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その日のバーは、土曜の夜だというのに常連客の姿もなく、いたって静かなものだった。
コトリ、とソーサーの上に置かれたグラスに駈は意識を戻す。
「元気ないみたいだね」
普段であれば虚勢の一つも張るところなのに、今日は「そんなことないですよ」のタイミングをまんまと逃してしまう。
なるべく早く酔いたくて注文したロックのウイスキーを舐めながら、駈は肩を落として笑った。
「仕事で、まぁ、ちょっと……」
でも、大したことじゃないですよと笑う駈に、マスターはグラスを磨こうとした手を止めた。
「……ねぇ、カケル君」
マスターがカウンター越しに駈を見つめる。
「覚えてるかい、この間のタクヤ君の話」
「……え?」
「言ってたでしょ。辛いときは、無理して笑わなくていいんだよ、って」
「……」
ふう、と息を吐き出す。
「ありがとう、マスター」
「いいえ!」
マスターはさりげなく片目を瞑ると、駈の目の前に彼専用のグラスを差し出した。
「話すだけでも楽になることって、あるからね」
その笑顔に誘われるように、軽くグラス同士を合わせた。
「そっか、異動かぁ」
椅子に腰かけたマスターはううん、と唸るとカウンターに肘をついた。
「でも、カケル君にとっては良かったんじゃない? 何だか大変な環境だったんでしょ?」
「……」
そんなマスターの言葉に、この店で倒れた例の出来事が蘇る。
「ええと、その節は本当にご迷惑をお掛けして……」
「えっ、いやいやそういうことじゃなくてだね、」
ぶんぶんと手を振るマスターに駈は「いやでもすみませんでした」と頭を下げると、「実はその後、色々とありまして……」と続けた。
「なるほど、そんなことがねぇ」
駈がざっと今までのことを話すと、マスターは感慨深げにそう呟いた。
「今回の件も、残念がってくれる奴もいたりして」
「そっか……」
「だから、少し寂しくはあるんです。これから良い関係を作っていこう、って矢先だったので……。でも、この処分自体に納得がいかないとか、そういうことはもちろん無くて。ただ、何というか、……」
要領を得ない駈を、マスターは急かさずに待ってくれている。
「すみません、上手くまとまらず……」
しゅんとする駈に、マスターは「いいんだよ」と優しく首を振った。
「……あの」
「何だい?」
「マスターってずっと、バーテンダーだったんですか」
マスターは目を見開くと、「僕の話でいいの?」と首を傾げながら笑った。
「そうだねぇ……アルバイトは色々としたけど、結局続いたのってこの仕事だけだったなぁ」
マスターはグラスにウォッカをつぎ足しながら懐かしむようにそう言った。
「すごいですね……こんなに長く、一つのことを極めていくだなんて」
しみじみとそう呟く駈に、マスターは「買い被りすぎだよ」と肩を竦める。
「まぁでも、こうして店を持つまでになるんだから、多少は何か縁があったのかもしれないね」
マスターはそう言うと、くっと片眉を上げてみせた。
「ああ、だけど一時期だけ、離れていたこともあったんだよ。もちろん、店を持つ前の話だけどもね」
頬杖を付きながら、マスターは手にしたグラスをゆらゆらと揺らした。
「じゃあ、そのときは何を……」
するとマスターはふふ、と不敵に笑うと、ずいっと駈の方へと顔を近づける。
「驚くなかれ……銀・行・員、だよ」
「ええ!?」
大声を上げてしまいきょろきょろと周りを見たが、そういえば二人きりになっていたのだと気付く。
「銀行員って……また、それはどうして」
するとマスターは人差し指と親指で円を作る。
「やっぱりどうしても、コレが欲しくなっちゃって」
「えっ、お金ですか?」
「……遊ぶ金、ってやつね」
マスターはニヤリと口角を上げた。
「何せあの頃は僕も若くてねぇ……結構好き放題していたからさ。それで、夜遊ぶためにも昼間の安定した仕事ってのをやってみよう、って一念発起したわけ。ほんと、とんでもない動機だよね」
「というか……想像できないです」
「そう?」
マスターはふふ、と目を細めるとグラスを傾けた。
でもね、とマスターは続けた。
「働いてみてすぐにね、『これは違う』って思った」
それでも一年は続けたんだけどね。そう言いながらマスターは実質三杯目のウォッカにレモンを絞り入れた。
「世の中にはさ、仕事とプライベート、完璧に分けられる人っているでしょ? でも僕はそういうの、出来ないタイプだったみたいでね。まぁ、それに気付けただけでも価値はあったのかもしれないね」
「……」
「……カケル君?」
マスターの声に、駈は「いや……」と顔を上げた。
「分かるな、って思っていたんです。僕の方がよっぽど、そういうタイプなので」
そう言ってくすりと笑うと、マスターもまた「お揃いだね」とおどけてみせた。
駈はカウンターの上で肘を抱えるようにしながら、ウイスキーの中の氷をじっと見つめていた。
「もちろん、どんな仕事にも学びがある、とかいうのも分かるんです。実際、今までの総務的な仕事だって、色々ありはしたけれど成長できた部分もあった訳だし……でも」
そこで言葉を区切ると、駈はグラスを持ち上げる。
表面の汗が滑り落ち、ぽたり、とカウンターに水滴を作った。
「このまま、自分のしたいことからただ遠ざかっていくのは……なんというか、やっぱり……」
そこまで言って、駈は口を閉ざした。
「カケル君……」
マスターから気遣う視線を送られ、駈はごまかすように首を振った。
別に、近寄ろうが遠ざかろうが、またかつての部署に返り咲けるわけではないのは分かっている。
そして……あの事件の日、社長から掛けられた言葉もまた、駈に重く圧し掛かっていた。
自分が営業として戦力になれるとはあまり思えないが……そんな自分であってもまだ必要としてくれる場所があるのなら、そこで力を尽くすべきなんじゃないか――
ここ数日、そのことは何度となく頭をよぎり、その度に駈は必死に答えを探そうとした。
しかし、未だに何が正解なのかは分からないままだった。
「ほんと、上手く行かないものですね」
駈はそう言って結局また笑い、グラスの残りを一気に飲み干した。
コトリ、とソーサーの上に置かれたグラスに駈は意識を戻す。
「元気ないみたいだね」
普段であれば虚勢の一つも張るところなのに、今日は「そんなことないですよ」のタイミングをまんまと逃してしまう。
なるべく早く酔いたくて注文したロックのウイスキーを舐めながら、駈は肩を落として笑った。
「仕事で、まぁ、ちょっと……」
でも、大したことじゃないですよと笑う駈に、マスターはグラスを磨こうとした手を止めた。
「……ねぇ、カケル君」
マスターがカウンター越しに駈を見つめる。
「覚えてるかい、この間のタクヤ君の話」
「……え?」
「言ってたでしょ。辛いときは、無理して笑わなくていいんだよ、って」
「……」
ふう、と息を吐き出す。
「ありがとう、マスター」
「いいえ!」
マスターはさりげなく片目を瞑ると、駈の目の前に彼専用のグラスを差し出した。
「話すだけでも楽になることって、あるからね」
その笑顔に誘われるように、軽くグラス同士を合わせた。
「そっか、異動かぁ」
椅子に腰かけたマスターはううん、と唸るとカウンターに肘をついた。
「でも、カケル君にとっては良かったんじゃない? 何だか大変な環境だったんでしょ?」
「……」
そんなマスターの言葉に、この店で倒れた例の出来事が蘇る。
「ええと、その節は本当にご迷惑をお掛けして……」
「えっ、いやいやそういうことじゃなくてだね、」
ぶんぶんと手を振るマスターに駈は「いやでもすみませんでした」と頭を下げると、「実はその後、色々とありまして……」と続けた。
「なるほど、そんなことがねぇ」
駈がざっと今までのことを話すと、マスターは感慨深げにそう呟いた。
「今回の件も、残念がってくれる奴もいたりして」
「そっか……」
「だから、少し寂しくはあるんです。これから良い関係を作っていこう、って矢先だったので……。でも、この処分自体に納得がいかないとか、そういうことはもちろん無くて。ただ、何というか、……」
要領を得ない駈を、マスターは急かさずに待ってくれている。
「すみません、上手くまとまらず……」
しゅんとする駈に、マスターは「いいんだよ」と優しく首を振った。
「……あの」
「何だい?」
「マスターってずっと、バーテンダーだったんですか」
マスターは目を見開くと、「僕の話でいいの?」と首を傾げながら笑った。
「そうだねぇ……アルバイトは色々としたけど、結局続いたのってこの仕事だけだったなぁ」
マスターはグラスにウォッカをつぎ足しながら懐かしむようにそう言った。
「すごいですね……こんなに長く、一つのことを極めていくだなんて」
しみじみとそう呟く駈に、マスターは「買い被りすぎだよ」と肩を竦める。
「まぁでも、こうして店を持つまでになるんだから、多少は何か縁があったのかもしれないね」
マスターはそう言うと、くっと片眉を上げてみせた。
「ああ、だけど一時期だけ、離れていたこともあったんだよ。もちろん、店を持つ前の話だけどもね」
頬杖を付きながら、マスターは手にしたグラスをゆらゆらと揺らした。
「じゃあ、そのときは何を……」
するとマスターはふふ、と不敵に笑うと、ずいっと駈の方へと顔を近づける。
「驚くなかれ……銀・行・員、だよ」
「ええ!?」
大声を上げてしまいきょろきょろと周りを見たが、そういえば二人きりになっていたのだと気付く。
「銀行員って……また、それはどうして」
するとマスターは人差し指と親指で円を作る。
「やっぱりどうしても、コレが欲しくなっちゃって」
「えっ、お金ですか?」
「……遊ぶ金、ってやつね」
マスターはニヤリと口角を上げた。
「何せあの頃は僕も若くてねぇ……結構好き放題していたからさ。それで、夜遊ぶためにも昼間の安定した仕事ってのをやってみよう、って一念発起したわけ。ほんと、とんでもない動機だよね」
「というか……想像できないです」
「そう?」
マスターはふふ、と目を細めるとグラスを傾けた。
でもね、とマスターは続けた。
「働いてみてすぐにね、『これは違う』って思った」
それでも一年は続けたんだけどね。そう言いながらマスターは実質三杯目のウォッカにレモンを絞り入れた。
「世の中にはさ、仕事とプライベート、完璧に分けられる人っているでしょ? でも僕はそういうの、出来ないタイプだったみたいでね。まぁ、それに気付けただけでも価値はあったのかもしれないね」
「……」
「……カケル君?」
マスターの声に、駈は「いや……」と顔を上げた。
「分かるな、って思っていたんです。僕の方がよっぽど、そういうタイプなので」
そう言ってくすりと笑うと、マスターもまた「お揃いだね」とおどけてみせた。
駈はカウンターの上で肘を抱えるようにしながら、ウイスキーの中の氷をじっと見つめていた。
「もちろん、どんな仕事にも学びがある、とかいうのも分かるんです。実際、今までの総務的な仕事だって、色々ありはしたけれど成長できた部分もあった訳だし……でも」
そこで言葉を区切ると、駈はグラスを持ち上げる。
表面の汗が滑り落ち、ぽたり、とカウンターに水滴を作った。
「このまま、自分のしたいことからただ遠ざかっていくのは……なんというか、やっぱり……」
そこまで言って、駈は口を閉ざした。
「カケル君……」
マスターから気遣う視線を送られ、駈はごまかすように首を振った。
別に、近寄ろうが遠ざかろうが、またかつての部署に返り咲けるわけではないのは分かっている。
そして……あの事件の日、社長から掛けられた言葉もまた、駈に重く圧し掛かっていた。
自分が営業として戦力になれるとはあまり思えないが……そんな自分であってもまだ必要としてくれる場所があるのなら、そこで力を尽くすべきなんじゃないか――
ここ数日、そのことは何度となく頭をよぎり、その度に駈は必死に答えを探そうとした。
しかし、未だに何が正解なのかは分からないままだった。
「ほんと、上手く行かないものですね」
駈はそう言って結局また笑い、グラスの残りを一気に飲み干した。
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