説きたいと思う」

「え……」

ニヤリ、とルシエ様が右頬だけを歪めて笑った。

「俺は入ってはいけないという場所には入ってみたくなる性分でね。
それでこのホテルでも忍び込んでみたら、大和撫子がいた」

オードブルを摘まみながら、ルシエ様はぐいぐいとシャンパンを飲んでいる。
私はなにを言われているのかわからずに、ぽけっとそれを見ていた。

「すぐに追い出されるのは面白くないだろ? だから言葉がわからないフリをした。
そしたら彩梅が出てきた」

あれは理解できていたのに無視していたの?
あんなに、石塚さんは困っていたのに。

「奥ゆかしくて、まさしく大和撫子だと思ったね!
また会いに行こうと思ったのに、警備が厳しくなって入れなくなってしまった」

当たり前だ、あれから玲がそうしたんだから。
それにしてもさっきから、この人が言うことは自分勝手なことばかりでちょっと嫌。

「でも、こうやって会えたってことはもう、これは運命なんじゃないだろうか?」

大袈裟にルシエ様は喜んでいるが、私にはただの偶然だとしか思えない。

……まあ、あれがあったから誰かの役に立ちたい、なんて思って仕事をはじめ、その仕事のせいで彼とは再会したのだけれど。

「その、私はそんなに、喜んでもらえるような、人間では、ないので」

玲がまともな人間にしてくれたけど、元々の私はそうじゃない。
仮に私がルシエ様と付き合ったとして。
彼はきっと、酷くがっかりするだろう。

「なにを言う。
彩梅ほど細やかな心遣いができる人間はない。
まさか帰国の日に雨に濡れなかったかとか心配してくれるとは思わなかった」

「……」

書いた、確かにそんなこと。
けれどそれは当たり前、で。

「俺は彩梅がいたく気に入ったんだ。
だから、なにがなんでも彩梅をものにする」

なんだか、酷く面倒な人に気に入られてしまった。
これはさっさと、私にはその気がないのだと伝えた方がいいだろう。

「その。
私は玲……婚約者を、愛しているので」

「関係ない。
そいつより俺に惚れさせればいいだけだ」

ぐいっ、とルシエ様がワインを呷る。

「私がルシエ様を、好きになるとか、ありえない、ので」

「なぜそう言い切れる? 世の中には絶対、なんてことはない」

どうしてこの人は、こんなに自信満々なんだろう。
ある意味、羨ましくもある。

「ああ、それから。
ルシエ様、じゃない。
ジャンだ」

「あの、お客様を、ファーストネームで呼ぶなど、できない、ので」

「これから彩梅と俺は客とスタッフの関係じゃない。
ひとりの男と女の関係だ」

「……」

真っ直ぐにルシエ様が私を見る。
その瞳には全く揺らぎがない。
こんなことなら食事など断ってしまえばよかった。

早く帰ってしまいたかったけれど、我慢して食後のコーヒーまでは付き合った。
もしなにか気に入らないことをして彼を怒らせたら、玲の仕事に響くかもしれない。
そう思うとヘタなことはできなかった。

「ごちそうさま、でした。
では、これで失礼、します」

あたまを下げ、早々に去ろうとしたら、腕を掴まれた。

「送らせろ」

「え……」

私の腕を取り、ルシエ様は勝手にプライベート用エレベーターへと向かっていく。

「……!」

警備がルシエ様に気付き一歩足を踏み出したものの、一緒にいる私に気付いてそのままやめた。

「彩梅と一緒なら止められないんだな。
当たり前か」

いいともなんとも言っていないのに勝手に乗り込み、最上階のボタンを押す。
ずっと俯いて足下を見ていた。
エレベーターが止まり、扉が開く。

「あの。
ここまで、で」

「ちゃんと部屋まで送る」

「ここまでで!
いい、ので!」

必死に、彼を押し留めた。
玲と私の、ふたりの部屋に彼を入れたくない。

「わかった。
ここには二週間ほどいるからな、また食事に誘う」

彼の顔が近づいてきて、顔を背けた。

「まあいい。
すぐに自分の方からキスを強請るようにしてやる」

私に投げキッスをしたルシエ様を乗せてエレベーターのドアが閉まる。

「玲……」

呼んだっていない人の名前を呼ぶ。
それしか、できなかったから。
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