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8 へたくその恋
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件のディナーからさらに数日後、テオドールとアルテリアは対峙していた。不機嫌そうな表情のテオドールとは対照的にアルテリアは楽しくて仕方がないという様子だった。アルテリアが勝手にいなくなったあの日以降、テオドールはアルテリアを捕まえられないでいた。のらりくらりとかわされ、今日やっと二人は席に着いて話すことが出来ている。
「どういうつもりだ」
「いきなりだなあ。どうにもこうにも、少し考える時間が必要かなって思っただけだよ」
「だからといって避け続けるのはどうなんだ」
「君がそんなに必死になっているのはなかなか見られないからね」
テオドールは舌打ちしたい気持ちをぐっと抑えて、落ち着くために紅茶を一気に飲み干す。すでに温くなっていたそれはちょうどよく喉を潤した。正直に言うと、考える時間が必要だったのは確かだった。しかし、それと同じくらいに誰かに相談したかったと言うのもまた事実で。そしてこんなことを相談できるのはテオドールにとってはアルテリアしかいなかった。
「それで、答えは出たのかい」
「……俺はフィオナ嬢に、……その、好意を抱いている、と、言わざるを得ない」
「歯切れが悪いな」
「うるさい」
自分の気持ちについて、それはもう実は整理は出来ているテオドールだが、如何せんこれまで人を好きになったことがない、それどころか恋愛ごとで騒ぐ級友たちを呆れた目で見てすら居た。だから実際言葉にするのが、酷く躊躇われた。誰かを好きだと、誰かに好意を抱いていると、本人でない人に言うことすらこんなにも難しいことかとテオドールは頭を抱えていた。
「お前はすごいな、アルテリア」
「褒められてる?」
「ああ、最大級に」
アルテリアは満足したように頷いた。アルテリアにとって女性に声をかけたり好意を告げたりすることは挨拶のようなものであり(いずれも本人は本気だと言うが)テオドールのそれとは随分違うのだけれど、初めて恋をしただろう友人が相談する先が自分であるのが嬉しいと、そう思っていた。まして相手は自分の敬愛する姉である。二人が懇意にすれば一番利を得るのはアルテリアであった。
「テオ、君が適当な男じゃないと言うのは知っているんだけど、君のうちは筆頭公爵家だ。僕のうちは伯爵家、身分差がそれなりにあると思わないかい?」
「……お前の家が伯爵家だとしても、序列は上位だし、何よりお母上が次席公爵家出身だ。無理のない話だと思うが」
「ふふ、そうだね」
テオドールは、アルテリアが爵位や身分差の話をすることを快く思っていなかった。伯爵家としてけして低くはない身分を持つアルテリアであり、人から嫌われないとはいえ、筆頭公爵家の嫡男であるテオドールと仲がいいことを『媚売り』だと嘲る人間もいた。もちろん二人はたまたま気があったから付き合いを続けているだけで、そこに打算はない。幸いにも二人とも自分に向けられる周囲の言葉に頓着することがないため、特に気にしては居ないが、それがフィオナが絡むとなれば別の話だ。
「姉さんはね、社交界で『行き遅れ』と呼ばれているんだ」
「なんだその下賎な呼び名は」
「まあ、もう二十四にもなるからね、本来なら女性は十六を過ぎたら結婚の準備に入るものだから」
「……古い考え方だ」
「テオだって姉さんが結婚していないことに驚いただろ」
その言葉には否定できなかった。なにせ二人の初対面はテオドールがフィオナを「ミセス」と呼んだところから始まっているのだから。とはいえ、社交界での噂は気持ちのいいものではない。フィオナはあまり夜会やお茶会に顔を出さないらしいが、それが余計に噂に拍車をかけているともアルテリアは言った。参加すれば心無い貴族たちから「結婚はまだか」と皮肉を言われ、参加しなければ「結婚していないから」と陰口を言われる。テオドールが嫌いな貴族社会そのものだった。
「うちは両親の方針で婚約者がいないって言っただろう」
「ああ」
「姉さんはね、十七のとき、一度婚約していたんだ」
「……は?」
まさに寝耳に水だった。アルテリアはテオドールの反応を窺うようにその瞳をじっと見た。端正な作りのなかその瞳は色濃いブルーをしていて、いまはぐらりと揺れている。想像もしていなかったのだろう。テオドールは何かを言おうとしては口を開き、逡巡しまた閉じることをしばらく繰り返した。ふたりの間に流れた、たっぷりな沈黙のあと、テオドールは「……話を聞こう」とつぶやいた。
***
姉さんには王立学園に通う前からの幼馴染が居たんだ。もちろん僕にとっても幼馴染といって差し支えはないけどね、それでも年齢の近い姉さんのほうが彼とは仲がよかった。父親同士が仲がよかったうえに、領地も近かったから、僕らはよく遊んだよ。幼いながらに、彼が姉さんのことを好きだと言うことに、僕は気づいていた。姉さんは気づいていなかったみたい、ああ見えて自分のことには鈍いからさ。だから、王立学園に入るころに彼が姉さんにプロポーズしたことを、姉さん以外だれも驚いていなかった。婚約自体は卒業後ということになったから保留されたけど。
王立学園に通いだしてからも二人は仲睦まじかったと聞いてるよ。パーティやイベントには必ず彼が姉さんをエスコートして出席していたらしい。王立学園を出ればすぐにでも婚約し結婚するだろうと誰もが思っていた。僕だってね。そして二人が王立学園を卒業した年、正式に婚約をした。
本当はすぐ結婚するはずだったんだ。でもちょうどそのタイミングで彼の兄上が病気で倒れたんだ。彼は侯爵家の次男でね、結婚後はうちが持つ領地と祖父方の伯爵位を継ぐはずだった。でも、跡継ぎである彼の兄上が倒れて、万が一のことがあったら困るからと結婚は延期された。そして二年後、その万が一が起こってしまった。
侯爵家を継ぐことになった彼は、親の決めた新しい婚約者と結婚を決めた。つまり姉さんとの婚約を破棄したということだ。あちらのほうが身分は高いからね、うちとしては頷くほかなかった。慰謝料だとかいう話になったけど、母さんがそれを突っぱねて、それっきりだ。
姉さんの気持ち? そうだな、姉さんは、あの婚約破棄のことを誰にも話したことがないんだ。母さんにも父さんにも、もちろん僕にも。
「姉さんは笑ったんだ。僕たちに、『大丈夫よ』って。辛くないはずがないのに、大丈夫なはずがないのに」
アルテリアの話に、テオドールはただ黙ることしか出来なかった。幼馴染との婚約、そして婚約破棄、政略的なものとは違う、そこには確かに温かなものがあったはずだ。それを失うかもしれない恐怖を二年も過ごし、そして失った彼女が辛くないはずがない。
テオドールはまだフィオナと出会ってあまり時間を過ごしては居ない。それでも、彼女の芯の強さについては感じていた。まさか、そんなところからきているとは思いもしなかったけれど。
「テオ、もしも君が本気だというのなら、約束してくれ」
「……」
「絶対に姉さんを裏切らないと、姉さんの手を、離さないと」
見たこともないほど真剣な、それでいて脆く見える友人に、テオドールはフィオナの後姿を思い出していた。お手本のようなカーテシー、まっすぐと伸びた背中、そして微笑む表情。心臓がどくりと跳ねた。彼女が運命だと叫んだ心が、また叫ぶ。
彼女は、幸せにならなければならない。そして、その相手は俺でなくてはならないのだ、と。
「姉さんに一度聞いたことがあるんだ。『彼をすきなの?』って、そうしたら、姉さんは少し考えて『きっとね』と答えた。テオドール、姉さんはまだ、恋を知らない。だからまだあんなことに囚われているんだ。だから君が、教えてあげて欲しい。大丈夫だよ、親友である僕が保証する。きっと君たちは、いいパートナーになる」
そういって微笑んだアルテリアの薄紫の瞳は、朝露が落ちたように濡れて、揺らいでいた。
「どういうつもりだ」
「いきなりだなあ。どうにもこうにも、少し考える時間が必要かなって思っただけだよ」
「だからといって避け続けるのはどうなんだ」
「君がそんなに必死になっているのはなかなか見られないからね」
テオドールは舌打ちしたい気持ちをぐっと抑えて、落ち着くために紅茶を一気に飲み干す。すでに温くなっていたそれはちょうどよく喉を潤した。正直に言うと、考える時間が必要だったのは確かだった。しかし、それと同じくらいに誰かに相談したかったと言うのもまた事実で。そしてこんなことを相談できるのはテオドールにとってはアルテリアしかいなかった。
「それで、答えは出たのかい」
「……俺はフィオナ嬢に、……その、好意を抱いている、と、言わざるを得ない」
「歯切れが悪いな」
「うるさい」
自分の気持ちについて、それはもう実は整理は出来ているテオドールだが、如何せんこれまで人を好きになったことがない、それどころか恋愛ごとで騒ぐ級友たちを呆れた目で見てすら居た。だから実際言葉にするのが、酷く躊躇われた。誰かを好きだと、誰かに好意を抱いていると、本人でない人に言うことすらこんなにも難しいことかとテオドールは頭を抱えていた。
「お前はすごいな、アルテリア」
「褒められてる?」
「ああ、最大級に」
アルテリアは満足したように頷いた。アルテリアにとって女性に声をかけたり好意を告げたりすることは挨拶のようなものであり(いずれも本人は本気だと言うが)テオドールのそれとは随分違うのだけれど、初めて恋をしただろう友人が相談する先が自分であるのが嬉しいと、そう思っていた。まして相手は自分の敬愛する姉である。二人が懇意にすれば一番利を得るのはアルテリアであった。
「テオ、君が適当な男じゃないと言うのは知っているんだけど、君のうちは筆頭公爵家だ。僕のうちは伯爵家、身分差がそれなりにあると思わないかい?」
「……お前の家が伯爵家だとしても、序列は上位だし、何よりお母上が次席公爵家出身だ。無理のない話だと思うが」
「ふふ、そうだね」
テオドールは、アルテリアが爵位や身分差の話をすることを快く思っていなかった。伯爵家としてけして低くはない身分を持つアルテリアであり、人から嫌われないとはいえ、筆頭公爵家の嫡男であるテオドールと仲がいいことを『媚売り』だと嘲る人間もいた。もちろん二人はたまたま気があったから付き合いを続けているだけで、そこに打算はない。幸いにも二人とも自分に向けられる周囲の言葉に頓着することがないため、特に気にしては居ないが、それがフィオナが絡むとなれば別の話だ。
「姉さんはね、社交界で『行き遅れ』と呼ばれているんだ」
「なんだその下賎な呼び名は」
「まあ、もう二十四にもなるからね、本来なら女性は十六を過ぎたら結婚の準備に入るものだから」
「……古い考え方だ」
「テオだって姉さんが結婚していないことに驚いただろ」
その言葉には否定できなかった。なにせ二人の初対面はテオドールがフィオナを「ミセス」と呼んだところから始まっているのだから。とはいえ、社交界での噂は気持ちのいいものではない。フィオナはあまり夜会やお茶会に顔を出さないらしいが、それが余計に噂に拍車をかけているともアルテリアは言った。参加すれば心無い貴族たちから「結婚はまだか」と皮肉を言われ、参加しなければ「結婚していないから」と陰口を言われる。テオドールが嫌いな貴族社会そのものだった。
「うちは両親の方針で婚約者がいないって言っただろう」
「ああ」
「姉さんはね、十七のとき、一度婚約していたんだ」
「……は?」
まさに寝耳に水だった。アルテリアはテオドールの反応を窺うようにその瞳をじっと見た。端正な作りのなかその瞳は色濃いブルーをしていて、いまはぐらりと揺れている。想像もしていなかったのだろう。テオドールは何かを言おうとしては口を開き、逡巡しまた閉じることをしばらく繰り返した。ふたりの間に流れた、たっぷりな沈黙のあと、テオドールは「……話を聞こう」とつぶやいた。
***
姉さんには王立学園に通う前からの幼馴染が居たんだ。もちろん僕にとっても幼馴染といって差し支えはないけどね、それでも年齢の近い姉さんのほうが彼とは仲がよかった。父親同士が仲がよかったうえに、領地も近かったから、僕らはよく遊んだよ。幼いながらに、彼が姉さんのことを好きだと言うことに、僕は気づいていた。姉さんは気づいていなかったみたい、ああ見えて自分のことには鈍いからさ。だから、王立学園に入るころに彼が姉さんにプロポーズしたことを、姉さん以外だれも驚いていなかった。婚約自体は卒業後ということになったから保留されたけど。
王立学園に通いだしてからも二人は仲睦まじかったと聞いてるよ。パーティやイベントには必ず彼が姉さんをエスコートして出席していたらしい。王立学園を出ればすぐにでも婚約し結婚するだろうと誰もが思っていた。僕だってね。そして二人が王立学園を卒業した年、正式に婚約をした。
本当はすぐ結婚するはずだったんだ。でもちょうどそのタイミングで彼の兄上が病気で倒れたんだ。彼は侯爵家の次男でね、結婚後はうちが持つ領地と祖父方の伯爵位を継ぐはずだった。でも、跡継ぎである彼の兄上が倒れて、万が一のことがあったら困るからと結婚は延期された。そして二年後、その万が一が起こってしまった。
侯爵家を継ぐことになった彼は、親の決めた新しい婚約者と結婚を決めた。つまり姉さんとの婚約を破棄したということだ。あちらのほうが身分は高いからね、うちとしては頷くほかなかった。慰謝料だとかいう話になったけど、母さんがそれを突っぱねて、それっきりだ。
姉さんの気持ち? そうだな、姉さんは、あの婚約破棄のことを誰にも話したことがないんだ。母さんにも父さんにも、もちろん僕にも。
「姉さんは笑ったんだ。僕たちに、『大丈夫よ』って。辛くないはずがないのに、大丈夫なはずがないのに」
アルテリアの話に、テオドールはただ黙ることしか出来なかった。幼馴染との婚約、そして婚約破棄、政略的なものとは違う、そこには確かに温かなものがあったはずだ。それを失うかもしれない恐怖を二年も過ごし、そして失った彼女が辛くないはずがない。
テオドールはまだフィオナと出会ってあまり時間を過ごしては居ない。それでも、彼女の芯の強さについては感じていた。まさか、そんなところからきているとは思いもしなかったけれど。
「テオ、もしも君が本気だというのなら、約束してくれ」
「……」
「絶対に姉さんを裏切らないと、姉さんの手を、離さないと」
見たこともないほど真剣な、それでいて脆く見える友人に、テオドールはフィオナの後姿を思い出していた。お手本のようなカーテシー、まっすぐと伸びた背中、そして微笑む表情。心臓がどくりと跳ねた。彼女が運命だと叫んだ心が、また叫ぶ。
彼女は、幸せにならなければならない。そして、その相手は俺でなくてはならないのだ、と。
「姉さんに一度聞いたことがあるんだ。『彼をすきなの?』って、そうしたら、姉さんは少し考えて『きっとね』と答えた。テオドール、姉さんはまだ、恋を知らない。だからまだあんなことに囚われているんだ。だから君が、教えてあげて欲しい。大丈夫だよ、親友である僕が保証する。きっと君たちは、いいパートナーになる」
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