クロニクル・エヴァーガーデン

カイル

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第一章

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公爵は、まるで埃を払うかのように軽く肩をすくめた。「用水路で見つかったのは、私のドッペルゲンガーだ。敵を欺くには、まず味方から。そして、時には己の死さえ利用する。お前も知っているはずだ、ケイン。それが"奴ら"と渡り合うための常套手段だと」

その言葉は、あまりに現実離れしていたが、今まさに命を救われたという事実の前では、どんな突飛な話も真実味を帯びてしまう。公爵の隣で、娘のエルザが安堵と混乱の入り混じった涙を流していた。

「お父様…! ご無事で…!」

「心配をかけたな、エルザ」

公爵は娘の頭を一度だけ撫でると、鋭い視線を私達に向けた。「ここはもう安全ではない。敵は、この隠れ家さえも嗅ぎつけた。すぐに移動する。私のセーフハウスへ」

有無を言わさぬその言葉に、私達は頷くしかなかった。こうして、十四歳の私が体験した、奇妙で、かけがえのない十日間の謎解きの日々が幕を開けたのである。

*****

公爵のセーフハウスは、モハラ市街の喧騒から離れた、古い貴族街の一角にある屋敷だった。蔦の絡まる石壁と重厚な鉄の門は、外界からの侵入を拒むように固く閉ざされている。しかし、一歩足を踏み入れると、そこには手入れの行き届いた庭園と、温かみのある調度品で満たされた、穏やかな空間が広がっていた。

「ここならば、奴らの目も届くまい。少なくとも、しばらくな」

公爵はそう言うと、私達にそれぞれ部屋を割り当てた。私とメアリー、そしてエルザは同じ階の隣り合った部屋を使うことになり、三人の間にはすぐに不思議な連帯感が芽生えた。

最初の日々は、緊張と安らぎが同居する、奇妙な時間だった。父は公爵と書斎にこもり、何時間も地図や古い文献を広げて議論を交わしていた。その横顔には、村にいた頃の穏やかさはなく、"狩人"としての鋭い光が戻っていた。

私達子供たちは、そんな大人たちの世界から少し離れた場所で、それぞれの時間を過ごした。メアリーはエルザにすっかり懐き、まるで本当の姉妹のように彼女の後をついて回った。エリュガードは、猟師の息子としての本能からか、屋敷の警備システムに興味津々で、公爵に質問攻めにしては呆れられていた。

私は、エルザと多くの時間を過ごした。彼女は、貴族の令嬢らしく淑やかでありながら、その瞳の奥には、私と同じように、何かを見通すような強い光を宿していた。そして、彼女が時折見せる高度な魔法の片鱗は、私の中の前世の記憶を刺激した。

「シャーナさんは、魔法に興味があるの?」

ある日の午後、庭のテラスで二人でお茶を飲んでいると、エルザが尋ねた。

「うん、少しだけ。でも、エルザみたいに上手じゃない」

「そんなことないわ。あなたの中には、とても大きな力を感じる。ただ、まだ眠っているだけ」

エルザの言葉は、私の心の奥底にある、誰にも言えない秘密を見透かしているようで、少しだけ怖かった。

食事は、いつも六人全員でダイニングテーブルを囲んだ。それは、まるで本当の家族のような光景だった。公爵は厳格な態度の奥に、時折、私達子供に向ける優しい眼差しを隠していた。特に、娘のエルザに向けるそれは、深い愛情に満ちているように見えた。

しかし、エリュガードだけは、公爵に対して警戒を解いていなかった。

「なあ、シャーナ。あの公爵様、なんだか変だぜ」

三日目の夜、部屋を訪ねてきた彼が囁いた。

「何が?」

「食事を全然食わねえんだ。いつも紅茶を飲むだけで、料理にはほとんど手をつけてない。それに、エルザさんのことを見てる目が、なんていうか…父親の目じゃねえ。獲物を見るみてえな、じっとりとした目だ」

「考えすぎよ。エリュガードは心配性なんだから」

私はそう言って笑い飛ばしたが、心のどこかで、彼の言葉が小さな棘のように引っかかっていた。エリュガードの洞察力は、獣の気配を探るのと同じように、人間の本質的な部分を捉えることがあったからだ。

*****

五日目の朝、事態は動いた。公爵が、書斎に全員を集めたのだ。テーブルの上には、一つの古びた革のトランクが置かれていた。

「これは、俺のドッペルゲンガーが持っていた遺品だ。警察内部の協力者に回収させた」

公爵の言葉に、空気が張り詰める。父さんが息を呑んだ。

「奴は、一体何者だったのですか?」

「分からん。だが、敵であることは間違いない。奴らは、"魔女"に与する者たちだろう。この遺品の中に、奴らのアジトや目的を探る手がかりがあるかもしれん」

トランクの中には、ありふれた旅人の所持品が入っていた。着替え、数冊の本、安物の万年筆、そして銀の懐中時計。一見しただけでは、何も特別なものは見当たらない。

「手分けして調べよう」

父さんの提案で、私達はそれぞれの品を手に取った。私は、数冊の本をパラパラとめくってみたが、ただの風景画集と詩集だった。メアリーは着替えの匂いを嗅いで「変な匂いしないよ!」と無邪気に報告する。

エリュガードは、懐中時計を手に取り、じっと耳に当てていた。

「…おかしいな。この時計、動いてないのに、かすかに音がする」

彼は器用に裏蓋を開けると、その内側に、米粒ほどの大きさの小さな傷が、規則的に並んでいるのを見つけた。

「モールス信号か…?」

父さんが呟き、紙とペンを取ってその符号を書き写し始めた。

一方、エルザは万年筆を手に取り、その構造を調べていた。

「お父様、この万年筆、インクカートリッジが妙です。普通のガラス製ではなく、何か特殊な合金で作られているようですわ」

彼女が軽く魔力を込めると、カートリッジが淡い光を放ち、その内側に螺旋状の微細な文字が浮かび上がった。高度な魔法で封印された情報だった。

「解読できそうか?」

公爵の問いに、エルザは静かに頷いた。「時間をいただければ…」

その間、父さんは懐中時計の裏蓋にあったモールス信号の解読を終えていた。

「…ダメだ。意味のない文字列の羅列だ。『A-Z-T-H-O-T-H』…何かの固有名詞か?」

その時、私はふと、詩集のあるページに、ごく薄い鉛筆の跡で、小さな印がついていることに気がついた。それは、特定の単語の上に付けられていた。

「お父さん、これ…」

私がそのページを指さすと、父さんはハッとした顔で、先ほどの文字列と詩集を見比べた。

「そうか…アナグラムだ!」

父さんは、詩集から印のついた単語を拾い出し、並べ替えていく。そして、解読できた言葉を見て、顔をこわばらせた。

『ヤツはニセモノ カギはケイン』

部屋がしんと静まり返る。全員の視線が、父さんに注がれた。

「鍵…? 俺が、鍵だというのか…?」

父さんの声が震えていた。その時、公爵がゆっくりと口を開いた。

「ケイン。お前に渡した、あの封筒だ」

喫茶店で、公爵が父さんに託した封筒。父さんはハッとして、懐からそれを取り出した。

「だが、これは殿下から…」

「ドッペルゲンガーは、俺がケイン、お前に何かを渡すことまで読んでいたのかもしれん。そして、お前が持っている"それ"こそが、奴らが狙う"鍵"だと勘違いした。だから、お前への警告を残した。偽物である俺(ドッペルゲンガー)を信用するな、そしてお前自身が鍵なのだ、と」

公爵の推理は、あまりに理路整然としていた。ドッペルゲンガーは敵でありながら、組織を裏切り、父さんに警告を残そうとしていた…? 混乱する私達をよそに、公爵は父さんに封筒を開けるよう促した。

父さんが震える手で封を開けると、中から出てきたのは、一枚の羊皮紙だった。そこに書かれていたのは、暗号化された文章と、一つの紋章。

「これは…王家の紋章…?」

エリュガードが呟いた。私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。前世の記憶が、その紋章を知っていた。それは、ヘルクの…私の夫であった国王が使っていた、古い王家の紋章だった。

「そうだ」と公爵が重々しく頷いた。「これは、六年前の"モハラ聖堂殺人事件"の真相に繋がる、唯一の手がかりだ。殺されたのは、当時の国王に仕えていた神官だった。そして、神官は死ぬ間際、王家に伝わる秘宝のありかを、この暗号に残した。その秘宝こそ、"魔女"を封印するための…」

その時、ずっと万年筆のカートリッジの解読を続けていたエルザが、か細い声を上げた。

「…解けました」

彼女の額には汗が浮かび、顔は青ざめていた。

「カートリッジに封印されていたのは…一つの名前でした」

彼女は、震える声でその名を告げた。

「"ザック・ハーヴェスト"……お父様の、名前です」

****
6日目の夜。

屋敷の空気は、鉛のように重かった。

ドッペルゲンガーの遺品から見つかった二つの手がかり。『ヤツはニセモノ カギはケイン』という警告と、万年筆に封じられた『ザック・ハーヴェスト』という名前。

これらは、何を意味するのか。

父さんは、自室にこもって考え込んでいた。公爵から受け取った羊皮紙の暗号と、ドッペルゲンガーの警告。二つの情報が、彼の頭の中で矛盾したまま渦巻いているようだった。

私は、心配になって父さんの部屋を訪ねた。

「お父さん…」

「シャーナか。どうした?」

父さんの目は、ひどく淀んでいた。親としての気遣いではなく、一つの巨大な謎に囚われた男の目だった。

「大丈夫…じゃないよね」

「…ああ」

父さんは、力なく笑った。「何もかもが、分からん。殿下は、"魔女"を封じるための秘宝だと言った。だが、ドッペルゲンガーは、俺に警告を残した。そして、奴の遺品には殿下の名前が…。まるで、殿下自身が危険だとでも言うように…」

その言葉に、私はエリュガードの忠告を思い出した。『食事を食わねえ』『父親の目じゃねえ』。そして、私自身が感じていた、公爵に対するほんの些細な違和感。

彼は、娘であるエルザを名前で呼ばず、いつも「娘」と呼ぶ。

彼は、父との昔話をする時、微妙に事実と違うことを言うことがあった。父は昔の仲間への情からか、それを指摘しなかったが。

彼は、「魔女」という言葉に、異常なまでの憎悪を剥き出しにする。まるで、個人的な怨恨でもあるかのように。

点と点が、繋がり始める。ドッペルゲンガーは、敵だった。だが、彼が本当に警告したかった相手は、"魔女"ではなかったとしたら?

「お父さん」

私は、意を決して言った。「ドッペルゲンガーが残した警告文…『ヤツはニセモノ』っていうのは、ドッペルゲンガー自身のことを指してるんじゃなくて…」

「……」

「今、私達と一緒にいる、ハーヴェスト公爵殿下のことだとしたら?」

父さんの顔から、サッと血の気が引いた。彼は私の両肩を掴んだ。その力は、恐怖に震えていた。

「馬鹿なことを言うな、シャーナ。殿下は、俺の命の恩人であり、かつての師だぞ。それに、エルザ嬢もいらっしゃる。父親が偽物だなどと…」

「でも、考えてみて。ドッペルゲンガーは、お父さんに警告を残そうとした。公爵殿下を殺して、彼になりすました。それは、公爵殿下が持っていた『何か』――お父さんに渡すはずだった『何か』を奪うためじゃなくて、お父さんを『偽の公爵』から守るためだったとしたら?」

「……!」

「そして、ドッペルゲンガーの遺品に『ザック・ハーヴェスト』の名前があった。それは、彼が『ザック・ハーヴェストは敵だ』と伝えたかったからじゃないの?」

父さんは、言葉を失っていた。私の突飛な仮説が、彼の中で無視できない可能性として芽生え始めたようだった。彼は、懐から取り出した二つのもの――本物の公爵から受け取った封筒と、ドッペルゲンガーの警告文のメモ――をテーブルに並べ、じっと見つめていた。

そして、身の危険を感じた私達は、今日の夜…つまり、6日目の夜に帰ることになった。エルザは私達との早すぎる別れを惜しんだだろうが、私達のことを思ってか、何も言わなかった。

嵐の前の静けさのように、その日の夕食は穏やかに進んだ。公爵は上機嫌でワインを嗜み、私達の未来について語っていた。

「この戦いが終われば、ケイン、お前も王都に戻ってこい。お前の力が必要だ。娘たちも、エルザと共に最高の教育を受けさせよう」

その言葉は、優しさに満ちていたが、今の私には、獲物を囲い込もうとする罠のようにしか聞こえなかった。

食事が終わり、一同が暖炉のある談話室で寛いでいた、その時だった。

父さんが、静かに立ち上がった。その顔には、一切の迷いが消えていた。彼は、ゆっくりと公爵の前まで歩いていく。

「殿下」

父さんの静かな呼びかけに、公爵はにこやかに顔を上げた。「どうした、ケイン」

「長年、あなたに仕えてきました。あなたの厳しさも、優しさも、誰よりも知っているつもりです」

父さんは、一呼吸置いた。そして、凍てつくような、しかし確信に満ちた声で、言い放った。

「お前は、さては…公爵殿下じゃねえな?」

「…なんのことかな?」

「お前のドッペルゲンガーが残したアナグラムからは、お前の名前がはっきりと浮かび上がったぜ」

「……それで?」

「それと、お前の事件の後処理の不始末のおかげで、ドッペルゲンガーの死体が現場に残っていただろ? それを解剖した結果、そいつの心臓は紫色になっていた。そして、悪魔に殺された人間の心臓は紫の心臓となり、鼓動を止める。お前が殺したんだろ?」

その瞬間、談話室の空気が凍った。メアリーとエルザが息を呑み、エリュガードが戦闘態勢に入るのが分かった。

公爵の顔から、笑みが消えた。

いや、消えたのではない。その形を変えたのだ。人間の浮かべるそれではない、歪で、底知れない愉悦に満ちた笑みへと。

「クク…ククク…。アハハハハハハ!」

甲高い、耳障りな笑い声が部屋に響き渡る。公爵の姿が、陽炎のように揺らめき始めた。その瞳は、もはや人間のそれではなく、燃えるような紅蓮の光を宿していた。

「気づくのが遅すぎたなァ、ケイン! 十日間もくれてやったというのに! あの役立たずのドッペルゲンガーが、余計な置き土産を残したか!」

声色も、口調も、もはやハーヴェスト公爵のものではなかった。それは、地の底から響くような、冒涜的な響きを帯びていた。

「き、さま…! いったい何者だ!」

父さんが叫ぶ。

偽物の公爵――その悪魔は、心底楽しそうに唇を舐めずりした。

「我がか? 我は、"魔女"が憎くてたまらない、ただの悪魔よ」

彼は、絶望するエルザを一瞥した。

「この娘の魂は、極上の味がする。"魔女"の血を引く、最後の器だからなァ。それを根絶やしにするためならば、公爵の一人や二人、喜んで喰らってやるとも」

悪魔の体から、黒い瘴気が立ち上る。重厚だったはずの屋敷が、まるで張り子のように軋み始めた。圧倒的な力の差。私達は、まんまと悪魔の巣に誘い込まれたのだ。

「そしてケイン。お前が持つ、その古びた羊皮紙…。それこそ、我が主が探し求める、この世界を絶望に染めるための、最後の鍵よ」

悪魔は、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。その指先が、空間を歪ませていく。

父が私達の前に立ち、命を賭して時間を稼ごうとするのが分かった。しかし、もう逃げ場はない。

ささやかな幸せを願っただけの私達の日常は、こうして、本物の絶望によって完全に喰らい尽くされようとしていた。私の前世の記憶も、父の覚悟も、この絶対的な存在の前では、あまりに無力だった。



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