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霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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1.花火デートの約束

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私はその日、浴衣を前にしてため息をついていた。

……行きたくない。
いや、行きたい……かも。
しかし行ったとして、彼となにを話せばいいんだろう?

思い悩んだところで時間は刻一刻と迫ってくる。

……行く、か。
だって行くって返事しちゃったんだし。
ドタキャンはさすがにまずい。
それにそんなことしたら、次から顔をあわせづらくなる。

……まあ、行ったところでそうなる可能性もあるのだけれど。

重い腰を上げて、私は浴衣へと手を伸ばした。



私は会社で、コーヒーの係をしている。

要するに、豆の補充やなんか、そういうこと。

発注はしなくてもメーカーの人が定期的やってきて、減った分を補充してくれる。
一応、そのときサインとかでメーカーの人と話したりもするのだけれど、彼はいつも、超無表情で事務的で。

私も関心がないから気に留めたことはない。
いつも事務的に「はい」ってだけ返していた。


梅雨も明けたある日、いつものように彼がやってきた。

コーヒーを補充してもらい、不都合はないか訊かれ、特になにもなかったから大丈夫だと返し。
そして納品書にサインして。

「はい。
ご苦労様でした」

「ありがとうございます。
……ところで、もうすぐ花火大会ですね」

「はい」
 
……あれ?
珍しく、そんな話題?

確かに来週末は大きな花火大会がある。

「私と一緒に花火大会、行きませんか?」

「はい。
……えっ?」

惰性ではいと返事をしながら、次の瞬間、驚いて訊き返した。

じっと彼が見つめてくる。

もう彼とは半年の付き合いなのに、初めて眼鏡をかけているんだって気がついた。
それほどまでに、彼にはいままで注意を払ったことはなかったのだ。

「もしかして、もう予定がある、とか」

「あ、……いえ。
でも」

「だったら私と、花火大会に行きませんか?」

彼の顔が迫ってくる。

……整った顔立ち、黒縁の眼鏡。
意外とイケメン?
そして……かなり強引。

「あ、えと……はい」

……彼の強引さに押し切られ。
ついつい頷いてしまった。



連絡先を交換し、楽しみにしています、と言いつつも、いつも通りの事務的な顔で彼は帰っていった。
呆然とそれを見送り、我に返る。

……あれ?
私いま、もしかして、デートの約束をしたということでしょうか?

携帯を確認すると、確かに新しい連絡先が増えている。

彼の名字が蓮池はすいけなのは知っていたが、名前がりょうだということは初めて知った。
いや、彼が初めてきた日に名刺はもらったはずだ。
でも、なんとなく目を通しただけだったから。


気がついたら浴衣を買っていた。
浮かれている、そう指摘されてもしょうがない。
デート、というか男とふたりで出掛けるなんてずいぶん久しぶりのことだし。

……それに。

思い起こせばイケメンからの誘い。
悪い気はしない。

ちなみに買ったのは紺地に白い花の、染め抜きの浴衣。
それに白い帯。

……買ったときはおしゃれでいいと思ったものの。
日がたつにつれて、あきらかに気合いが入り過ぎだと気がつき後悔した。



――当日。

壁に掛けた浴衣を眺めながら、ため息が漏れる。

……なんで約束、しちゃったんだろ。

いまさら後悔したって遅い。

せっかくの花火大会。
浴衣まで用意した。

しかし、彼となにを話していいのかわからない。
しかも気合いの入りすぎた浴衣を着るは恥ずかしい。

……けど、ドタキャンはできないし。

迫ってくる時刻に、重い腰を上げる。

……せっかく買った浴衣ももったいないし。
誤解されてもいいや。
着たいもんは着たいんだから。

開き直ると本を片手に、浴衣を着始めた。


待ち合わせの駅では、すでに彼は待っていた。

改めて見ると背が高い。

私服が意外とダサい、とかだと今日は気楽に過ごせそうな気もしたが、なにげにおしゃれ。

「すみません、お待たせして」

「いえ。
俺もいま来たところなので」

……俺。

プライベートではそうなんだ。
そのくせいつも通りの事務的な顔。
なんかやっぱり、気が重い。

「じゃあ、行きましょうか」

「はい」

彼の半歩後ろをついて歩く。

無言。
気まずい。

……あれ?
もしかして気を遣ってくれている?

歩く早さは私にちょうどいい。

……やっぱり無言、だけど。

駅前の信号を渡って人が増え出すと、彼はちょこちょこ振り返るようになった。

……ちゃんと気にしてくれているんだ。
そういうのはちょっと、嬉しい。

「なにか食べますか?」

「そうですね」

屋台の場所まで来て、やっと彼が口を開いた。

たこ焼き、はし巻き、焼き鳥。
りんごアメ、チョコバナナ、かき氷。

おいしそうなものがいっぱい。

「じゃあ、たこ焼きで」

「はい」

やっぱり私を気遣って歩く、彼について行く。

たこ焼き屋で注文して。
お金を払う段階になって、彼から押し止められた。

「俺が払うので」

「あの、でも」

「誘ったのは、俺なので」

「……はい」

渋々、出しかけていた財布をなおす。

そういう気の遣われ方は、こっちも気を遣うからあまり好きじゃない。

……あ、でも。
誘ってきたくせに割り勘、だと幻滅するか。

たこ焼きを受け取って、また歩き出す。

その後も結局、彼の払いでラムネと焼きそば、唐揚げを買った。

そのまま適当な場所で座り、それらを食べながら花火が始まるのを待つのかと思ったら。

「いい穴場、知ってるんです。
行ってみませんか?」

「えっと。
……はい」

顔をのぞき込まれ。
ついつい、はいと返事をしてしまう。
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