清貧秘書はガラスの靴をぶん投げる

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第九章 結婚しろ

9-4

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「お父上」

それまで黙って話を聞いているだけだった彪夏さんが、口を開いた。

「お父上にはお父上の事情があるのだろうと理解しています」

「わかってくれるの!?」

彪夏さんの言葉で父の顔がぱーっと輝く。
ほら、やっぱり。
全然反省なんてしてない。

「でもそれで、清子さんが、ご家族が苦労しているのを理解してらっしゃいますか」

彪夏さんの声は諭すようにとても静かだった。
おかげで、父も黙っている。
少しは反省してくれたのかと思ったものの。

「で、でも!」

唐突に、勢いよく父の顔が上がる。

「今、七色羊の成育に出資していて。
凄くない?
最初から青とかピンクとかの毛が生えてるんだよ?
だから染めなくても、その色の毛糸が採れるんだー。
これが軌道に乗れば、みんなを楽にしてあげられるよ」

興奮して話す父をなんとも言えない気持ちで見ていた。
また、そんな話に騙されて。
いつになったらこの人は、現実を見てくれるんだろうか。

「そうですか。
それはよかったですね」

にっこりと笑った彪夏さんのそれは完全に作られたものだったし、話しても無駄だと思ったのだろう。

「……わかった、もういい。
お父さんにはなにも期待しない」

こんな人に父親としての役割を期待するだけ無駄なのだ。
今まで何度、それで裏切られてきた?
なのにまた、期待してしまうなんて、私は愚かだ。

「でも、一度でいいから家に顔を出して。
真由さんが可哀想だから」

こんな父でも真由さんにとって、最愛の夫なのだ。
ときどき父の写真を見ては、今度いつ帰ってくるのかとため息をついている。
健太たちはわからないが、父が帰ってくれば真由さんは喜ぶだろう。

「あと、自分の娘の顔くらい見ておいて」

「娘の顔って、僕の娘は清ちゃんだけだけど?」

怪訝そうに父が首を捻り、カッと腹の底に火がついた。
怒鳴りそうになったけれど、どうにかそれを抑え込む。

「……お父さんがいなくなったあとに生まれたの。
お父さん、真由さんが妊娠してたのも知らなかったでしょ?
あの日、お父さんが帰ってきたら真由さん、伝えるつもりだったんだよ?」

父が喜んでくれるだろうかとわくわくしていた真由さんも、日付を超えても父が帰ってこなくてまたいなくなったのだと悟り、落胆していた真由さんも私は忘れられない。

「そうなの?
いつの間にか子供が増えたのかー。
しかも女の子?
名前、なんにしよう?」

なぜか今、子供の名前をあれこれ悩んでいる父を、冷めた目で見ていた。

「もうとっくに出生届の提出期限、切れているから。
みんなで話しあって、美妃になったよ」

指でテーブルに、字を書いて教える。

「美妃かー。
可愛いんだろうなー」

父は嬉しそうだが、私には怒りしかない。
本当は美妃の名前だって、祥平さんにつけてもらいたいと提出期限ギリギリまで真由さんは待っていたのだ。
でも父の行方は杳としてしれず、結局家族で決めた名前になった。

ちょうど話が切れたところで父の携帯が鳴り、それに出た父は安東さんが心配しているからと去っていった。
いや、携帯を持っているのなら、その電話番号を教えておいてほしい。
前に家にいたときに持っていた携帯の番号は、すでに不通になっている。

「……あれが、清子の父親なんだな」

彪夏さんの声でびくりと身体が震える。
呆れている?
そうだよね、今まで聞いた話からだってわかっていただろうけれど、実物はさらにだもの。

「よくあんな父親から、こんな常識のある子供が生まれてきたもんだ」

ふふっと小さく、彪夏さんが笑う。
それはもう呆れるを通り越して笑うしかないといった感じだった。

「俺たちも帰るか」

「……ナイデ」

立ち上がった彪夏さんの、ジャケットの裾を、俯いて掴む。

「清子?」

すぐに、怪訝そうな彼の声が降ってきた。

「……ヒトリニシナイデ」

自分から出た声は小さく、酷くぎこちない。
今、帰ってひとりになるのは怖かった。
どんなに期待しても父は変わらないのだと、現実を見せつけられた。
わかっているはずなのに、どこまでも落ち込んで今度こそ立ち直れなくなりそうな気がした。

「わかった」

彪夏さんが優しく、私の頭をぽんぽんする。
それでようやく、詰まっていた息がつけた。
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