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「話って何ですか」
ビルの屋上、駈の呼び出しに素直に応じた羽根田は、しかし二人きりになった瞬間、そう言って冷たい視線を寄越した。
室外機でごちゃごちゃしたエリアから離れたこの一角は、古びたベンチと小さな灰皿だけがぽつんと置いてある。
数年前に立入禁止になったこの場所の存在を知るのは、入れ替わりの激しいこの職場ではもう数えるほどしかいない。
座るように羽根田を促してはみたが、彼が従うことはなかった。
「分かっているだろ……この前のことだよ」
今まで一応は敬語で接していた駈のその口調に、羽根田は分かりやすく顔を顰める。
「もう気を遣う必要もないってことですか」
「ああ、そうだ」
「へぇ……ということは何処に異動になるんですかね、僕は」
神経質そうな眉を吊り上げ鼻で笑う彼に、駈は静かに首を振った。
「俺は俺なりに、あの部署で君たちに気を遣ってきたつもりだった。だけど……それは間違いだった」
「ふん、間違い、ねぇ」
「そう……気を遣ったフリをしていただけだった」
逸らされていた視線が一瞬、交わる。
「……フリ、ですか」
「ああ」
錆び付いた手すりに背中を預けながら、駈は頷いた。
「そうして勝手に一線を引いて、自分から君たちに踏み込む努力を怠った。その結果が……という訳さ」
「……」
羽根田は未だこちらを警戒する姿勢を崩さない。
だが、そんなのは想定内だったので駈はそのまま言葉を続けた。
「あれから大体ひと月、といったところか。今更と思われるかもしれないが……俺なりに、この環境をできるだけフラットに観察してみたんだ。で……色々と気付かされたよ」
じっとこちらを伺う羽根田に、駈は静かに語り掛けた。
「君の言う通り、この部署は上からも下からもせっつかれ、その中でバランスを取らないといけない大変さがある。そして……君が今まで、それを一手に引き受けていた。そうだろう?」
「……」
黙ったままの羽根田だったが、その眉がピクリと動いたのを駈は見逃さなかった。
「ちなみに、ろくすっぽ引継ぎもしなかった前任者にも話を聞いてみた。彼はこう言っていたよ、『楽な部署だった』って。そりゃそうだろうな……君がそいつの分まで、仕事を回してくれていたんだから」
(まぁ……だからこそ部長がここに俺を配置した、ということなんだろうけれど)
もちろんそれは胸に留め置いて、彼の方を見やる。
すると、今までただ聞いていただけだった羽根田がようやく口を開いた。
「別に、俺にそこまでの権限なんてありませんよ。ただ……あなたの言う通り、あちこちから尻を叩かれる部署なので……やるしかなかった、それだけです」
羽根田はそう言い捨てたが、再び交わったその視線に、先ほどのような鋭さは消えていた。
そんな彼の目を、駈はしっかりと見つめ返した。
「俺にこんなこと言われたって気持ち悪いだけかもしれないけれど……今までこの部署のために手を尽くしてくれて、ありがとうな」
「……!」
羽根田の目が見開かれる。
「いえ……当然のことをしたまでです」
言い方のせいもあり、より冷たく感じるその台詞。
だが彼の性格を知った今なら、その言葉に他意が無いことは明らかだった。
きっと彼はこの部署に配属され、仕事の回らない状況に悩みつつもひとり奮闘してきたのだろう――誰にも相談することなく。
その結果、上から警戒されることになるとはあまりに皮肉な話だった。
初夏というには冷たすぎる風が吹き抜けていく。
と、羽根田が「あの」と樋野を見る。
「煙草……いいですか」
「ああ、どうぞ」
羽根田は胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出す。
「君も吸うんだね」
「樋野さんも、ですか?」
「いや、俺じゃなくて……友達が」
英の車の中にわずかに残ったその香り。
いつ頃あいつはそれを覚えたのだろう。
ふう、と羽根田が煙を吐き出す。
その匂いはメンソール系で、羽根田はこちらが何も言っていないのにも関わらず「あんまり男性は吸わないですよね、こういうの」と照れたように頬をかいた。
「へぇ……なんというか、お疲れ様でした」
「いや、俺はただ話をしただけだし……」
すると藤河はぶんぶんと首を振る。
「いやいやいや、僕には絶対出来ませんって!」
「そうか? まぁでも、年の功ってやつかもな」
「まだ三十代でしょ」
藤河はそう突っ込んだが、まさに自分の言う通りだとも思う。
若かりし日の自分ならきっと、衝突したら最後、絶対に歩み寄ろうなどとは思わなかったはずだ。
「じゃあ、とりあえずこれで一件落着、というところですか?」
「まぁなぁ……ただ、彼には注意はしたんだ。やっぱり、所定の手続きをすっ飛ばすっていうのは危険だからさ。権利関係にモロに直結する問題だし、それで何かあってからでは遅いしな」
「そうですよね。責任問題になりますもんね」
「ああ。でも、本当に一番変えなきゃいけないのは、彼をそういうやり方に追い込んでしまったこの会社の体制なんじゃないか……って思うんだよな。だから、今度部長にでも相談してみようかと思ってる」
「……」
こちらをじっと見つめる藤河に、居心地の悪さを感じて「なんだよ」と口を尖らせる。
「いやぁ……やっぱ、樋野サンはこうでなくっちゃ、って」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味ですよ!」
藤河はそう言うと、「ごちそうさまです!」と席を立った。
ビルの屋上、駈の呼び出しに素直に応じた羽根田は、しかし二人きりになった瞬間、そう言って冷たい視線を寄越した。
室外機でごちゃごちゃしたエリアから離れたこの一角は、古びたベンチと小さな灰皿だけがぽつんと置いてある。
数年前に立入禁止になったこの場所の存在を知るのは、入れ替わりの激しいこの職場ではもう数えるほどしかいない。
座るように羽根田を促してはみたが、彼が従うことはなかった。
「分かっているだろ……この前のことだよ」
今まで一応は敬語で接していた駈のその口調に、羽根田は分かりやすく顔を顰める。
「もう気を遣う必要もないってことですか」
「ああ、そうだ」
「へぇ……ということは何処に異動になるんですかね、僕は」
神経質そうな眉を吊り上げ鼻で笑う彼に、駈は静かに首を振った。
「俺は俺なりに、あの部署で君たちに気を遣ってきたつもりだった。だけど……それは間違いだった」
「ふん、間違い、ねぇ」
「そう……気を遣ったフリをしていただけだった」
逸らされていた視線が一瞬、交わる。
「……フリ、ですか」
「ああ」
錆び付いた手すりに背中を預けながら、駈は頷いた。
「そうして勝手に一線を引いて、自分から君たちに踏み込む努力を怠った。その結果が……という訳さ」
「……」
羽根田は未だこちらを警戒する姿勢を崩さない。
だが、そんなのは想定内だったので駈はそのまま言葉を続けた。
「あれから大体ひと月、といったところか。今更と思われるかもしれないが……俺なりに、この環境をできるだけフラットに観察してみたんだ。で……色々と気付かされたよ」
じっとこちらを伺う羽根田に、駈は静かに語り掛けた。
「君の言う通り、この部署は上からも下からもせっつかれ、その中でバランスを取らないといけない大変さがある。そして……君が今まで、それを一手に引き受けていた。そうだろう?」
「……」
黙ったままの羽根田だったが、その眉がピクリと動いたのを駈は見逃さなかった。
「ちなみに、ろくすっぽ引継ぎもしなかった前任者にも話を聞いてみた。彼はこう言っていたよ、『楽な部署だった』って。そりゃそうだろうな……君がそいつの分まで、仕事を回してくれていたんだから」
(まぁ……だからこそ部長がここに俺を配置した、ということなんだろうけれど)
もちろんそれは胸に留め置いて、彼の方を見やる。
すると、今までただ聞いていただけだった羽根田がようやく口を開いた。
「別に、俺にそこまでの権限なんてありませんよ。ただ……あなたの言う通り、あちこちから尻を叩かれる部署なので……やるしかなかった、それだけです」
羽根田はそう言い捨てたが、再び交わったその視線に、先ほどのような鋭さは消えていた。
そんな彼の目を、駈はしっかりと見つめ返した。
「俺にこんなこと言われたって気持ち悪いだけかもしれないけれど……今までこの部署のために手を尽くしてくれて、ありがとうな」
「……!」
羽根田の目が見開かれる。
「いえ……当然のことをしたまでです」
言い方のせいもあり、より冷たく感じるその台詞。
だが彼の性格を知った今なら、その言葉に他意が無いことは明らかだった。
きっと彼はこの部署に配属され、仕事の回らない状況に悩みつつもひとり奮闘してきたのだろう――誰にも相談することなく。
その結果、上から警戒されることになるとはあまりに皮肉な話だった。
初夏というには冷たすぎる風が吹き抜けていく。
と、羽根田が「あの」と樋野を見る。
「煙草……いいですか」
「ああ、どうぞ」
羽根田は胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出す。
「君も吸うんだね」
「樋野さんも、ですか?」
「いや、俺じゃなくて……友達が」
英の車の中にわずかに残ったその香り。
いつ頃あいつはそれを覚えたのだろう。
ふう、と羽根田が煙を吐き出す。
その匂いはメンソール系で、羽根田はこちらが何も言っていないのにも関わらず「あんまり男性は吸わないですよね、こういうの」と照れたように頬をかいた。
「へぇ……なんというか、お疲れ様でした」
「いや、俺はただ話をしただけだし……」
すると藤河はぶんぶんと首を振る。
「いやいやいや、僕には絶対出来ませんって!」
「そうか? まぁでも、年の功ってやつかもな」
「まだ三十代でしょ」
藤河はそう突っ込んだが、まさに自分の言う通りだとも思う。
若かりし日の自分ならきっと、衝突したら最後、絶対に歩み寄ろうなどとは思わなかったはずだ。
「じゃあ、とりあえずこれで一件落着、というところですか?」
「まぁなぁ……ただ、彼には注意はしたんだ。やっぱり、所定の手続きをすっ飛ばすっていうのは危険だからさ。権利関係にモロに直結する問題だし、それで何かあってからでは遅いしな」
「そうですよね。責任問題になりますもんね」
「ああ。でも、本当に一番変えなきゃいけないのは、彼をそういうやり方に追い込んでしまったこの会社の体制なんじゃないか……って思うんだよな。だから、今度部長にでも相談してみようかと思ってる」
「……」
こちらをじっと見つめる藤河に、居心地の悪さを感じて「なんだよ」と口を尖らせる。
「いやぁ……やっぱ、樋野サンはこうでなくっちゃ、って」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味ですよ!」
藤河はそう言うと、「ごちそうさまです!」と席を立った。
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