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第8話 「私は子供ではありません」
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シュネーは、イルゼが測定したヴェルクのサイズと選んだ型を裁縫師たちのいる部屋に届けると、今度は中庭に出た。
約束通り、時々騎士の子供たちの雪遊びに付き合っていたからだ。
中庭の隅っこはあまり人が来ないので好きなだけ雪を出せるし、これでも大人たちの前では立場上言動に気を遣うので、ちょうどいい息抜きになる。
(もう少ししたら、辺境伯夫人としての勉強を本格的にしなければなりませんしね……)
勉強はヴェルクが討伐から帰ってからにしようと決めていた。今は彼が言ったように城に慣れ、領地の基本的な知識を習得する時期だ。
その点でも、子供たちとの触れ合いはいい情報収集になった。大人と違ってほとんど忖度されないので、畑の育ちだとか、日常生活の不満だとかについて子供なりの視点や大人のこぼしていた愚痴を聞くことができる。
「今日は何を作りましょうか? 南に住んでいるという象の滑り台はいかがかしら。こう耳が大きくて、鼻が長くて……」
シュネーの指先が宙にひらめき、いつも通り凍る寸前の水が勢いよく噴き出す――はずだった。
象の鼻でなく、まるでジョウロのようなちょろちょろとした流れは、ちゃんと氷になるものの細く頼りなくて、ネズミしか滑れそうにない。
時間をかければ想像通り作れるだろうが、子供はそう待てないもの。
「……あら、おかしいですわね?」
危険がないよう離れて見守っていた兄弟たちは、氷とシュネーとを小さい頭をふりふりして見比べ、少しだけ不安そうな顔をしてから挙手した。
「だったら今日は氷じゃなくていいよ。雪合戦したい!」
「そうですわね、雪にいたしましょう」
優しい提案にほっとしながら、今度は雪を降らせようとして……うまくいった。いつも通りふかふかの雪原を作り終えると、背後から見守っていたイルゼの心配そうな声がかかった。
「お疲れなのではありませんか?」
「……そんなことはありませんわ……まだ眠くありませんもの」
シュネーはそう言ってはみるが、確かに疲れが抜けきっていないようだった。
体内の魔力が川であるとしたら、何かゴミが溜まってうまく流れてくれないような感覚がある。
今までにも何度か、疲労やストレスでこういうことはあった。
実家を出て環境もがらりと変わったし、暖房用魔導具を付けて急に動き始めたからかもしれない、とシュネーは自分で納得した。
「いつも通りなら一日休めば回復するはずですから、後で昼寝しますわ。夜になって、ヴェルク様に勘付かれたくはありませんものね」
そのヴェルクは、遠くに見える騎士団の練習風景の中にいる。
(……ヴェルク様に、騎士団の方々と……あのハンマーシュミットさんと仰る方もですわね)
武装したヴェルクを見るのは初めてだった。遠目だから細部までは分からないが、胸部や脚部に黒い部分鎧を付けた立ち姿に、貫禄があってほれぼれする。
稽古を付けているのだろう、騎士たちと距離を置いて火球を放っていた。騎士たちはそれを剣や盾で受け止め受け流し、避け、ヴェルクに接近しようと進んでいく。
ふつうなら、魔力を発火という現象に置き換えるには時間がかかる。けれど当代一の炎の魔術師の名に恥じぬ連射は容易に騎士を近付けさせず、死角から向かおうとすればほぼ同時に炎の鞭が円を描いて、周囲を薙ぎ払う。
兜から赤毛を覗かせたハンマーシュミットが、金属製の盾で炎を受け止めながら、果敢に何度も歩いていく。
手加減は当然されているのだろう、ついにヴェルクの前に到達し彼女が大上段に振りかぶった長剣の一撃を、ヴェルクは小剣で受けて横に流しながら、先程まで火球を放っていた左手を、ポンと頭の上に置いた。
訓練としては“首を獲られた”のだろうけれど、仕草がとても親しげで、シュネーは急にたまらない気分になる。
(あの子は若い頃のヴェルク様も、服や鎧を着ているヴェルク様も、脱いでいるヴェルク様も。今まで全部見ていて……そして見守られていましたのね)
シュネーがあまりにぼんやり見ていたからだろうか、
「シュネー様!」「危ない!」
「……え?」
イルゼと三兄弟の長男・カールの声が聞こえた瞬間、シュネーの顔の左半分に、勢いよくひんやりした何かがぶつかった。
一瞬にして砕けつつ張り付いたそれに手をやると、雪がぽろぽろと零れ落ちる。
「ごめんなさい! シュネー様大丈夫?」
「こら、奥様を巻き込んじゃ駄目だって言っただろ! 領主様が怒ってお父さんも怒られるんだぞ!」
ぶつけた次男・デニスをカールが叱る。と、三男のエルマーが大声に驚いてしゃくりあげ始めた。
「大丈夫ですわ」
シュネーは急いで駆け寄ると、エルマーの頭を撫でながら兄の二人に笑いかける。
「私が油断していたのがいけないのですわ。それに領主様はそんなことであなた方のお父様を怒ったりしませんわよ。
領主は領民に尽くす、より良い方向へ導く義務があります。叱ったり命令することが仕事ではないのですわ」
「……そうなの?」
「今度は私も参加してみますわ。皆さんは生まれた時からヴェストの民、私より先輩ですから、ルールを教えてくださいませね」
「せんぱい?」
「私よりお兄さんってことですわよ」
それぞればつの悪い顔をした三人に微笑めば、微笑みが返ってくる。
良かったですわと安心して立ち上がった時、シュネーは軽いめまいを感じた。
「少し早いですけれど、今日はそろそろお終いにしましょう」
「そうだね。シュネー様顔色悪いもん」
「……そう? そうかしら……?」
雪に魔力を通して水に変えて流していると、イルゼが濡れたままの顔をハンカチで拭ってくれる。
「そのままでもすぐに溶けます、もう中にお戻りください」
「……そうね。ゆっくり休めば……きっと元気になるわ」
――けれど昼寝をたっぷりしたその日の夜、酷い寒気に襲われたシュネーは夫婦の共同寝室へは行けず、ベッドにこもったままだった。
翌日も、その翌日も。
全身を巡る寒気はどんどん強くなっていく。反対に手から出る雪は日ごとに弱まった。
ヴェルクとの夜の約束はあっさり絶え、数日に一度の子供たちとの雪遊びでも満足に雪が出せなくなっていった。
眉間に深い皺を作ってやっと出た雪は、シュネーと同じ背丈の雪だるまひとつを作れる程度しかない。
「シュネー様……具合悪いの?」
「もしかして雪玉をぶつけちゃったから?」
「まさか、そんな訳ありません。雪玉の10個や20個くらい、大丈夫ですわ!」
強がってみせるものの、子供たちの心配そうな顔を見ればうまく笑えていないことは自分でも分かった。
寒くて寒くて、いつしか屋外に出ることができなくなっていった。
「旦那様にお話ししてはいかがですか?」
「何とかヴェルク様の出立まではやりおおせて見せますわ」
イルゼには固く口止めをする。
ヴェルクは討伐前の準備などで何かと忙しく、シュネーと会う時間も減っていた。話しかけられそうになったこともあるが、そのたびに部下に呼ばれていった。
風邪気味だと言って、食事は部屋で取った。日に一回に減らしたヴェルクとの食事の席では何とか平静を装えているはずだ。だって、見破られるほど長い時間を共に過ごしてもいないのだから。
***
ヴェルクが騎士団と傭兵たちを連れて定期討伐に出る前夜、久しぶりに夫婦の寝室へ続く扉から、ノックの音が鳴った。
ヴェルクは自室で寝ているし、勝手に開けたりしたことがないので、普段鍵はかけていない。
暖炉に赤々と火をともし、毛皮を何重にも着込んでいたシュネーは急いでそれらを脱ぐと、しばらくぶりに袖を通した着ぐるみ姿で返事をした。
「……はい」
「入ってもいいだろうか」
「ええ、勿論ですわ」
扉がゆっくりと開けられると、首元と袖口が大きく開いたチュニックを着たヴェルクが現れた。
「昼にイルゼから例の服を受け取った。ありがとう」
「出立に間に合って良かったですわ。感想を聞かせてくださいませね。必ず改良してみせますわ」
「ありがとう、大事にしよう。……それで、何故そんな顔をしている? 着て欲しかったのではないだろうか」
問いかけられて、シュネーは困る。
服に関しても意見は色々あるけれど、今はただ体中の震えを抑えるのが精いっぱいだった。
「それは……自分の都合で着せてしまうようで、少々心苦しくて」
「いや、今後も外では何かしら着る必要があるのだから助かる」
「それは良かったですわ。さあ、ここは暑いので早くお戻りに――」
微笑んで手で扉を示せば、腕から脇にかけて冷汗が流れ、シュネーはふらりと壁に手を付いた。
そこでヴェルクの視界が広くなり、ベッドに無造作に積まれた毛皮の数に、彼は顔色を変える。
「最近、その――夜も寒いと言って出てこないから心配していたが、症状が悪化したのではないか」
「大丈夫ですわ」
「とても大丈夫には見えない。こういう時の、効果的な魔力中和の方法は……知っていると思うが」
最も簡便で効果的な方法は、口付けで吸い取ること。魔術師の間では人工呼吸と似たようなものと認識されている。
「存じてますわ」
シュネーの弱々しい返事に、ヴェルクの眉間に眉が寄った。
「……では、いいだろうか。緊急避難だ。許して欲しい」
シュネーは思ったより強い力で抱き寄せられ、体を預けた。というより、力が入らずされるがままだ。
指が顎にかかる。優しく顔を上に向かせられたので、ぎゅっと目を強く瞑る。
……。
…………。
………………。
……いくら待っても、唇に感触は落ちてこなかった。
「ヴェルク……様?」
ぼんやり瞼を開いて問いかければ、そこに見たこともない、苦悩したような顔があった。
「……何故泣いている?」
「え? そうでしたでしょうか。だって、私……」
問い返せば涙が一粒、頬を伝う。
(――そう、でしたわ)
シュネーはもう気付いている。今まで単に、気遣われていただけだということに。それも子供に対してのものと同じだということに。
結婚前から、夫婦として上手くやっていきたいと思ったのは本当だ。もし血が原因の政略結婚でなくとも、ヴェルクに対してはそう思えただろう。
憧れの旦那様と暖かい領地での平穏な生活。
それなのに、今更政略結婚でなければ良かっただなどと考え始めていた。
――気遣われての口付けなど、嫌だ。
シュネーはかっと頬が熱くなり、腕に強い力を込めて胸板を押し返す。
「私、頭を冷やしてきますわっ」
「冷やすな、倒れてしまう」
身を引こうとすると、手が掴まえられてしまう。
彼の一回り以上大きな手のひらは熱いくらいだったが、冷えた体には悔しいことに心地良い。流れ込んでくる炎を帯びたヴェルクの魔力が腕を伝って少しずつ冷えを取り去ろうとしてくるが、それでも冷えすぎた体を温めるまではいかなかった。
「……私ではだめですか」
「何のことだ。むしろ、君がそれでいいのか?
ここに来てから我慢ばかりしているように見える。そのせいで魔力の滞留が起こっているのではないだろうか。それとも本当は、誰か他に好きな――」
「魔力は、ちょっと調子が悪いだけですわ。旦那様だって婚約したころから服を着られなくなったのでしょう? 結婚がお嫌でストレスだったのでは?」
ああ順序が無茶苦茶だと思った。順序立てて話さなければいけないのに、出立前に意味のないやり取りをして困らせたくはないのに。
引いてくれない寒さと、無理やりのように流れ込んでくる優しい温かさは、一種の暴力のようにぐるぐる体中を回って眩暈を起こしそうだ。
「いや、それは、違う……ちゃんと理由がある」
「それに……私は口付けであやせるほど、子供ではありません。――もう、大人です。私、子供ではありませんっ!」
思わず叫べば、ふとヴェルクの手から力が抜けた。
シュネーは振り払った手を胸に抱いた。思ったより強い力だったのか、ほんの少し痛みが残る。
「――そうか」
目をゆっくりと、驚いたように見開くヴェルクの顔がそこにあった。
「そう、だったのか」
「そうですわっ」
「……ならば仕方がないな。それで焦っていたのだろうか? 離縁されるのではないかと」
「政略結婚ですもの、用が成せないならば両家が離縁させようとするでしょう。それは……嫌でしたわ」
両親も義両親もそのつもりだろうことは理解できているし、分からないヴェルクでもないだろう。
「……大丈夫だ。君の置かれた状況については心苦しいが、悪いようにはしないから安心して欲しい。流石にわたしにも思うところはあるが……長くなりそうだ。
討伐から帰ったら、ゆっくり話そう。わたしも考えをまとめておきたい」
見開いた目が静かに細められて、さあもう寝なさいと、やっぱり子供にするように頭を撫でられて。
不本意なのに安心したくなってしまう感情をどうにかして欲しいと、シュネーは口角を下げた。
翌日シュネーは、出立する騎士団と傭兵たちの先頭に立つヴェルクを行ってらっしゃいませと城門で見送る。
練度を高めるためとあって、訓練には見習いたちも同行していた。
魔法銀のチュニックの上から鎧を纏った素晴らしく美しいヴェルクの側に立つ、快活な赤毛の女性騎士。
シュネーは彼らを見送った後、溜まり続ける異常な寒気を、魔力に乗せて指先から逃がそうとする。
けれど雪の欠片はちらちらと、手のひらを少し濡らしただけだった。
約束通り、時々騎士の子供たちの雪遊びに付き合っていたからだ。
中庭の隅っこはあまり人が来ないので好きなだけ雪を出せるし、これでも大人たちの前では立場上言動に気を遣うので、ちょうどいい息抜きになる。
(もう少ししたら、辺境伯夫人としての勉強を本格的にしなければなりませんしね……)
勉強はヴェルクが討伐から帰ってからにしようと決めていた。今は彼が言ったように城に慣れ、領地の基本的な知識を習得する時期だ。
その点でも、子供たちとの触れ合いはいい情報収集になった。大人と違ってほとんど忖度されないので、畑の育ちだとか、日常生活の不満だとかについて子供なりの視点や大人のこぼしていた愚痴を聞くことができる。
「今日は何を作りましょうか? 南に住んでいるという象の滑り台はいかがかしら。こう耳が大きくて、鼻が長くて……」
シュネーの指先が宙にひらめき、いつも通り凍る寸前の水が勢いよく噴き出す――はずだった。
象の鼻でなく、まるでジョウロのようなちょろちょろとした流れは、ちゃんと氷になるものの細く頼りなくて、ネズミしか滑れそうにない。
時間をかければ想像通り作れるだろうが、子供はそう待てないもの。
「……あら、おかしいですわね?」
危険がないよう離れて見守っていた兄弟たちは、氷とシュネーとを小さい頭をふりふりして見比べ、少しだけ不安そうな顔をしてから挙手した。
「だったら今日は氷じゃなくていいよ。雪合戦したい!」
「そうですわね、雪にいたしましょう」
優しい提案にほっとしながら、今度は雪を降らせようとして……うまくいった。いつも通りふかふかの雪原を作り終えると、背後から見守っていたイルゼの心配そうな声がかかった。
「お疲れなのではありませんか?」
「……そんなことはありませんわ……まだ眠くありませんもの」
シュネーはそう言ってはみるが、確かに疲れが抜けきっていないようだった。
体内の魔力が川であるとしたら、何かゴミが溜まってうまく流れてくれないような感覚がある。
今までにも何度か、疲労やストレスでこういうことはあった。
実家を出て環境もがらりと変わったし、暖房用魔導具を付けて急に動き始めたからかもしれない、とシュネーは自分で納得した。
「いつも通りなら一日休めば回復するはずですから、後で昼寝しますわ。夜になって、ヴェルク様に勘付かれたくはありませんものね」
そのヴェルクは、遠くに見える騎士団の練習風景の中にいる。
(……ヴェルク様に、騎士団の方々と……あのハンマーシュミットさんと仰る方もですわね)
武装したヴェルクを見るのは初めてだった。遠目だから細部までは分からないが、胸部や脚部に黒い部分鎧を付けた立ち姿に、貫禄があってほれぼれする。
稽古を付けているのだろう、騎士たちと距離を置いて火球を放っていた。騎士たちはそれを剣や盾で受け止め受け流し、避け、ヴェルクに接近しようと進んでいく。
ふつうなら、魔力を発火という現象に置き換えるには時間がかかる。けれど当代一の炎の魔術師の名に恥じぬ連射は容易に騎士を近付けさせず、死角から向かおうとすればほぼ同時に炎の鞭が円を描いて、周囲を薙ぎ払う。
兜から赤毛を覗かせたハンマーシュミットが、金属製の盾で炎を受け止めながら、果敢に何度も歩いていく。
手加減は当然されているのだろう、ついにヴェルクの前に到達し彼女が大上段に振りかぶった長剣の一撃を、ヴェルクは小剣で受けて横に流しながら、先程まで火球を放っていた左手を、ポンと頭の上に置いた。
訓練としては“首を獲られた”のだろうけれど、仕草がとても親しげで、シュネーは急にたまらない気分になる。
(あの子は若い頃のヴェルク様も、服や鎧を着ているヴェルク様も、脱いでいるヴェルク様も。今まで全部見ていて……そして見守られていましたのね)
シュネーがあまりにぼんやり見ていたからだろうか、
「シュネー様!」「危ない!」
「……え?」
イルゼと三兄弟の長男・カールの声が聞こえた瞬間、シュネーの顔の左半分に、勢いよくひんやりした何かがぶつかった。
一瞬にして砕けつつ張り付いたそれに手をやると、雪がぽろぽろと零れ落ちる。
「ごめんなさい! シュネー様大丈夫?」
「こら、奥様を巻き込んじゃ駄目だって言っただろ! 領主様が怒ってお父さんも怒られるんだぞ!」
ぶつけた次男・デニスをカールが叱る。と、三男のエルマーが大声に驚いてしゃくりあげ始めた。
「大丈夫ですわ」
シュネーは急いで駆け寄ると、エルマーの頭を撫でながら兄の二人に笑いかける。
「私が油断していたのがいけないのですわ。それに領主様はそんなことであなた方のお父様を怒ったりしませんわよ。
領主は領民に尽くす、より良い方向へ導く義務があります。叱ったり命令することが仕事ではないのですわ」
「……そうなの?」
「今度は私も参加してみますわ。皆さんは生まれた時からヴェストの民、私より先輩ですから、ルールを教えてくださいませね」
「せんぱい?」
「私よりお兄さんってことですわよ」
それぞればつの悪い顔をした三人に微笑めば、微笑みが返ってくる。
良かったですわと安心して立ち上がった時、シュネーは軽いめまいを感じた。
「少し早いですけれど、今日はそろそろお終いにしましょう」
「そうだね。シュネー様顔色悪いもん」
「……そう? そうかしら……?」
雪に魔力を通して水に変えて流していると、イルゼが濡れたままの顔をハンカチで拭ってくれる。
「そのままでもすぐに溶けます、もう中にお戻りください」
「……そうね。ゆっくり休めば……きっと元気になるわ」
――けれど昼寝をたっぷりしたその日の夜、酷い寒気に襲われたシュネーは夫婦の共同寝室へは行けず、ベッドにこもったままだった。
翌日も、その翌日も。
全身を巡る寒気はどんどん強くなっていく。反対に手から出る雪は日ごとに弱まった。
ヴェルクとの夜の約束はあっさり絶え、数日に一度の子供たちとの雪遊びでも満足に雪が出せなくなっていった。
眉間に深い皺を作ってやっと出た雪は、シュネーと同じ背丈の雪だるまひとつを作れる程度しかない。
「シュネー様……具合悪いの?」
「もしかして雪玉をぶつけちゃったから?」
「まさか、そんな訳ありません。雪玉の10個や20個くらい、大丈夫ですわ!」
強がってみせるものの、子供たちの心配そうな顔を見ればうまく笑えていないことは自分でも分かった。
寒くて寒くて、いつしか屋外に出ることができなくなっていった。
「旦那様にお話ししてはいかがですか?」
「何とかヴェルク様の出立まではやりおおせて見せますわ」
イルゼには固く口止めをする。
ヴェルクは討伐前の準備などで何かと忙しく、シュネーと会う時間も減っていた。話しかけられそうになったこともあるが、そのたびに部下に呼ばれていった。
風邪気味だと言って、食事は部屋で取った。日に一回に減らしたヴェルクとの食事の席では何とか平静を装えているはずだ。だって、見破られるほど長い時間を共に過ごしてもいないのだから。
***
ヴェルクが騎士団と傭兵たちを連れて定期討伐に出る前夜、久しぶりに夫婦の寝室へ続く扉から、ノックの音が鳴った。
ヴェルクは自室で寝ているし、勝手に開けたりしたことがないので、普段鍵はかけていない。
暖炉に赤々と火をともし、毛皮を何重にも着込んでいたシュネーは急いでそれらを脱ぐと、しばらくぶりに袖を通した着ぐるみ姿で返事をした。
「……はい」
「入ってもいいだろうか」
「ええ、勿論ですわ」
扉がゆっくりと開けられると、首元と袖口が大きく開いたチュニックを着たヴェルクが現れた。
「昼にイルゼから例の服を受け取った。ありがとう」
「出立に間に合って良かったですわ。感想を聞かせてくださいませね。必ず改良してみせますわ」
「ありがとう、大事にしよう。……それで、何故そんな顔をしている? 着て欲しかったのではないだろうか」
問いかけられて、シュネーは困る。
服に関しても意見は色々あるけれど、今はただ体中の震えを抑えるのが精いっぱいだった。
「それは……自分の都合で着せてしまうようで、少々心苦しくて」
「いや、今後も外では何かしら着る必要があるのだから助かる」
「それは良かったですわ。さあ、ここは暑いので早くお戻りに――」
微笑んで手で扉を示せば、腕から脇にかけて冷汗が流れ、シュネーはふらりと壁に手を付いた。
そこでヴェルクの視界が広くなり、ベッドに無造作に積まれた毛皮の数に、彼は顔色を変える。
「最近、その――夜も寒いと言って出てこないから心配していたが、症状が悪化したのではないか」
「大丈夫ですわ」
「とても大丈夫には見えない。こういう時の、効果的な魔力中和の方法は……知っていると思うが」
最も簡便で効果的な方法は、口付けで吸い取ること。魔術師の間では人工呼吸と似たようなものと認識されている。
「存じてますわ」
シュネーの弱々しい返事に、ヴェルクの眉間に眉が寄った。
「……では、いいだろうか。緊急避難だ。許して欲しい」
シュネーは思ったより強い力で抱き寄せられ、体を預けた。というより、力が入らずされるがままだ。
指が顎にかかる。優しく顔を上に向かせられたので、ぎゅっと目を強く瞑る。
……。
…………。
………………。
……いくら待っても、唇に感触は落ちてこなかった。
「ヴェルク……様?」
ぼんやり瞼を開いて問いかければ、そこに見たこともない、苦悩したような顔があった。
「……何故泣いている?」
「え? そうでしたでしょうか。だって、私……」
問い返せば涙が一粒、頬を伝う。
(――そう、でしたわ)
シュネーはもう気付いている。今まで単に、気遣われていただけだということに。それも子供に対してのものと同じだということに。
結婚前から、夫婦として上手くやっていきたいと思ったのは本当だ。もし血が原因の政略結婚でなくとも、ヴェルクに対してはそう思えただろう。
憧れの旦那様と暖かい領地での平穏な生活。
それなのに、今更政略結婚でなければ良かっただなどと考え始めていた。
――気遣われての口付けなど、嫌だ。
シュネーはかっと頬が熱くなり、腕に強い力を込めて胸板を押し返す。
「私、頭を冷やしてきますわっ」
「冷やすな、倒れてしまう」
身を引こうとすると、手が掴まえられてしまう。
彼の一回り以上大きな手のひらは熱いくらいだったが、冷えた体には悔しいことに心地良い。流れ込んでくる炎を帯びたヴェルクの魔力が腕を伝って少しずつ冷えを取り去ろうとしてくるが、それでも冷えすぎた体を温めるまではいかなかった。
「……私ではだめですか」
「何のことだ。むしろ、君がそれでいいのか?
ここに来てから我慢ばかりしているように見える。そのせいで魔力の滞留が起こっているのではないだろうか。それとも本当は、誰か他に好きな――」
「魔力は、ちょっと調子が悪いだけですわ。旦那様だって婚約したころから服を着られなくなったのでしょう? 結婚がお嫌でストレスだったのでは?」
ああ順序が無茶苦茶だと思った。順序立てて話さなければいけないのに、出立前に意味のないやり取りをして困らせたくはないのに。
引いてくれない寒さと、無理やりのように流れ込んでくる優しい温かさは、一種の暴力のようにぐるぐる体中を回って眩暈を起こしそうだ。
「いや、それは、違う……ちゃんと理由がある」
「それに……私は口付けであやせるほど、子供ではありません。――もう、大人です。私、子供ではありませんっ!」
思わず叫べば、ふとヴェルクの手から力が抜けた。
シュネーは振り払った手を胸に抱いた。思ったより強い力だったのか、ほんの少し痛みが残る。
「――そうか」
目をゆっくりと、驚いたように見開くヴェルクの顔がそこにあった。
「そう、だったのか」
「そうですわっ」
「……ならば仕方がないな。それで焦っていたのだろうか? 離縁されるのではないかと」
「政略結婚ですもの、用が成せないならば両家が離縁させようとするでしょう。それは……嫌でしたわ」
両親も義両親もそのつもりだろうことは理解できているし、分からないヴェルクでもないだろう。
「……大丈夫だ。君の置かれた状況については心苦しいが、悪いようにはしないから安心して欲しい。流石にわたしにも思うところはあるが……長くなりそうだ。
討伐から帰ったら、ゆっくり話そう。わたしも考えをまとめておきたい」
見開いた目が静かに細められて、さあもう寝なさいと、やっぱり子供にするように頭を撫でられて。
不本意なのに安心したくなってしまう感情をどうにかして欲しいと、シュネーは口角を下げた。
翌日シュネーは、出立する騎士団と傭兵たちの先頭に立つヴェルクを行ってらっしゃいませと城門で見送る。
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魔法銀のチュニックの上から鎧を纏った素晴らしく美しいヴェルクの側に立つ、快活な赤毛の女性騎士。
シュネーは彼らを見送った後、溜まり続ける異常な寒気を、魔力に乗せて指先から逃がそうとする。
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