クロニクル・エヴァーガーデン

カイル

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第一章

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父の言葉が、悪魔の嘲笑によって打ち砕かれる。談話室の豪奢な調度品が、まるで悪夢の一場面のように歪んで見えた。偽りの公爵――その正体である悪魔の体から立ち昇る黒い瘴気は、見る者の生存本能を直接削り取るような、冒涜的な圧力を放っていた。その瞳に宿る紅蓮の光は、地獄の業火そのものだ。

「き、さま…! ハーヴェスト殿下に何をした! いつからだ! いつから殿下を…!」

父、ケインの震える声は、怒りよりも深い絶望に染まっていた。師を、友を、目の前で得体の知れない何かに成り代わられていたという事実。その途方もない罪悪感と無力感が、彼の肩に重くのしかかっていた。

悪魔は、まるで極上の芝居を鑑賞するように、うっとりと父の苦悩を眺めている。

「いつから、だと? フン、愚問だな。貴様がこの街に戻ってくる、ずっと前からよ。奴はな、ケイン。お前のことをずっと探していた。弟子であり、唯一無二の友であったお前のことをな。"魔女"の手から世界を、そして何より"魔女"の血を引く我が娘を救うために、お前の力が必要だと信じて疑わなかった。実に、哀れな男よ」

悪魔は、隣で震えるエルザの顎を乱暴に掴み、くいと持ち上げた。エルザのサファイアのような瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「お、お父様を…返して…!」

「返す? ククク…もう喰った。魂の髄まで、な。だが、この娘の魂はまだだ。最高純度の"器"だからな。我が主…偉大なる"魔女"が降臨されるための、最後の贄。その魂を穢し、絶望の中で喰らうのが、我に与えられた至上の悦びよ!」

その言葉が、父の心の最後の箍を弾き飛ばした。

「――黙れ、外道が」

父の纏う空気が、変わった。村の穏やかな父親の仮面が剥がれ落ち、辺境で名を馳せた"狩人"の顔が姿を現す。その眼光は、悪魔の業火を凍らせるほどの、絶対零度の殺意に満ちていた。

「シャーナ、メアリー、エリュガード! 俺から離れるな! エルザ嬢もこちらへ!」

父の号令一下、私達は彼の背後へと駆け寄る。エリュガードは、懐から猟師用のナイフを抜き放ち、警戒態勢を取った。しかし、そんなものが悪魔に通用するはずもない。

「ホォ…? やる気か、人間。この我を相手に。面白い。存分に足掻いてみせよ。貴様の絶望が、この娘の魂をより一層美味くする!」

悪魔が指を鳴らすと、屋敷中の家具が生き物のように動き出し、私達に襲いかかってきた。椅子が、テーブルが、本棚が、牙を剥く獣と化す。

「させるかァッ!」

父が右手を前に突き出す。詠唱はない。ただ、圧倒的な意志の力だけで、彼の前に不可視の障壁が展開された。家具の猛攻が、見えない壁に阻まれて激しい音を立てる。しかし、父の額にはたちまち汗が滲んだ。悪魔の力は、あまりに強大すぎた。

「ケイン! 魔法だけが能じゃねえだろう!」

エリュガードが叫ぶ。その言葉に、父はハッと我に返った。そうだ、彼は魔法使いである前に、狩人なのだ。

「すまんな、エリュガード! シャーナ、メアリーを頼む!」

父は障壁の維持を解くと同時に、床を蹴った。悪魔が操る家具の隙間を、まるで流れる水のようにすり抜けていく。その動きは、もはや人間のそれではない。長年の経験によって磨き上げられた、獣を狩るための体捌き。

「小賢しい!」

悪魔が腕を振るうと、黒い瘴気が鞭となって父を襲う。しかし、父はそれを最小限の動きで躱し、距離を詰めていく。懐に潜り込みさえすれば、勝機はある。悪魔自身も、この肉体が元はただの人間であることを知っているはずだ。

父は、ダイニングテーブルの下を滑り込み、悪魔の死角へと回り込んだ。そして、腰に下げていた狩猟刀を抜き放ち、アキレス腱めがけて閃光のような一撃を放つ。

「グッ…!?」

悪魔が、初めて苦悶の声を上げた。肉体を乗っ取っていても、物理的な損傷は避けられない。体勢を崩した悪魔に、父は追撃の手を緩めない。心臓、喉、眉間。人体の急所を的確に、かつ無慈悲に狙い続ける。

「この…虫ケラがァァァ!!!」

逆上した悪魔が、周囲一帯に衝撃波を放った。私達は壁まで吹き飛ばされ、父も体勢を崩して後方へ跳ぶ。だが、その顔には確かな手応えがあった。

「どうした、悪魔。その程度か? それとも、師匠の体を使いこなせていないだけか?」

父の挑発に、悪魔の理性が焼き切れた。

「黙れ黙れ黙れェ! 人間風情が、我を語るなァ!」

悪魔の体から、さらに濃密な瘴気が噴き出す。もはや公爵の面影はなく、その姿は異形の怪物へと変貌しつつあった。鋭い爪、山羊のような捻じくれた角、そして背中からは、蝙蝠のような禍々しい翼が生え始めた。

「まずい…! あいつ、完全に肉体を支配する気だ!」

父の顔に焦りの色が浮かぶ。完全に悪魔の姿となれば、物理攻撃も通じなくなるかもしれない。そうなれば万事休すだ。

「決める…!」

父は覚悟を決めた。懐から、銀に輝く十字架を取り出す。それは、神聖な魔力を帯びた、対魔族用の切り札だった。しかし、これを使うには、全神経を集中させる必要がある。ほんの一瞬、無防備になる。

父が悪魔の隙を窺い、全魔力を十字架に込めようとした、まさにその刹那だった。

「――ヒッ!」

悲鳴は、メアリーのものだった。

悪魔の姿が、一瞬でメアリーの背後に移動していた。その長い爪が、メアリーの細い首筋に突きつけられている。

「動くな、ケイン」

悪魔の声は、先ほどまでの激情が嘘のように、冷え切っていた。

「……メアリーッ!」

父の動きが、完全に止まった。その顔から血の気が引き、狩人としての鋭い光が消え失せ、ただ娘の身を案じる父親の顔に戻っていた。

「おのれ…! 卑怯だぞ!」

エリュガードが怒りに震えるが、下手に動けない。

「卑怯? ククク…これが我らのやり方よ。最も効果的な手段を選ぶ。それだけのことだ」

悪魔は、メアリーの耳元で囁いた。「良い匂いがするなァ、小娘。恐怖に染まった魂の匂いだ。姉も美味そうだが、まずはお前から喰ってやろうか?」

「いやあああ! お父さあん!」

メアリーが泣き叫ぶ。その声が、父の心を抉った。武器を捨て、両手を上げる。完全な降伏の意思表示だった。

「分かった…! 娘には手を出すな。俺の命でよければ、くれてやる。だから、その子を…!」

「命乞いか? つまらんな。だが、いいだろう。まずはその忌々しい十字架を捨てろ。そして、お前が持つ"鍵"…あの羊皮紙をこちらへ渡せ」

絶望的な状況。誰もが、もう終わりだと思った。父が、ゆっくりと懐の羊皮紙に手をかけた。私達の未来が、世界そのものの運命が、今、悪魔の手に渡ろうとしていた。

その、あまりに残酷な静寂の中で。

父は、ふと、何かを思い出したように、天を仰いだ。そして、掠れた、震える声で、歌い始めた。

「……ねむれ…ねむれ…わが子よ…」

それは、歌と呼ぶにはあまりに拙く、音程も定からない、ただの呟きだった。しかし、その旋律には、どこか聞き覚えのある、懐かしい響きがあった。

悪魔が、訝しげに眉をひそめる。

「何だ、その歌は…。気でも狂ったか、ケイン」

その子守唄の一節は、歌の一部であるに留まらない。
その一節こそが、彼の想像を絶する高度な詠唱魔法の一節である。
………エデンの子守唄。
それは、彼が幼い私やメアリーを寝かしつける時に、いつも歌ってくれた子守唄だった。しかし、ただの子守唄ではない。その歌詞は、父と、彼の師であるハーヴェスト公爵だけが知る、特別な意味を持っていた。

「詠唱魔法。…………楽園協奏曲≪エデンコンチェルト≫」

その詠唱を聴いた瞬間、悪魔の体がビクンと大きく痙攣した。

「グ…ア…アア…!? こ、の歌は…! 脳に直接語りかけてくる!!! やめろ…! 我の頭の中に…入ってくるなァ!」

悪魔は、メアリーを突き放し、自らの頭をかきむしり始めた。その紅蓮の瞳が、激しく明滅を繰り返す。ケインは、涙を流しながら、それでも彼の頭にその情報を流し込み続けた。それは、師との思い出を、その魂に直接語りかけるような、祈りの歌だった。

そして、この記憶に直接干渉する高度な詠唱魔法は、ケイン程の魔術の天才だから出来る芸当であることは、言うまでもない。

『ひとつは友に…ひとつは娘に…銀のナイフで…分け合って…』

『やめろと言っている!!!』

悪魔の絶叫と、もう一つの、威厳のある低い声が、その肉体の中から同時に響き渡った。

『――ケインか…?』

「師匠(マスター)!!!」

父が叫ぶ。悪魔の顔が、陽炎のように揺らめき、一瞬だけ、私達が知るザック・ハーヴェスト公爵の苦悶に満ちた表情が浮かび上がった。

「すまなかったな…ケイン。俺が、不覚だった…」

公爵の声だった。悪魔に乗っ取られた魂の奥底から、彼は必死に語りかけてきていた。

「師匠! 今、助けます! だから…!」

「…もう、手遅れだ。我が魂は、もうこいつと混じり合いすぎた。引き剥がすことはできん。…だがな、ケイン。一つだけ、道は残っている」

公爵の顔が、再び悪魔のそれに歪む。

『させるかァ! この肉体は我のものだ!』

『黙れ、悪魔め! この命、貴様なんぞにくれてやるものか!』

二つの魂が、一つの肉体の中で、壮絶な主導権争いを繰り広げている。公爵の姿と悪魔の姿が、目まぐるしく入れ替わる。その光景は、あまりに凄惨だった。

そして、ついに。

悪魔の動きが、完全に停止した。その顔に浮かんでいたのは、紛れもない、ザック・ハーヴェスト公爵の、穏やかな微笑みだった。彼は、ゆっくりと自分の胸に視線を落とし、そして、震える私達を見つめた。特に、娘であるエルザの姿を、愛おしそうに。

「エルザ…強く、生きるんだぞ。お前の中には、"魔女"の血だけでなく、私という光も宿っているのだから…」

「お父様…? いや…! いやです! 死なないで!」

エルザが泣き崩れる。

公爵は、最後に父の方を向いた。その目には、深い感謝と、友への信頼が宿っていた。

「ありがとうな。ケイン…」

彼は、悪魔へと変貌していた自らの右腕を、ゆっくりと持ち上げた。その長く鋭い爪が、月明かりを浴びて妖しく光る。

「長生きしろよ」

その笑顔のまま。

彼は、一切の躊躇なく、その長い爪を、自らの心臓に深く突き立てた。

ザクリ、という、生々しい音が響き渡る。

「……ッ!!」

時が、止まった。

公爵の体から、黒い瘴気が悲鳴と共に霧散していく。紅蓮の光を放っていた瞳は、元の穏やかな色を取り戻し、しかし、その光は急速に失われていった。

「お父様ああああああっっっ!!!!」

エルザの絶叫が、静まり返った屋敷に木霊した。

ザック・ハーヴェスト公爵の体は、糸の切れた人形のように、ゆっくりと床に崩れ落ちた。その口元には、 ほのかな笑顔が浮かんでいた。まるで、最後の戦いに勝利し、安らかに眠りについた英雄のように。

悪魔は、死んだ。しかし、それは同時に、父の師であり、エルザの父親であった、一人の偉大な男の死を意味していた。

父は、ただ立ち尽くしていた。その手には、まだ羊皮紙が握られている。守るべきものは守った。しかし、失ったものはあまりに大きすぎた。

私の、八歳の夏に体験した、奇妙で、かけがえのない十日間の謎解きの日々は、こうして、愛する者の尊い犠牲という、あまりに重い真実と共に、幕を閉じる………

「はずだった」

その屋敷の窓際の木の上で、女がただ一人呟く。彼女は不気味にも口角が上がっていて、その姿をシャーナ達が気づくことはなかった。

「あの悪魔の死は、私の計画の内にすぎない。さあ、あともう少しだ。あともう少しで、私の計画の愛駒が手に入るよ…!!」

そのシルクハットを身に纏い、痩せ細ったその女は、それだけ言い残すと、忽然と姿を消す。

まるで、そこには誰もいなかったかのように。


****
公爵の亡骸は、屋敷の主寝室に静かに横たえられていた。悪魔の禍々しい形質は消え失せ、その顔には死闘の末の安らぎさえ浮かんでいるように見えた。
しかし、自らの手で心臓を貫いたその姿は、あまりに痛ましく、凄惨な真実を物語っていた。降り注ぐ朝の光が、部屋の埃をきらきらと照らし出し、死の静寂をより一層際立たせている。まるで、世界から色が失われてしまったかのような、灰色の夜明けだった。
私達は、誰一人として言葉を発することができなかった。父、ケインは壁に寄りかかり、虚空を睨んだまま微動だにしない。その目は深く落ちくぼみ、一夜にして十年も歳をとってしまったかのようだった。友を、師を、その腕の中で失ったのだ。
いや、正確には、彼が歌った子守唄が、師に自決を選ばせた。
その罪悪感は、彼の魂を内側から蝕んでいるに違いなかった。震える指先で、彼は何度も懐の羊皮紙に触れた。友が命を賭して守ろうとしたもの。悪魔が渇望した「鍵」。それは今や、鉛のように重い、呪いの遺品と化していた。

エリュガードは、壊れた家具の残骸のそばに立ち、窓の外を鋭く監視していた。
彼の猟師としての本能が、この静寂こそが嵐の前の不気味な凪であると告げているのだろう。その背中には、年不相応な緊張感が張り詰めていた。
メアリーは、私の腕の中で小さな体を震わせ、しゃくりあげていた。昨夜の恐怖と、敬愛していた「黒いおじさん」の死が、八歳の心にはあまりに重すぎたのだ。

その重苦しい沈黙を破ったのは、この悲劇の最も大きな被害者であるはずの、エルザだった。彼女は、一晩泣き明かしたのだろう、目は赤く腫れていたが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸びていた。彼女はゆっくりと父の亡骸に近づくと、その冷たくなった手にそっと自分の手を重ねた。
「お父様…」
凛とした声が、静かな部屋に響く。
「あなたの娘であることを、誇りに思います。あなたの戦いは、あなたの光は、私が必ず受け継ぎます。だから…どうか、安らかにお眠りください」
涙は、もう流れていなかった。そのサファイアの瞳には、悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような決意の光が宿っていた。彼女は、父の死を悼むだけでなく、その死の意味を理解し、自らの宿命として受け入れたのだ。"魔女"の血を引く者として、父が命を賭して守ろうとした世界のために戦うことを。
その気高い姿に、私達はただ圧倒された。父が、ゆっくりと顔を上げた。
「エルザ嬢…すまない…。俺が…俺がもっと早く気づいていれば…!」
「いいえ、ケイン様」エルザは静かに首を振った。「あなたは、父の魂を救ってくださった。悪魔の慰みものになることから、父の誇りを守ってくださったのです。心から、感謝しています」
その言葉は、父の心を救うにはあまりに優しすぎたが、それでも、凍てついていた彼の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「…帰ろう」
父が絞り出すように言った。
「すぐにでも、村へ。ここは、もう私達がいるべき場所ではない」
誰もが、その言葉に無言で頷いた。このモハラという街は、私達からあまりに多くのものを奪い去っていった。エルザとの別れは辛いが、彼女には彼女の戦うべき場所があり、私達には帰るべき場所がある。父は、私達子供たちを守ること、それだけを考えているようだった。

「出発の準備をしよう」
父の言葉を合図に、私達は重い体を引きずるようにして、この忌まわしい屋敷を去るための支度を始めた。私の胸の中では、前世の記憶が疼いていた。
かつて、私も王妃として、愛する夫ヘルクの死を看取った。国を守るための、彼の尊い犠牲。エルザの気丈な姿と、父の深い悲しみが、あの日の記憶と重なり、胸を締め付けた。また、大切なものを失ってしまった。
その喪失感が、灰色の朝の光の中で、じっとりと心を濡らしていた。
****
荷造りは、黙々と進められた。と言っても、元々が短い旅のつもりの軽装だ。すぐに終わってしまう。その手持ち無沙汰な時間が、かえって私達の心に重くのしかかった。会話はない。ただ、衣類を畳む音、革袋の留め金を閉める音だけが、虚しく部屋に響いていた。
私は、エルザの部屋のドアをそっとノックした。彼女もまた、一人で身の回りの整理をしているようだった。
「シャーナさん…」
私を見ると、彼女は少しだけ微笑んだ。その気丈な笑みが、私の胸を締め付ける。
「もう、行ってしまうのね」
「うん…。お父さんが、一刻も早く村に帰るって」
私達は、窓辺の椅子に並んで腰掛けた。窓の外では、モハラの街がいつもと変わらない喧騒を始めている。昨夜、この屋敷の一室で、世界の運命を揺るがすほどの死闘が繰り広げられたことなど、誰も知らない。

実の父親が死んだ。
その宿命は、十四歳の少女が背負うには、あまりに過酷な宿命だった。私は、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
「シャーナさん」エルザは、私の手をそっと握った。「あなたの中には、とても大きな力を感じる。それは、私が持つ魔法の才能とは、また違う種類の、もっと根源的な力。ただ、まだ眠っているだけ。…今は、その力を無理に目覚めさせないで。あなたには、私のような生き方をしてほしくない。村に帰って、メアリーやエリュガードと、幸せに生きてほしい」
その言葉は、私の心の奥底にある秘密を優しく包み込むようだった。彼女には、私の中に前世の記憶があることまで見えているのかもしれない。
「ありがとう、エルザ。でも、もし何かあったら…絶対に、一人で抱え込まないで。私達は、友達でしょう?」
「ええ、もちろんよ」
エルザは、サファイアの瞳を潤ませながら、力強く頷いた。私達は、短い間だったけれど、同じ悲劇を乗り越え、確かに魂で繋がったのだ。
階下では、父とエリュガードが最後の準備をしていた。エリュガードは、父の消耗しきった様子を心配そうに見つめていた。
「親父さん…本当に大丈夫か? 少し休んだ方が…」
「平気だ」父は短く答えた。「お前こそ、ありがとうな、エリュガード。お前の洞察力がなければ、俺達はもっと早くに奴の罠に落ちていたかもしれん。…これからも、シャーナとメアリーを、頼む」
「当たり前だろ」
エリュガードはぶっきらぼうにそう言うと、顔を背けた。彼の耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

「……そういや、親父さん。エデンの夢についての子守唄について…話があるんだけど、良いか?」

「……あ、ああ」

私は、どうしてエリュガードが、そんな子守唄なんかに関する話を持ち出したのか見当もつかなかった。私は、2人がいなくなったのを確認して、無邪気にもエルザと一緒に首を傾げた。
私は転生者でありながらも、だんだん子供らしくなってきてるっていうのが、うっすらと感じられたような…気がした。

****
やがて、全ての準備が整った。私達は、屋敷の重厚な鉄の門の前に立った。エルザが、見送りに来てくれた。別れの時が来たのだ。

「さようなら。シャーナさん。みんな」

父は、黙ってそれを受け取ると、深く頭を下げた。

「メアリー、元気でね」

エルザが屈むと、メアリーはわっと泣き出し、その首に強く抱きついた。

「エルザお姉ちゃん…! 死んじゃいやだよお…!」

「大丈夫よ。私は、死なないわ」

エルザは優しくメアリーの背中を撫で、そして、最後に私の方を向いた。私達は、言葉を交わす代わりに、強く、強く抱きしめ合った。温かい体温と、かすかな花の香りがした。

「必ず、また会おうね、シャーナさん」

「うん。必ず」

私達は、固い約束を交わした。これが、今生の別れにならないことを、心の底から祈りながら。エルザに背を向け、私達はモハラの喧騒の中へと歩き出した。蔦の絡まる屋敷の門の前で、たった一人、気高く立ち続けるエルザの姿が、だんだんと小さくなっていく。さようなら、私のたった一人の、特別な友達。どうか、あなたに光の導きがありますように。

****

エルザと別れた私達は、村へ帰るための合乗り馬車が発着する広場へと向かっていた。モハラの大通りは、相変わらずの活気に満ち溢れていた。行き交う人々の陽気な話し声、荷馬車の車輪が石畳を叩く音、露店の呼び込みの声。それらの全てが、まるで違う世界のできごとのように、私達の意識の表面を滑っていく。十日間の悪夢が嘘だったかのように、世界は日常を続けていた。

その、どこか現実感のない喧騒の中を歩いていると、ふと、メアリーが私の袖を引いた。

「ねえ、シャーナお姉ちゃん。村に帰ったら、エリュガードのお母さんのパイが食べたいな。それから、川で水遊びもしたい。お父さん、またお魚たくさん釣ってくれるかな?」

そのあまりに無邪気な言葉が、張り詰めていた私達の心を、ほんの少しだけ解きほぐした。父の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

「ああ、もちろんさ。腕によりをかけて、お前たちが食べきれないくらい釣ってやろう」

「本当? やったあ!」

メアリーの歓声が、灰色の世界に、ほんの一瞬だけ色を与えた。そうだ、私達には帰る場所がある。ささやかでも、幸せな日常が待っている。もう二度と、危険なことには関わらない。父も、きっとそう決意しているはずだ。エリュガードも、少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。

このまま、何事もなく村へ帰れる。そう、誰もが思い始めた、その時だった。

雑踏の中から、信じられないほど優しく、そして、心の最も深い場所を揺さぶる、懐かしい声が聞こえた。

「……シャーナ…? メアリー…?」

空気が、凍った。

私とメアリーは、まるで操り人形のように、ぎこちなく声のした方へ振り返った。父とエリュガードも、足を止めていた。

人通りがなくなった通りでただ一人、不気味な女性がこちらへ歩み寄ってくる。少しやつれ、着ている服も質素なものだったが、その顔立ちは、記憶の奥底に焼き付いて離れない、あの優しい面影そのものだった。緩やかに波打つ栗色の髪。慈愛に満ちた、柔らかな眼差し。私達が三歳の時に、病で村を離れ、そのまま行方が分からなくなっていた、最愛の母。

「……お母…さん…?」

メアリーのか細い声が、震えながら漏れた。

女性は、私達の姿を認めると、その美しい瞳にみるみるうちに涙を溜め、はっと息を呑んだ。

「まあ…! シャーナ、メアリーなのね…! こんなに、こんなに大きくなって…!」

その声、その仕草、全てが記憶の中の母親と寸分違わなかった。彼女は、ふらふらと私達に歩み寄ると、震える両手を広げた。

「お母さんよ…。ずっと、ずっとあなたたちに会いたかった…! 病が治って、あなたたちを探して、ようやく…ようやく会えた…!」

その言葉は、長年の渇望を癒す甘い蜜のように、私とメアリーの心に染み渡った。信じられない。夢を見ているようだ。でも、目の前にいるのは、紛れもなくお母さんだ。会いたくて、会いたくて、夜中に何度も泣いた、大好きなお母さん。

「お母さんっ!」

堰を切ったように、メアリーが叫んだ。彼女は、母親の胸に飛び込もうと、力強く地面を蹴った。私も、理屈ではなかった。ただ、母の温もりが欲しくて、その懐かしい香りに包まれたくて、無意識のうちに一歩、また一歩と足を踏み出していた。エリュガードは、あまりに突然の出来事に、ただ呆然と立ち尽くしている。

私達の小さな家族が、ようやく一つに戻れる。失われた時を取り戻せる。幸福の絶頂が、すぐそこまで来ていた。

その、瞬間だった。

「待てぇええええええっっっ!!!!!」

父の、喉が張り裂けんばかりの絶叫が、モハラの喧騒を切り裂いた。それは、単なる制止の声ではなかった。恐怖、驚愕、後悔、そして狂気にも似た絶望が入り混じった、魂そのものの叫びだった。

私とメアリーの足が、縫い付けられたようにその場に止まった。何が起きたのか分からず、恐る恐る父の方を振り返る。

そこに立っていたのは、私の知らない男だった。顔は父のものだが、その表情は、今まで見たどんな顔とも違っていた。血の気は完全に失せて蒼白になり、大きく見開かれた目は、目の前の母親を、まるでこの世で最も恐ろしい何かを見るかのように睨みつけていた。悪魔と対峙した時の比ではない。あれが恐怖と怒りだとすれば、これは、根源的な、抗いようのない運命に対する絶望そのものだった。

「シャーナ!!! メアリー!!! そいつに近寄るな! そいつは、お前たちのお母さんじゃない!!!」


*****
いよいよ、第一章、クライマックスです。続きが気になる人は、お気に入り登録、感想をよろしくお願いします!!
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