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第五章 仕事にトラブルはつきものです

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眼鏡はとりあえず、セロハンテープで弦をぐるぐる巻きにして応急処置する。

「それで、なにがあったんだ?」

呼んだタクシーが来るまでのあいだに、矢崎くんが聞いてくる。
この距離をタクシーなんて、なんと贅沢な!
さすが御曹司は違うな!
とか思ったが、よく見えないのに公共の交通機関は危険だよね。

「あー、加古川さんが子供の調子が悪くなって出られないって」

仕方ないよねと曖昧な笑みで答える。

「は!?
加古川って司会のヤツだろ?
大変じゃないか!」

矢崎くんは慌てているが、まあそうだよね。

「大丈夫だよ。
司会の段取りと台本は全部、頭に入れてあるし。
別に慌てるほどのことじゃないって」

「……純華は大変だな」

彼の手が頭にのり、慰めるように撫でてくれる。
それでくさくさしていた気分が幾分和らいだ。

「よし、引っ越しして落ち着いたら、旅行に行こうぜ。
お疲れ様旅行?
新婚旅行はまた、別に行くけどな」

「いいね」

ちょっと楽しみだな、矢崎くんとの旅行。
それにこれが、きっと最初で最後だし。

そのうち、タクシーが到着する。
彼ひとりだと足下が危ないので、乗るまでちゃんと見届けた。

「急いで戻ってくるけど。
ちゃんと水分摂って、少しでも休めよ?
今日、特に暑いからな」

「うん、わかったよ」

「絶対だからな」

念押しする彼がおかしくて、笑ってしまう。
しかしこれが、フラグだなんて誰が思うだろう?

朝のミーティングで加古川さんの休みと、代わりに私が司会をすることを発表する。
多少の驚きはあったが、大きな混乱はなかった。

ステージに立つと、緊張した。
みんなには大丈夫だと言い切っていたが、私は司会が初めてなのだ!
それでも入社以来、たくさんのイベントに関わってきたし、今日の段取りと台本はすべて頭に入っている。
きっと上手くいくと言い聞かせ、足を踏み出した。

……のが、十時間前。

「お姉さん?」

「あっ、はい。
そうですねー」

ゲストから声をかけられ、慌てて意識をステージに戻す。
さっきから集中していないと、疲れて意識が飛びそうだ。
大変なのは知っていたが、これをこなしている加古川さんを尊敬する。
でも、あと少しだから。

「本日はご来店、ありがとうございました。
これですべてのイベントは終了です。
今後もニャオンモールをよろしくお願いいたします」

頭を下げた瞬間、私は真っ白に燃え尽きていた。
頭が、ガンガンする。
周囲の声が、遠い。
それでも最後の気力でステージを下りる。

「純華!」

階段を踏み外したのはわかった。
すぐに誰かが、支えてくれる。

「身体熱い。
おい、きゅうきゅう……」

「……それは、ダメ……」

私がぐったりしているのに気づき、周囲のスタッフが寄ってくる、救急車を呼ぼうとした声を、止めた。

「支えてくれたら、歩ける、から……。
タクシー、呼んで……」

「わかった」

支えてくれた彼――矢崎くんが私を抱きかかえる。
人前でお姫様抱っことか恥ずかしすぎるが、それを抗議するほどの力はない。
すぐにスタッフがのせてくれた、氷の袋が気持ちいい。

「俺が病院に連れていってくる。
あと、任せられるか」

「はい!」

矢崎くんに声をかけられ、その場にいた全員が頷いた。

病院で熱中症だと診断され、点滴を受ける。

「……ごめん、迷惑かけて……」

あんなに矢崎くんから、水分を摂って少しでも休めと言われていた。
でも、今日の自分は目の前の仕事でいっぱいで、全然できていなかった。

「謝らなくていい」

頭を撫でる、矢崎くんの手は優しい。
しかしそれはますます私を情けなくしていった。

「……ダメだな、私。
自分のことで手一杯で、周りが全然見えてなくて……。
こんなんじゃ現場責任者、失格だ……」

初めて任された現場責任者の仕事、上手くやるんだってそればっかりで結局、みんなに迷惑をかけてしまった。
どんなに反省してもしたりない。

「純華は頑張ったよ。
司会しながら現場も回してたんだろ?
そんなの、俺だって倒れる。
純華は頑張ったよ、偉いよ」

「そ、そうかな」

気休めで言ってくれているのはわかっている。
それでも、彼の優しい言葉がじわりと心に染み、涙が浮いてくる。

「純華は偉い。
こんなに頑張る人が奥さんで、俺は誇らしいよ」

ちゅっと軽く、彼の唇が私の唇に重なった。
それが、くすぐったくて、嬉しい。

「……もう一回、して」

「ここ、病院だけどいいのか?」

からかうように小さく彼が笑う。

「……誰もいないから、いい」

「わかった」

もう一度、彼の唇が重なる。
今日くらいは、甘えていい。
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