3 / 7
第一章 鼓草の魔術師
02
しおりを挟む
「何々!? 何の音?」
突如として鳴り響いた轟音。夢現であった私の意識は、強制的にこちら側へと連行された。全身に鳥肌を立たせながら、硬めのベッド上で勢いよく身を起こす。が、
ごすっ
「うぐっ」
クローゼットを改造して造られた特性の寝床だ。自室の中でも最も天井と近いことを忘れていた。ぎりぎりと引き絞られ、その後に放たれた矢のような速度で衝突し、鈍痛が襲う。
「くぅーっ」と、額を両手で抱え、前かがみになって耐える。視界がぱちぱちと歪むが、そのおかげで思考は急速に覚醒した。
涙だとは思うが、視界が若干湿っぽく曇っている。再度頭をぶつけないように、姿勢を低くしてベッドから飛び降りると、すぐに階段へと走った。元々、ランドルフが一人で住むために建築されたあばら家であるため、二階には簡易的な物置部屋とその隙間に無理矢理設けられた私の自室しかなく、窓も設置されていない。先程の音の正体を確かめるには、一度一階に降りる必要があるのだ。
タッタッタっと駆け足で階段を駆け下り、リビングへと飛び込む。
「やぁ。先週ぶりだね」
「え? あれ? オルグレン?」
そこには、ソファの隣のぼろ椅子に深く腰を下ろし、どこから調達したのか黒い液体の注がれたピカピカの白いカップを片手に、優雅に寛いでいるオルグレンの姿があった。いつも通りの胡散臭い笑顔を浮かべ、こちらを振り向きながら軽く手を挙げる。
「ランドルフから、ルナはもう寝ているって聞いていたのだけど、もしかして僕に会うためにわざわざ顔を出してくれたのかい?」
「えっと、さっき、物凄く大きな音がしなかった? 直ぐ近くで落雷があったみたいな」
少しだけ荒くなった呼吸を整えながら尋ねた。
「ははは。見事なスルーだね。悲しくなるよ・・・・」
オルグレンは、わざとらしく切なそうな表情を作ってみせた。
「そんなことより、何か音がしなかった? びっくりしてそれで目が覚めたんだよ」
「音? そうだね。したよ。いきなりだったから、僕も驚いたよ」
「何の音だったの?」
「雷だよ」
「雷って、雨も降ってないのに?」
「そうさ。別に、雷と雨はセットってわけではないだろ? 可笑しなことではないと思うな」
「そ、そうだけどさ・・・」
「あ、そういえば、台所の食器放ったらかしみたいだけど、洗わなくても良いのかい?」
「げ? 嘘。洗ってないの?」
「本当さ。君に嘘はつけないよ」
流し台の方に顔を向ける。この位置からは確認できないが、そこには洗浄待ちの行列ができているのだろう。結局、私が処理することになるのか、と落胆する。
そこで、ふとあることが気になった。ランドルフはどこに行ったのだろうか?
「ねぇ? オルグレン?」
「何だい?」
こちらに後頭部を向けたまま、コーヒーをすする。
「ランドルフは?」
「ん? あぁ、ランドルフなら、そっ! 熱っ!」
想像よりも高温だったのか、口につけた途端にカップを遠ざける。さらに、勢い余ってカップから手が離れ、コーヒーが宙を舞った。
がしゃん
盛大に床にぶちまけられる漆黒の水滴。純白の陶器の破片も周囲に飛び散った。
「あちゃあ・・・やっちゃったよ」
「もう、何してんの? 子供じゃないんだから。今、雑巾持ってくるから少し待ってて」
まったく、自分があれだけ家を汚すなとうるさいくせに。聞かれると面倒なので、心の中で小言をぼやく。
「あぁ、大丈夫だよ。僕が何とかするから」
「でも・・・」
「君も言っただろう? 僕はお子ちゃまじゃないのさ。これくらい一人で片づけられるよ」
そう言って、ちらりとこちらに目をやる。その視線は、私の背後に向けられていた。
「それはそうと、ランドルフが帰ってきたみたいだよ」
「え?」
私は、反射的に後ろを振り返ろうとした。しかし、すぐに違和感に気付く。
ランドルフが帰ってきた? そんなわけがない。足音がしなかったのだ。数メートル先でヤモリが這う音でさえ鮮明に聞こえる自慢の耳が、あの巨体が地面を叩く音を逃すはずもない。
ずずずっと、聞きなれた音が耳に飛び込んでくる。それは、生物が発する音でもなければ、無機物の擦れる音でもない。どちらかというと、抽象的で実態のない、『嘘の音』に似た疑似的な音。周囲に溢れているため、意識しないと認識することはできないが、間違いなかった。
『魔力の流れる音』だ。
ぞくっと背筋に悪寒が走り、振り返ろうとして半分捻った体を無理矢理折り曲げて、その場にしゃがみ込む。
その瞬間、頭上を魔力の塊が通り抜けた。耳の先端を軽く掠め、リビングの壁に激突する。どすんという鈍い衝突音が響き、そちらを見上げるが、何かがぶつかったような痕跡は残っていなかった。続けて、オルグレンに視線を移す。そこで、状況を把握した。理由は分からないが、あの驚愕の表情、魔力弾を放ったのは紛れもなく、彼だろう。私が魔力の流れる音が聞こえることはランドルフにさえ告げていない。あの絶妙なタイミングで回避されるとは思ってもみなかったはずだ。
「くそっ」
オルグレンは、すぐさま椅子から立ち上がろうとする。私をどうするつもりにしろ、本腰を入れようというのか。そもそも、オルグレンと私では魔術師としての格が違いすぎる。魔術の打ち合いになれば、基礎魔術しか使用できない私に勝ち目はない。かといって、肉弾戦でも到底敵わないだろう。人族と亜人族では、基本的に亜人族の方が身体的優位な立場にあるのだが、私は子供で女で、しかも弱小種と名高い兎人族だ。脚力には自信があるのだが、上半身は人のそれであるため、腕力等については優位な立場にない。
だが、唯一攻勢に転じることが可能な点があった。ばっと右腕を上げ、手のひらをオルグレンに向ける。ここは、私が育った家だ。地の利はこちらにある。
「『漢は我慢と包容力』」
いつか、ランドルフのメモ帳を盗み見た際に記してあった『椅子の魔道具』の呪文を唱える。すると、どこから出現したのか、一瞬にして何本もの黒い帯のような物体が出現し、立ち上がる寸前のオルグレンに巻き付いた。
「なっ! これも、魔道具!?」
黒帯の大軍は吃驚する彼の肢体を何重にも拘束し、無理くりに椅子へと引き戻した。じたばたともがくが、とても頑丈で切れそうにない。
私は、すぐさま別の魔道具の元へと跳躍した。花の生けられていない荒んだ花瓶を豪快に蹴り落としながらテーブルに飛び乗る。ばきぃっと木材が泣く嫌な音がしたが、今はそれどころではなかった。背伸びをして真上に釣り下がる電球に手をかざす。
その姿を見て、オルグレンは蒼白し、取り分け強く抵抗した。
「駄目だ、ルナ!! 今この結界を解いたら!」
「『お化けの夫婦よ、姿を現せ』」
忠告を無視して、呪文を唱える。
ぱぁっと周囲の景色が変化し、幻覚で塗り固められた虚像が崩れ去る。そして、眼前に現実が広がった。
――――――――――――
リビングの崩壊部分から強風が吹き込んでくる。何かにより燃えたのか、周囲には黒く焦げた木材が散らばり、ぷすぷすと煙をあげていた。燃焼時の独特な匂いもする。数歩先にあるはずの窓、壁に立掛けられた埃をかぶった箒、申し訳程度に飾っていた名も無き絵画に、森で拾った綺麗な石を詰めた瓶・・・・つい数時間前までには確かにそこにあったはずの物、記憶に新しいそれらは全て、跡形もなく消滅していた。半分以上の面積を失い、居間としての機能を失った思い出の空間。外界との境界線も曖昧だ。頭上の電球はちかちかと明滅し、空の暗さと混ざり合って視界はかなり悪い。
「・・・・」
変わり果てた自宅の様子に、声を失った。驚きとか悲しみとか、そういった感情が込み上げる以前に理解が追い付いていなかった。一体、何があったのか? 頭の中をその疑問だけが埋め尽くしていた。傍らではオルグレンが、悲痛ともとれる表情を浮かべていた。
「ねぇ、これって、どういう、こと?」
わなわなと震える唇を無理矢理に動かして、尋ねる。
「僕も分からないよ。一体君たちは、何をしたんだい? ランドルフに君をここから出すなって言われたからっ!」
「しっ!」
吹き荒れる風の音に混じって微かな物音が聞こえ、さっと人差し指を唇に当てる。それを見て、オルグレンもすぐに口を噤む。何かを引きずるような摩擦音と、小さな足音。
「こっちに誰か来る・・・・」
じいっと暗闇の先に目をこらす。人影らしきものは見えないが、感覚的にそう遠くにはいないはずだ。
「だろうね。姿消しの魔術が解けたんだ」
「誰か分かるの?」
「あぁ。それよりも早くこの拘束を解いてくれないか。君を安全な場所まで転移させないと」
「それって、私が狙いってこと?」
「多分ね」
「何で私なんかを・・・・」
「それは、恐らく君のっ!」
オルグレンは、途中まで言葉を紡ぐと、何かを感じ取ったのか、きっと表情を強張らせた。私も再度暗闇に視線を移す。足音が近づくにつれ、ぼんやりと姿が視認できるようになっていく。そんなに大きくはない。いや、むしろ小さい。私とほとんど変わらないくらいの背丈だろうか。
「ごめんよ、ルナ。そろそろ本気で余裕がないようだ」
その人影も、こちらに気付いたようで、すっと歩みを止めた。
「あはぁ。いるじゃーん」
歓喜の声をあげたのは、ボリュームのある真っ赤な長髪を両サイドで束ねた釣り目の少女であった。年齢は同じくらいに見える。黒を基調としたぶかぶかのローブに、赤、黄、白色の螺旋模様がいくつも描かれている。あまり良い趣味とは言えない、黄色い髑髏に真っ赤な十字架が突き刺さったような禍々しいネックレスをぶら下げ、にぃっと口の端を吊り上げていた。左手でころころとそのネックレスを弄り、右手は背後に回し何か大きな物を掴んでいる。
「手遅れになる前に、僕を解放するんだ」
小声で囁くオルグレン。
「あは。本当に亜人なんだぁ。その耳、可愛いねぇ」
「貴方は、誰? それと、後ろに隠している物は何?」
体中を駆け巡る不吉な予感。暑くもないのに自然と汗が滲み出てきた。
「え? 知らないの? まぁ、無理もないか。ねぇ。教えて。なんで、貴方みたいな亜人風情が、あの方に必要とされたの?」
「先に、私の質問に答えて」
「えー。生意気なやつ。私を誰だと思ってるのかなー」
「分からないから聞いてるんでしょ」
「・・・・ふうん。そういう態度とるんだ」
ざぁっと一際強めの風が吹く。少女の声が明らかに一段トーンダウンした。同時にちかっと一瞬だが、少女の周囲に光が走る。私は直感的に身の危険を感じ、オルグレンの座る拘束椅子に手を伸ばした。
だが、少女が背後に隠していた物体を自らの足元に放り投げた瞬間に私の意識は完全にそちらへ持っていかれた。
「ランドルフ!」
それは、まごうことなくランドルフであった。完全に脱力しきっており、意識があるかも確認できない。もちろん、生死の判別も・・・・
「駄目だ! ルナ!」
オルグレンが叫ぶが、その時にはすでに駆け出していた。「くそっ」と、背後から舌打ちが聞こえる。
「面倒くさいのは嫌いだから、本当にあの方の弟子になる資格があるのか、確かめてあげるね。殺しちゃったらごめーん」
そう言って、少女は右手の人差し指をこちらに向ける。同時に聞こえる魔力の流れる音。音源は、指の先端。何かが来ると感じ、身構える。
「貫け。『レッドスパイダーリリー」」
「導いてくれ。『クリナム』」
ほぼ同時に前後から魔術の詠唱が響いた。まず目に写ったのは強烈な閃光。少女の指先から放たれたそれは、回避行動に移行する暇もない程の急速度で一直線に私へと向かってきた。避けられない。と、すぐに理解する。
だが、その一撃が私の体に触れる刹那。ばあっと視界が白一色に染まった。オルグレンの魔術だ。ふわりとした浮遊感に包まれる。そして、気が付くと木々が鬱蒼と生い茂る森の中にいた。
――――――――――――
「はぁ。何とか間に合った」
背後でオルグレンが荒い息を吐いていた。その顔には、大粒の汗が見える。拘束魔術に捕らわれながら、強制的に魔術を使用したため、かなりの負荷があったのだろう。片膝をついた状態で、ごほごほっと咳をしている。私は、すぐに彼に駆け寄って、肩にそっと手を添えた。
「ごめんなさい。オルグレン。私が言うことを聞かなかったから・・・・」
「いや、気にしないでよ。説明不足だった僕も悪かったからね」
にこりとするオルグレン。不自然な笑顔から、身体的な辛さが見て取れた。どれくらいの距離を転移したのか。今のところは、周囲にあの少女のものと思われるような気配はしない。
「ランドルフを、助けに行かないと・・・」
「駄目だ」
「でも」
「彼女はこの中央都市でも最高位の魔術師の一人だ。僕らが敵うような相手じゃない」
「あの子が?」
「あぁ。さっきの魔術名を聞いて確信したよ。『レッドスパイダーリリー』。中央都市、いや、この大陸であんな固有名を持つ魔術師は一人しかいない。『彼岸花の雷帝』、この地にて『最も多くの敵を殺した元帥』だよ」
「『元帥』って、どうしてそんな地位の魔術師が私を・・・・」
「言っていただろう? あの方の弟子になる資格があるのかって」
「でも、あれはきっと何かの間違いで」
「間違いなんかじゃないんだ。『創造の魔女』は、他ならぬ君を選んだんだよ」
「そんなの、ありえないよ」
「・・・・君には、君の過去には、君の知らない秘密が隠されているんだ。詳しくは話すことが出来ないんだけど、世界に関わる重大な秘密が」
「それって、私の夢と何か関係があるの?」
「あぁ」
すっとオルグレンが私の頬に手を当てる。
「これから、君はその過去と向き合って生きていかなければいけない。強い意志と、勇気、仲間への思いやり。正しい道を歩む必要は無い。正しいと思う道を歩むんだ。その先が絶望だとしても、絶望の先に何かが見つかるかもしれない」
真剣な眼差しで私の瞳を見つめる。
「素晴らしい瞳だ。まるで、オコビスのドラゴンのようだ。ふふ。血は繋がっていなくても、きちんと彼の意志を継いでいるんだね・・・・君の選択した未来は、僕が導くにはあまりにも大きすぎる。でも、この危機的状況を乗り越えるまでは、全力で君を導くよ。この名に誓って」
オルグレンは、手を頬から頭へと移動させ優しく撫でると、ゆっくりと立ち上がる。そして、混乱する私に「さぁ、とりあえず今は逃げよう。雷帝の狙いは君だ。遠くへ逃げれば、その分ランドルフからも危険が遠ざかる」と、手を差し伸べた。私は、ランドルフの安否が心配ではあったが、今はオルグレンを信用することにした。
「分かった」
こくんと頷き、差し伸べられた手を取る。
どごぉんと、遠方から激しい閃光と爆音が響いた。
「御怒りのようだね」
私は、ごくりと生唾を飲み込んだ。あんな雷撃を喰らったら、ひとたまりもないだろう。想像しただけで恐ろしい。
私たちは、音がした方向とは反対へと小走りで進み始めた。
――――――――――――
クリナム : 花言葉『どこか遠くへ、汚れのない、貴方を信じる』、別名『ハマユウ、ハマオモト』、特徴『神事の際に使用される木綿(ゆう)のような、垂れた白い花を咲かせる。花言葉のどこか遠くへは、種が波に乗り遠い地へ運ばれることに由来する』
――――――――――――
突如として鳴り響いた轟音。夢現であった私の意識は、強制的にこちら側へと連行された。全身に鳥肌を立たせながら、硬めのベッド上で勢いよく身を起こす。が、
ごすっ
「うぐっ」
クローゼットを改造して造られた特性の寝床だ。自室の中でも最も天井と近いことを忘れていた。ぎりぎりと引き絞られ、その後に放たれた矢のような速度で衝突し、鈍痛が襲う。
「くぅーっ」と、額を両手で抱え、前かがみになって耐える。視界がぱちぱちと歪むが、そのおかげで思考は急速に覚醒した。
涙だとは思うが、視界が若干湿っぽく曇っている。再度頭をぶつけないように、姿勢を低くしてベッドから飛び降りると、すぐに階段へと走った。元々、ランドルフが一人で住むために建築されたあばら家であるため、二階には簡易的な物置部屋とその隙間に無理矢理設けられた私の自室しかなく、窓も設置されていない。先程の音の正体を確かめるには、一度一階に降りる必要があるのだ。
タッタッタっと駆け足で階段を駆け下り、リビングへと飛び込む。
「やぁ。先週ぶりだね」
「え? あれ? オルグレン?」
そこには、ソファの隣のぼろ椅子に深く腰を下ろし、どこから調達したのか黒い液体の注がれたピカピカの白いカップを片手に、優雅に寛いでいるオルグレンの姿があった。いつも通りの胡散臭い笑顔を浮かべ、こちらを振り向きながら軽く手を挙げる。
「ランドルフから、ルナはもう寝ているって聞いていたのだけど、もしかして僕に会うためにわざわざ顔を出してくれたのかい?」
「えっと、さっき、物凄く大きな音がしなかった? 直ぐ近くで落雷があったみたいな」
少しだけ荒くなった呼吸を整えながら尋ねた。
「ははは。見事なスルーだね。悲しくなるよ・・・・」
オルグレンは、わざとらしく切なそうな表情を作ってみせた。
「そんなことより、何か音がしなかった? びっくりしてそれで目が覚めたんだよ」
「音? そうだね。したよ。いきなりだったから、僕も驚いたよ」
「何の音だったの?」
「雷だよ」
「雷って、雨も降ってないのに?」
「そうさ。別に、雷と雨はセットってわけではないだろ? 可笑しなことではないと思うな」
「そ、そうだけどさ・・・」
「あ、そういえば、台所の食器放ったらかしみたいだけど、洗わなくても良いのかい?」
「げ? 嘘。洗ってないの?」
「本当さ。君に嘘はつけないよ」
流し台の方に顔を向ける。この位置からは確認できないが、そこには洗浄待ちの行列ができているのだろう。結局、私が処理することになるのか、と落胆する。
そこで、ふとあることが気になった。ランドルフはどこに行ったのだろうか?
「ねぇ? オルグレン?」
「何だい?」
こちらに後頭部を向けたまま、コーヒーをすする。
「ランドルフは?」
「ん? あぁ、ランドルフなら、そっ! 熱っ!」
想像よりも高温だったのか、口につけた途端にカップを遠ざける。さらに、勢い余ってカップから手が離れ、コーヒーが宙を舞った。
がしゃん
盛大に床にぶちまけられる漆黒の水滴。純白の陶器の破片も周囲に飛び散った。
「あちゃあ・・・やっちゃったよ」
「もう、何してんの? 子供じゃないんだから。今、雑巾持ってくるから少し待ってて」
まったく、自分があれだけ家を汚すなとうるさいくせに。聞かれると面倒なので、心の中で小言をぼやく。
「あぁ、大丈夫だよ。僕が何とかするから」
「でも・・・」
「君も言っただろう? 僕はお子ちゃまじゃないのさ。これくらい一人で片づけられるよ」
そう言って、ちらりとこちらに目をやる。その視線は、私の背後に向けられていた。
「それはそうと、ランドルフが帰ってきたみたいだよ」
「え?」
私は、反射的に後ろを振り返ろうとした。しかし、すぐに違和感に気付く。
ランドルフが帰ってきた? そんなわけがない。足音がしなかったのだ。数メートル先でヤモリが這う音でさえ鮮明に聞こえる自慢の耳が、あの巨体が地面を叩く音を逃すはずもない。
ずずずっと、聞きなれた音が耳に飛び込んでくる。それは、生物が発する音でもなければ、無機物の擦れる音でもない。どちらかというと、抽象的で実態のない、『嘘の音』に似た疑似的な音。周囲に溢れているため、意識しないと認識することはできないが、間違いなかった。
『魔力の流れる音』だ。
ぞくっと背筋に悪寒が走り、振り返ろうとして半分捻った体を無理矢理折り曲げて、その場にしゃがみ込む。
その瞬間、頭上を魔力の塊が通り抜けた。耳の先端を軽く掠め、リビングの壁に激突する。どすんという鈍い衝突音が響き、そちらを見上げるが、何かがぶつかったような痕跡は残っていなかった。続けて、オルグレンに視線を移す。そこで、状況を把握した。理由は分からないが、あの驚愕の表情、魔力弾を放ったのは紛れもなく、彼だろう。私が魔力の流れる音が聞こえることはランドルフにさえ告げていない。あの絶妙なタイミングで回避されるとは思ってもみなかったはずだ。
「くそっ」
オルグレンは、すぐさま椅子から立ち上がろうとする。私をどうするつもりにしろ、本腰を入れようというのか。そもそも、オルグレンと私では魔術師としての格が違いすぎる。魔術の打ち合いになれば、基礎魔術しか使用できない私に勝ち目はない。かといって、肉弾戦でも到底敵わないだろう。人族と亜人族では、基本的に亜人族の方が身体的優位な立場にあるのだが、私は子供で女で、しかも弱小種と名高い兎人族だ。脚力には自信があるのだが、上半身は人のそれであるため、腕力等については優位な立場にない。
だが、唯一攻勢に転じることが可能な点があった。ばっと右腕を上げ、手のひらをオルグレンに向ける。ここは、私が育った家だ。地の利はこちらにある。
「『漢は我慢と包容力』」
いつか、ランドルフのメモ帳を盗み見た際に記してあった『椅子の魔道具』の呪文を唱える。すると、どこから出現したのか、一瞬にして何本もの黒い帯のような物体が出現し、立ち上がる寸前のオルグレンに巻き付いた。
「なっ! これも、魔道具!?」
黒帯の大軍は吃驚する彼の肢体を何重にも拘束し、無理くりに椅子へと引き戻した。じたばたともがくが、とても頑丈で切れそうにない。
私は、すぐさま別の魔道具の元へと跳躍した。花の生けられていない荒んだ花瓶を豪快に蹴り落としながらテーブルに飛び乗る。ばきぃっと木材が泣く嫌な音がしたが、今はそれどころではなかった。背伸びをして真上に釣り下がる電球に手をかざす。
その姿を見て、オルグレンは蒼白し、取り分け強く抵抗した。
「駄目だ、ルナ!! 今この結界を解いたら!」
「『お化けの夫婦よ、姿を現せ』」
忠告を無視して、呪文を唱える。
ぱぁっと周囲の景色が変化し、幻覚で塗り固められた虚像が崩れ去る。そして、眼前に現実が広がった。
――――――――――――
リビングの崩壊部分から強風が吹き込んでくる。何かにより燃えたのか、周囲には黒く焦げた木材が散らばり、ぷすぷすと煙をあげていた。燃焼時の独特な匂いもする。数歩先にあるはずの窓、壁に立掛けられた埃をかぶった箒、申し訳程度に飾っていた名も無き絵画に、森で拾った綺麗な石を詰めた瓶・・・・つい数時間前までには確かにそこにあったはずの物、記憶に新しいそれらは全て、跡形もなく消滅していた。半分以上の面積を失い、居間としての機能を失った思い出の空間。外界との境界線も曖昧だ。頭上の電球はちかちかと明滅し、空の暗さと混ざり合って視界はかなり悪い。
「・・・・」
変わり果てた自宅の様子に、声を失った。驚きとか悲しみとか、そういった感情が込み上げる以前に理解が追い付いていなかった。一体、何があったのか? 頭の中をその疑問だけが埋め尽くしていた。傍らではオルグレンが、悲痛ともとれる表情を浮かべていた。
「ねぇ、これって、どういう、こと?」
わなわなと震える唇を無理矢理に動かして、尋ねる。
「僕も分からないよ。一体君たちは、何をしたんだい? ランドルフに君をここから出すなって言われたからっ!」
「しっ!」
吹き荒れる風の音に混じって微かな物音が聞こえ、さっと人差し指を唇に当てる。それを見て、オルグレンもすぐに口を噤む。何かを引きずるような摩擦音と、小さな足音。
「こっちに誰か来る・・・・」
じいっと暗闇の先に目をこらす。人影らしきものは見えないが、感覚的にそう遠くにはいないはずだ。
「だろうね。姿消しの魔術が解けたんだ」
「誰か分かるの?」
「あぁ。それよりも早くこの拘束を解いてくれないか。君を安全な場所まで転移させないと」
「それって、私が狙いってこと?」
「多分ね」
「何で私なんかを・・・・」
「それは、恐らく君のっ!」
オルグレンは、途中まで言葉を紡ぐと、何かを感じ取ったのか、きっと表情を強張らせた。私も再度暗闇に視線を移す。足音が近づくにつれ、ぼんやりと姿が視認できるようになっていく。そんなに大きくはない。いや、むしろ小さい。私とほとんど変わらないくらいの背丈だろうか。
「ごめんよ、ルナ。そろそろ本気で余裕がないようだ」
その人影も、こちらに気付いたようで、すっと歩みを止めた。
「あはぁ。いるじゃーん」
歓喜の声をあげたのは、ボリュームのある真っ赤な長髪を両サイドで束ねた釣り目の少女であった。年齢は同じくらいに見える。黒を基調としたぶかぶかのローブに、赤、黄、白色の螺旋模様がいくつも描かれている。あまり良い趣味とは言えない、黄色い髑髏に真っ赤な十字架が突き刺さったような禍々しいネックレスをぶら下げ、にぃっと口の端を吊り上げていた。左手でころころとそのネックレスを弄り、右手は背後に回し何か大きな物を掴んでいる。
「手遅れになる前に、僕を解放するんだ」
小声で囁くオルグレン。
「あは。本当に亜人なんだぁ。その耳、可愛いねぇ」
「貴方は、誰? それと、後ろに隠している物は何?」
体中を駆け巡る不吉な予感。暑くもないのに自然と汗が滲み出てきた。
「え? 知らないの? まぁ、無理もないか。ねぇ。教えて。なんで、貴方みたいな亜人風情が、あの方に必要とされたの?」
「先に、私の質問に答えて」
「えー。生意気なやつ。私を誰だと思ってるのかなー」
「分からないから聞いてるんでしょ」
「・・・・ふうん。そういう態度とるんだ」
ざぁっと一際強めの風が吹く。少女の声が明らかに一段トーンダウンした。同時にちかっと一瞬だが、少女の周囲に光が走る。私は直感的に身の危険を感じ、オルグレンの座る拘束椅子に手を伸ばした。
だが、少女が背後に隠していた物体を自らの足元に放り投げた瞬間に私の意識は完全にそちらへ持っていかれた。
「ランドルフ!」
それは、まごうことなくランドルフであった。完全に脱力しきっており、意識があるかも確認できない。もちろん、生死の判別も・・・・
「駄目だ! ルナ!」
オルグレンが叫ぶが、その時にはすでに駆け出していた。「くそっ」と、背後から舌打ちが聞こえる。
「面倒くさいのは嫌いだから、本当にあの方の弟子になる資格があるのか、確かめてあげるね。殺しちゃったらごめーん」
そう言って、少女は右手の人差し指をこちらに向ける。同時に聞こえる魔力の流れる音。音源は、指の先端。何かが来ると感じ、身構える。
「貫け。『レッドスパイダーリリー」」
「導いてくれ。『クリナム』」
ほぼ同時に前後から魔術の詠唱が響いた。まず目に写ったのは強烈な閃光。少女の指先から放たれたそれは、回避行動に移行する暇もない程の急速度で一直線に私へと向かってきた。避けられない。と、すぐに理解する。
だが、その一撃が私の体に触れる刹那。ばあっと視界が白一色に染まった。オルグレンの魔術だ。ふわりとした浮遊感に包まれる。そして、気が付くと木々が鬱蒼と生い茂る森の中にいた。
――――――――――――
「はぁ。何とか間に合った」
背後でオルグレンが荒い息を吐いていた。その顔には、大粒の汗が見える。拘束魔術に捕らわれながら、強制的に魔術を使用したため、かなりの負荷があったのだろう。片膝をついた状態で、ごほごほっと咳をしている。私は、すぐに彼に駆け寄って、肩にそっと手を添えた。
「ごめんなさい。オルグレン。私が言うことを聞かなかったから・・・・」
「いや、気にしないでよ。説明不足だった僕も悪かったからね」
にこりとするオルグレン。不自然な笑顔から、身体的な辛さが見て取れた。どれくらいの距離を転移したのか。今のところは、周囲にあの少女のものと思われるような気配はしない。
「ランドルフを、助けに行かないと・・・」
「駄目だ」
「でも」
「彼女はこの中央都市でも最高位の魔術師の一人だ。僕らが敵うような相手じゃない」
「あの子が?」
「あぁ。さっきの魔術名を聞いて確信したよ。『レッドスパイダーリリー』。中央都市、いや、この大陸であんな固有名を持つ魔術師は一人しかいない。『彼岸花の雷帝』、この地にて『最も多くの敵を殺した元帥』だよ」
「『元帥』って、どうしてそんな地位の魔術師が私を・・・・」
「言っていただろう? あの方の弟子になる資格があるのかって」
「でも、あれはきっと何かの間違いで」
「間違いなんかじゃないんだ。『創造の魔女』は、他ならぬ君を選んだんだよ」
「そんなの、ありえないよ」
「・・・・君には、君の過去には、君の知らない秘密が隠されているんだ。詳しくは話すことが出来ないんだけど、世界に関わる重大な秘密が」
「それって、私の夢と何か関係があるの?」
「あぁ」
すっとオルグレンが私の頬に手を当てる。
「これから、君はその過去と向き合って生きていかなければいけない。強い意志と、勇気、仲間への思いやり。正しい道を歩む必要は無い。正しいと思う道を歩むんだ。その先が絶望だとしても、絶望の先に何かが見つかるかもしれない」
真剣な眼差しで私の瞳を見つめる。
「素晴らしい瞳だ。まるで、オコビスのドラゴンのようだ。ふふ。血は繋がっていなくても、きちんと彼の意志を継いでいるんだね・・・・君の選択した未来は、僕が導くにはあまりにも大きすぎる。でも、この危機的状況を乗り越えるまでは、全力で君を導くよ。この名に誓って」
オルグレンは、手を頬から頭へと移動させ優しく撫でると、ゆっくりと立ち上がる。そして、混乱する私に「さぁ、とりあえず今は逃げよう。雷帝の狙いは君だ。遠くへ逃げれば、その分ランドルフからも危険が遠ざかる」と、手を差し伸べた。私は、ランドルフの安否が心配ではあったが、今はオルグレンを信用することにした。
「分かった」
こくんと頷き、差し伸べられた手を取る。
どごぉんと、遠方から激しい閃光と爆音が響いた。
「御怒りのようだね」
私は、ごくりと生唾を飲み込んだ。あんな雷撃を喰らったら、ひとたまりもないだろう。想像しただけで恐ろしい。
私たちは、音がした方向とは反対へと小走りで進み始めた。
――――――――――――
クリナム : 花言葉『どこか遠くへ、汚れのない、貴方を信じる』、別名『ハマユウ、ハマオモト』、特徴『神事の際に使用される木綿(ゆう)のような、垂れた白い花を咲かせる。花言葉のどこか遠くへは、種が波に乗り遠い地へ運ばれることに由来する』
――――――――――――
0
あなたにおすすめの小説
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
それは思い出せない思い出
あんど もあ
ファンタジー
俺には、食べた事の無いケーキの記憶がある。
丸くて白くて赤いのが載ってて、切ると三角になる、甘いケーキ。自分であのケーキを作れるようになろうとケーキ屋で働くことにした俺は、無意識に周りの人を幸せにしていく。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
不倫されて離婚した社畜OLが幼女転生して聖女になりましたが、王国が揉めてて大事にしてもらえないので好きに生きます
天田れおぽん
ファンタジー
ブラック企業に勤める社畜OL沙羅(サラ)は、結婚したものの不倫されて離婚した。スッキリした気分で明るい未来に期待を馳せるも、公園から飛び出てきた子どもを助けたことで、弱っていた心臓が止まってしまい死亡。同情した女神が、黒髪黒目中肉中背バツイチの沙羅を、銀髪碧眼3歳児の聖女として異世界へと転生させてくれた。
ところが王国内で聖女の処遇で揉めていて、転生先は草原だった。
サラは女神がくれた山盛りてんこ盛りのスキルを使い、異世界で知り合ったモフモフたちと暮らし始める――――
※第16話 あつまれ聖獣の森 6 が抜けていましたので2025/07/30に追加しました。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる