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序章

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今日はこの国の第一王子が立太子する日であり、11年間婚約を続けてきた婚約者との婚姻の日でもある。そんな一大イベントを前に王宮内だけでなく国中が浮き足立つような賑わいを見せている。唯一残念なことと言えば天気に恵まれなかった事だろう。雨が降りはしないが、厚く重い雲が空一面に広がっている。
人々が笑顔で過ごす中、豪華な部屋で、これまた豪華な婚礼衣装に身を包んだ女性はいつも通りの笑みを浮かべていた。その女性こそ、今日王子と婚姻を結ぶカタリーナである。王子とカタリーナの婚約が決まったのはエヴァトリス王子7歳、カタリーナ15歳の時だった。8歳も女性側が年上にも関わらず婚約が結ばれたのには一つの理由があった。それはカタリーナが異世界から現れる聖女しか使えないはずの治癒魔法を使えたからだ。数百年に一度現れる異世界からの聖女はこの国の象徴であり、国に安寧をもたらすと言われていた。その言葉が真実である事は聖女のいた年の災害、疫病の少なさがはっきりと物語ってる。異世界から現れた訳ではないが、そんな恩恵の可能性がある者を王国としは逃す事は出来ないのだろう。国中の期待を背負い結ばれたのが、この婚約だった。そう、完全な政略結婚である。
婚約を正式に結んだのはエヴァトリス王子が7歳の頃であったが、婚約者候補として関わる機会を得たのは王子が1歳になってすぐの頃である。カタリーナからすると小さい子の世話をする程度であったが、刷り込み効果は絶大であり、いつの間にかエヴァトリス王子はカタリーナに愛を囁くようになっていた。カタリーナもしばらくは「そのうち熱も醒めるだろう」と軽く流していたが成長と共に色気が増した事で異性として意識するようになり、そのうちにしっかりと絆されてしまったという訳だ。
二人は婚約者として良好な関係を築き今日という日を迎えようとしている。エヴァトリス王子に至っては長年の思いが叶ったこともあり誰の目からも明らかなほど機嫌がよかった。

カタリーナは支度が終わると数人の侍女を残し待人を待つ。その表情は怖いくらいにいつもと変わらない。
そうこうするうちに、部屋にノックの音が響き待ち人の来訪を知らせる。待ち人は婚礼衣装に身を包み満面の笑みを浮かべていたが、カタリーナと目が合うと少し眉を下げた。付き合いの長いエヴァトリス王子にはカタリーナが作り笑いを浮かべていることに容易に気づいたからだ。カタリーナは侍女たちがお茶の用意をし終えたことを確認するとエヴァトリス王子に人払いをお願いした。
「どうしたんだい?何か気になる事でもあった?」
先に口を開いたのはエヴァトリス王子だった。だが、口が重いようでカタリーナからの返事はすぐにはなく無言の時間が続く。5分ほど無言の時間が続きどうしたものかとエヴァトリスが苦笑いを浮かべるころにようやくカタリーナは重い口を開けた。
「半年ほど前に現れた異世界からの聖女についてでございます。」
その言葉を聞いたエヴァトリス王子は眉をひそめた。カタリーナはそれに気づかないように言葉を続ける。
「国王様と王妃様には既に話させていただきました。今日の婚姻半年後に異世界からの聖女を側室としてお迎え下さい。本来であれば、王妃にとお願いしたいところですがまだ国に慣れていないため公務の問題などがある様です。」
「議会からその様な話が出ているのは知っているが、私は承認などしていない」
すかさず声を荒げたエヴァトリスが反論するがカタリーナの表情は笑みを浮かべたままであり感情の変化は伺えない。
「異世界からの聖女様と一緒に過ごされている話をよく伺います」
「それは、公務の一つとして時間を割り振られているのだ。異世界の知識を知るための交流も王子の仕事の一つなんだよ」
エヴァトリス王子は少し疲れた様に話すが、やはりカタリーナの表情は変わらない。
「存じておりますし、咎めている訳ではありません。聖女様とこの国の王子が交流されるのは喜ばしい事です。」
エヴァトリス王子の言葉は事実であった。今まで異世界からの聖女が現れた場合歳の近い王族が聖女との多くの時間を共にし最終的には婚姻を結ぶ。直系で年の近い者が居ない場合は王族の血筋の高位貴族から選ばれる事もあったが、聖女と婚姻した者は例外なく王位についている。
「分かっていてくれたなら良かった・・・」
ホッとした様子で話し始めたエヴァトリス王子だったがカタリーナに言葉を遮られたためそれ以上話を続ける事は出来なかった。
「聖女様が公務に慣れたころ離縁して頂きたいと思います。なので、婚姻後は白い結婚でお願いしたく思います。聖女様が不快に思うかもしれませんし、何より間違って子どもができてしまったら問題となりますので。離縁後は神殿の方にお世話になる予定です。部屋も神殿の方で準備してくださると・・・」
カタリーナも緊張のせいか、いつもより饒舌である。いつもより早口で語られた言葉は両手を机につき勢いよく立ち上がったエヴァトリスによって途中で遮られる。
「そんな勝手な事は許さない。」
明らかに怒気を含む声色に一瞬だけカタリーナは目を見開いたが、すぐに表情を元に戻す。
「もう国王様も神殿も納得された事です。どうぞご了承下さい」
カタリーナはエヴァトリス王子の怒りを気にする様子もなく続けるが、エヴァトリスに話を聞く様子はない。お互いが言葉を発する事なく時間だけが過ぎていくが、本日は婚礼の日である。時間になれば担当の者から時間を知らせるためのノックが部屋に響く。
「ごめんない。もう少しだけ待ってもらえる?」
カタリーナの声に返事をしたのはエヴァトリスの侍従だった。
「かしこまりました。では、15分後にまた伺い、声をかけさせていただきます。」
扉越しの声には急ぐ様子は見られない。おそらく早めに声をかけにきてくれたのだろう。
カタリーナは何度か深呼吸をし、声を出す。
「では、ひとつだけお応え下さい。聖女様はエヴァトリス殿下にとって大切な方で間違えないですね」
カタリーナの声には明らかな緊張がこもり、言葉の最後の方には震えがあった。しかし、婚礼の儀を前にした緊張感と突然カタリーナに離縁の話をされ気が動転しているエヴァトリスには気づく事は出来なかった。
「確かに彼女は大切な人だ。だが、それはこの国にとって・・・」
エヴァトリスの答えにカタリーナはすぐに反論をする。
「そう言う意味で申しているのではない事はお分かりでしょう」
カタリーナの言葉にエヴァトリスは口をつぐみ視線を足下に下げる。どこまで行ってもこの王子はカタリーナに対して誠実であろうとするし、嘘をつく事はない。その誠実さで今までたくさんの愛を囁いてきたために、カタリーナにもエヴァトリスを愛する気持ちが生まれることになった。だが、その誠実さの全てが優しさではないことに18歳になったばかりのエヴァトリスに気づく事は出来なかった。
「お返事はそれで十分です。お帰りください。」
毅然とした態度を示すカタリーナに対してエヴァトリスは何かを話したそうな視線を向けるが、それを見なかったことにしたカタリーナなは自ら退出を促す様にドアを開けた。
「夜ゆっくりと話をしよう」
その一言だけを残しエヴァトリスは部屋を出る。
エヴァトリスの退室と交代で入って来ようとした侍女にカタリーナは声をかける
「10分だけ1人にしてくれる?」
侍女に視線を向けることもなく、カタリーナはベランダへと向かった。
「本当に残酷な人。こんな気持ち知りたくなかったのに、知らなければエヴァと聖女様の事だってちゃんと祝福してあげれたのに・・・」
カタリーナがエヴァトリスの愛称を口にしたのは聖女とエヴァトリスが並んで散歩をしている姿を見た時以来だろう。
カタリーナは聖女との交流がエヴァトリスの公務である事は理解し、納得もしていた。もちろん、それ以上の感情など持ってはいなかった。たまたま、庭園を散歩する2人を見るまでは・・・。2人が隣りを歩く距離は適切なものだった。ただ、エヴァトリスが聖女を見る眼差しは優しさと愛情に溢れており、時折切なさを感じさせるところもあった。カタリーナにとって、その時のエヴァトリスの表情と今日の無言が十分な答えだった。

結婚式は予定通り行われた。結婚式の主役である2人は終始笑顔を浮かべていたが、2人が私的な会話をする事はなかった。

夜夫婦の寝室では、準備されているワインにも手をつけずに待つエヴァトリスの姿があった。エヴァトリスは時計や入口のドアを何度も確認していた。しかし、その晩部屋に、カタリーナが現れる事はなかった。
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