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平均的国民食
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鈍色の金属壁に囲まれた約十五畳。
平均的国民適性検査の会場は、シェルター住民二人に割り当てられる居住空間と同等の広さだった。その事実が、受検資格を得てきた人物の少なさを物語っている。
今年度後期も、予備試験を越えて辿り着いたのはたった一人だ。
――ようやくここまで来た。
その選ばれた青年の、緊張に加えて質疑応答に耐え続けた喉はすっかり乾き切っていた。日本人としては平均的な大きさの手が、Mサイズの国民用作業着の首元をわずかに緩める。青いシャツがちらりと覗いた。
最後の休憩時間、手首にはめた時計の秒針が十二を指すまでの僅かな間、彼は黒い睫毛を瞬きし、ゆっくり唾を飲み込む。
「『最終問題。ここに健康で問題のない平均的国民の成人A、B、C、Dの四人がいます。すり鉢型の』」
十二を指せば正面に、白髪の監査官が端末から顔を上げる様子が映った。背景の壁に貼られた贅沢品の壁紙、偶然にも子どもの頃から焦がれた空色とともに。
「すり鉢は知っているか」
壁に据え付けられた五十五インチモニターに映る口の動きに合わせて、脇のスピーカーから掠れた声が流れた。
長い間着席していた青年は、首筋を伸ばし見返す。視線は合わない。
移住第一世代たる監査官が傲慢でも老眼だからでもなく、画面三十センチ上で赤い光を明滅させるカメラが彼の視界だったからだ。
「インチとセンチという単位の混在は、大戦前の国交の名残による」遠い学生時代の歴史教師の口調を思い出しながら、平均的な日本人顔の青年は、下の世代に理解ある監察官を見つめた。
監査官の世代――既に片手で数えられる――はともかく、地上の記憶は人々の中から消えていた。今や料理は少し変わった趣味扱いだ。特にすり鉢など用途が限られすぎている。食事はほとんど液体か固形、もしくはペースト状で適切に提供されるため出番がない。
「昨年の博物館見学で、本物を見ました」
「宜しい」
正直に答えれば頷きが返る。
それより彼には、成人になるための平均的国民適性検査が、地上への扉が閉ざされて以来未更新らしき点が気に掛かった。「すり鉢」は、現在の平均的習得単語に含まれていない。
が、当時最先端の頭脳によって作られた永久普遍的な問題のはず、とすぐに自分を納得させた。彼は理性的で倫理的な成人たちによる教育課程と指導を享受し、平均以上の成績を修め、特に「伝統」の教科では常に上位にいた。
それに、先ほど監査官が話した設問の冒頭に覚えがあった。これがいつか図書館で読んだ「囚人の帽子」と呼ばれる問題ならば、これまでの十九問同様解く自信もあった。ここで波風立てることはない。
「続けよう。『階段状の席、低い方から一段ずつA、B、Cが。Aと壁を隔てた正面にはDが座っています』」
ほら、と青年は心の中でゆったりと構え、続く言葉と声音を想像した。二色の帽子が均等に割り振られた時、自分が被る色を当てたのは誰でしょうか――、
「『Dは監査官のカメラ映像を壁のモニターで共有します』」
違う。
思ってもみなかった続きに、青年の目尻がぴくりと動く。
「『部屋中央、壁とAの間には受検者と食卓が置かれます』」
言葉が切られると同時に、扉が開いて若い女性が白い布で覆われたワゴンを運んできた。彼女は布を机に掛け替えると、アルマイト製の給食トレイを眼前に置く。白いクロスと銀の食器に、頭上の二一〇〇年代の関東地方、同日時を再現した愛国社製人工太陽照明が眩しい。
「『受検者が食事を始めてから五分以内に、Bは赤白帽子を被ります。美味しそうだと思ったら赤、不味そうだと思ったら白を表に。なお全員、振り向くことは許可されていません』」
目が慣れると、受検通知の返答で事前申請した――シェルターメンテナンスの技能実習中も考え続けた、好物の「平均的国民食」が見えた。
米と味噌汁、揚げ物と野菜。
つやつや光る白米はきちんと陶器の茶碗によそわれ、淡黄色の味噌汁をたたえた汁椀は漆塗り。湯気と香気を立てるメインディッシュを盛り合わせた皿には、ごつごつとした風情がある。
割り箸には、白磁の箸置きまで付いていた。それらを収めているのは自然で主張しない色の木の盆。
かつて「定食」と呼ばれた平均的で完璧な日本食。永遠の実習生である彼には、たまにしか――誕生日の特別配給券でしかお目にかかれない贅沢品だ。
「『受検者は三十分以内に完食すれば合格、簡単ですね。晴れて我ら成人の仲間入りです。おめでとう!』何か質問は」
おめでとう、と問題内で祝福する監査官の声には、何度も同じ言葉と儀式を繰り返してきた者特有の無感動さがあり、青年は悟った。
単体なら観客が奇妙なだけのボーナス問題が、何であるか。
「あの番組は、士気高揚と正しい国民食を広める場だと思っていました」
僅かに語尾が震えていた。
青年が行儀悪いことを承知で見回せば、いつの間にか背後に横たわる段々に、見覚えのあるパイプ椅子が三脚増えていた。
いや、椅子だけではない。初めて来たはずの検査会場も、このボーナス問題の内容も、幾度となく見た。画面越しに。俯瞰視点で。
――視聴率八十%超の視聴者参加型娯楽番組、『あなたの好きな国民食』。
「なに、不合格でも食べかけを取り上げたりはしない」
誰も気にしないだろうに監査官はそんなことを言い、
「問題にはまだ続きがある。『Aが被る色は監査官によって検査直前、受検者以外の全員に告げられます。そしてBとDは反対の色を被ります。タイミングは各自の任意です』」
「自然な選択に見せるためですか? Aが先に被ればB、Cが影響を受けたとも取れるし、Cが先ならA、Bは自分の意思で。Dは常に自立しているように見える……」
「飲み込みが早いな」
五分前までならその言葉を誇りに思っただろう。しかし今は微塵もそんな気は起こらなかった。嘘ではない。シェルターの指導者であり保護者である監査官は嘘をつかない。
今もそうだ。やらせも沈黙も、嘘と同義だということを除けば。
「ああ、念のため。『検査は撮影され、国営テレビ一チャンネルでシェルター全体に放送されます』」
「そして選ばれた者だけが、手元の端末からコメントを書き込むことができます」
青年は淡々と言葉を続ける。視線が合わないことに感謝した。慈悲深く冷静だったはずの老人の顔が、のっぺりした人形のように見えた。
***
世界を巻き込んだ大戦が地上を荒廃させつつあった時、人類の取れる選択は二つだった。地上と地下のどちらで生き延びるかだ。前者は戦いを決意し自由と希望を地上に求め、後者は安全と地上復興を夢見て地下に潜った。
結局のところ地上は荒廃し、他のシェルターとも連絡は途絶え、この北関東国民保護シェルターは事実上の(人口数百人の)日本国として運営された。
責任者である監査官と議会は上手くやった。時が経ち代替わり問題が起きると、選挙・被選挙権をはじめとした決定権を持つ人々を「成人」とみなし、正しい日本を維持する素質のある、清く正しい平均的日本人が選ばれた。成人になるための検査の内容は、公正を期すため、極秘にされる。
――以上が青年が学校で教えられた歴史だ。しかし実のところ、最終問題に関しては堂々と公開され予習すら可能になっていたのだ。エンタメとして。
シェルター内で放送といえばニュース、特に法律の策定・更新とメンテナンス関連通知が殆どで、他の番組は旧時代に用意されたものが数十年繰り返されている。
その中で、ごく珍しい新規撮影の『あなたの好きな国民食』、通称『国民食』は恰好の娯楽だった。
「今回の検査を辞退するか」
次の機会がいつか分からないが。監査官の眼はそう言っていた。青年は白髪が混じり始めた頭をくしゃくしゃと掻くと、返答する。その間二秒。
「受けます」
「宜しい」
女性がワゴンと共に去ると、入れ替わりに演者が三人入ってきた。どの手にも白を表にした赤白帽子。彼らが「A、B、C」で、壁の向こうにもう一人いるのだろう。
彼らが着ている白と黒と灰の国民服。同色の床のタイル、無骨なパイプが這う壁と天井。色彩は食事だけで否が応でも人の目を惹く。
――ここはすり鉢じゃなくて闘技場だ。
中央図書館の通い慣れた禁帯出書架、いつか隠すように押し込めてあった――いつの間にか消えた――旧時代のボロボロの教科書が脳裏に蘇る。パンとサーカス。好きに叫ぶその日限りのローマ市民。特等席の特権階級には彼らの熱狂も酒の肴なのか。
開放的な青空の下で行われる野蛮な遊びを想像したことはあるが、自分が文明社会で見世物の剣闘士になるとは思ってもみなかった。
程なくしてモニターから監査官の顔が消えると、番組の軽快なオープニング曲が流れてきた。陽気で落ち着いた合成音声が「今日の幸運な住民が選んだ食事は」と告げる。視聴者には、検査であることは勿論出演者の名前も、生放送だとも知らされない。
青年はひと月前の出演者のその後を思い出そうとして、名も知らぬ彼のあれだけ見た背中を覚えておらず、見かけたことがあったかどうかすら記憶にないことに気が付いた。そして、適性検査を落ちた人物の話など誰もしないことにも。
思考の端から湧き上がっては覆っていく良からぬ想像を、青年は首を振って追い払う。
成人候補の貴重な人間を見世物にするためだけに、こんな無意味で手間のかかる問題を出すわけがない。
そう、見世物ではなく通過儀礼だ。成人の祝い膳が少し早まるだけのこと。ただ「好物を食べきるだけ」でいい。
一般的な「成人」なら誰に何を言われても平均で理想的で正しい振る舞いを、無事にやりきらなければならないのだから。
無意識のうちに深い呼吸を数度繰り返してから、青年は盆に視線を定めた。
左に炊きたての白米を盛った茶碗、右に豆腐とわかめの味噌汁を満たす椀。貴重品になったとはいえ、これが日本食の基本でないなどと疑う国民はいない。
間に置かれたメインディッシュの皿には小さめだが厚みのある豚カツ、尻尾までカリカリの海老フライと唐揚げが盛られ、千切りキャベツとトマト、レモンが添えられている。それに調味料の小瓶もだ。
こんな時でも体は正直なのか、いつぶりかの揚げ物の香りに思わず喉がごくりと鳴った。彼は箸を手に取り茶碗を持ち上げる。一口含めば米の甘みが広がった。
――美味しい。
これなら、すぐに食べ切れそうだと思った。
ほっとして目線が自然と上がれば、モニターに観客の野次が上から下に流れていた。その時々で選ばれた人間だけが書き込める、動画共有アプリの画面だ。
《あれ、何米?》
《日本米は日本米だろ》
米の銘柄を、青年は指定していた。長らく代表的品種のひとつだった、コシヒカリだ。
《テロップにコシヒカリって出てるけど、白すぎない?》
監査官らが誤った品種を出してくることはあり得ない。青年は、思わず眉間につくってしまった皺を意識して、緩めた。
その僅かな間もコメントは絶えず好き勝手に流れていく。
《あんなもんだって》 《おいしそう》 《米ばっかり食ってない?》
幸い、観客から青年の顔は見えない。赤く明滅するカメラは角度を下向きに変えて、手元の料理を映すだけのはずだ。モニターの存在も当然知らない。……はずだ。いや、確かカメラにわざと目線を合わせた者がいて、画面がコメントで賑わったことがあった。
彼らは無責任に今日は祭りだと書き散らす。成人の条件は模範的平均的日本人であることなのに――あれも事前検査の一環かと今では思う。煽ったり、貶したり、過激な発言をしたことはなかったはずだ。大丈夫だ、大丈夫なはずだ。
《箸の持ち方、そうじゃないだろ》 《もっとうまそうに食べろよ》《いや指出るもんじゃない?》
――箸の持ち方なら、昨日も練習した。間違ってないはずだ。
《何で割り箸?》
――割り箸は指定していない。漆塗りと付記すべきだったか、いやもし望めたとしても、本物の漆はとっくの昔に入手不可能だ。「伝統」のテキストに書いてある。衛生面からも監査官の判断は正しいはずだ。正しい、正しい。
《割り箸ささくれてる》 《割るの下手なんだな》
無視すればいいと分かっていても、つい割り箸を確認してしまう。指摘通り一部が数ミリ、細く裂けてぶら下がっていた。刺さると面倒だが、言う通りにするのは少し癪に障った。何よりコメントを認識していると知られれば、ろくなことにならない。
彼は画面を見るなと自分に何度も言い聞かせ、視線を落とし味噌汁に口を付ける。熱が唇を侵し、慌てて離す。
すると画面は見ずとも、脳内に勝手にコメントが流れた。《何やってんの》《大人なんだからそれぐらい分かるだろ》
続いて、想像の画面の端で消えていったはずのそれが――同じようなゴシック体の羅列が脳内に流れ始めた。
《何やってんの》《大人なんだからそれぐらい分かるだろ》《普通こぼさないよね》《これって出演者どうやって決まってんの?》
――これは、ただの妄想だ。
理性を不安が上回りそうになる。妄想ならば妄想だと確信したいと、青年が画面をただ確かめるためにちらりと、ほんの一瞬だけ視線をやれば、
《味噌の色変じゃない?》《腐ってるのかも》
《発酵》 《豆腐には葱だよ》 《絹? 木綿? どっち?》
《手が震えてるぞー》
気付いた時には、汁がばしゃりとトレイに零れた。白い袖が直径一ミリの水玉模様に彩られる。成人はこんな過ちをしない。目の端に、《汚ねえ》、と映った気がしたが頭から無理矢理振り払い、慌ただしくコップの水を喉に流し込む。
「……っ、けほっ」
むせた。唇から零れる。袖で拭く。成人らしくない。
むせた拍子に頭の位置が動き、モニターが目に入る。脳内で叫ぶ――見るな、こっちを見るな!
《唐揚げにレモン!?ありえない》《絶対残すなよ》《いや俺もかけるよ、けどカツにはソースより醤油だろ》
《あ、帽子白になったわ》 《美味しそうに食わないからなあ》
《こいつにはもったいなくね?》
流れるコメントの中で「帽子」の文字が目に飛び込んできた。――そうだ、帽子。彼ら観客より近くで見ている審査員たちがいる。
白。不味そうに見えたという評価。背後を思い切り振り返らない限り――事前に告げられた通り、失格だ――彼らが今何色を被っているか、どんな様子かは観客に書かれなければ分からない。
帽子の色と試験の合格には何ら関係がないが、白になればなるほど、それに赤が混じる度、観客のコメントは苛烈さを増すだろう。……知っている。今まで番組で見てきたからだ。被ろうとしたり、やめたり、帽子の色を手元でひっくり返したり。闘牛士が煽るようなその動きを。
被る帽子の色が予め検査官によって決められているという事前情報は、青年にとってもはやどうでもいいものとなっていた。
青年の視界の端には、いつしか画面が入ったままだ。
意思から離れた手が勝手に動き、止まる。レモンを持ち、置き、再度持つ。無意味な動作。減らない食事の向こう側、モニター上の文字がめまぐるしく入れ替わり、青年の思考も感情も流れる言葉に翻弄される。
肉は資源の無駄遣い、生魚は貴重品。味噌は米か麦か豆か。赤か白か、ハッチョウか。旧時代の該当食料・料理の普及率、現シェルターの在庫。
数あるレシピと食材から何を未来のために優先的に継承し、何がここにあるべき、国に相応しい――正しい料理か。
この食事を数ある食事の中から選んで食べているやつは、平均的日本人なのか。
青年の顔から表情は消え失せている。食事から顔を背けそうになった時、繰り返される言葉の幾つかは、自身もまた「図書館で見たものと違う」などと無邪気に書き込んできたものと同じだと理解した。
皿の中身はなかなか減らないのに、空腹はもう感じていない。
これは定食。長い間、悩み抜いて決めた伝統的定食のはずだったのに。
そう、教科書の記述もシェルターの公開情報の検索もした。図書館の資料室の奥で、過去の本も散々漁った。ちゃんと奥付があった。本物の写真だって見た。こんな奴らの適当な、想像だけの、根拠のない書き込みじゃない。
誰にも文句を言わせない、完璧で平均的な日本食。
何度だって妄想した。待ちに待っていた。だから美味しいはずだ。食べている自分も美味しく見えるはずだ。
けれど「はず」ではない青年は、いつもの代わり映えしない食事が恋しかった。
食糧合成機械から生み出される食事は、見た目も味も素っ気なくても生命維持活動に必要な栄養素が十分に盛り込まれていた。
国の技術の結晶に彼は浴している。水耕栽培を主体とした数少ない収穫物と備蓄では、共同体は数世代も長らえなかったろう。それを理解してなお飽き飽きしていた味気ないそれを、今は食べたくてしょうがなかった。
今や待ち望んでいた食事は苦痛でしかない。口の中に今入っている何かを、我慢して呑み込むと痛んだ喉を擦った。剣のように重い箸で千切りキャベツを持ち上げる。歯ごたえという原始的な快楽で余計な思考を洗い流そうとする。味はしない。
《ま ず そ う》
無味無臭のフィルムに似た、カシャカシャ耳の中で鳴る葉を無理矢理飲み下す。
画面の中に流れる単語が、妙に大きく見えた。
良い悪い、おかしい、変、善悪、主語が大きい、法律、歴史、許す、ありきたり、生存バイアス、流行、不要、気持ち悪い――あらゆる種類の批評と皮肉と罵倒と拒否と心配と欲望と何かと、そして画面上の文字に埋もれかけた自分。作業中の事故で失った左手義指とその借金、時折映る仕事終わりのソーダがつくった丸い肩。
検査前は早く成人になりたかった。承認、実習でない仕事、まともな給料、投票権。だが一番は行動範囲の拡大だ。
子供の頃に貸し出し禁止書庫で見た、除湿機、家庭用洗濯機や冷蔵庫が眩しかった。いつか目を盗んで地上に行き、歩き、自動車――平均的習得単語ではない――を修理して走らせる。あらゆる過去の遺物を集め再現したかった。
このまま三十年ばかり、金属の箱の中で過ごして何も残せないまま寿命を迎えたくなかった。
戦いだって常に空を包んでいるわけではないだろう。許されるなら無人の偵察機械を作る。試作機が放棄された資料の中にあった。やがて先祖が操ったという飛行機――これも平均的ではない。昔廃棄場にあった旧世代のオモチャを、同じ技能実習生だった父親が拾ってきて、見たことがないって友達に馬鹿にされた、空色のラインが入った白い雲みたいな――で青い空を――。
いつの間にか青年は目を見開いたまま動きを止めていた。
ジリリリリリリ。
スピーカーからベルが鳴り響いた。
***
「視野の調整と、清涼飲料水に混ぜる向精神薬の増量を検討しよう。第七世代は味蕾減少の反動か、不安が強いようだ」
監査官は画面越しに、担架で運ばれていく受検者を見送る。机には蒟蒻と白米粉末の「コシヒカリ」、戦前からの伝統的な人工調味料と合成油脂を注入したモグラ肉のカツ、食用フィルム製疑似キャベツなどが残されていた。
「成人が年々減っているな。次の監査官はまた、父さんになるかもしれない」
監査官は自身の机の脇に立てられた水槽のような円柱――第零世代、初代移住者の脳が浮かぶ容器を愛おしむように撫でる。
移住後すぐ、シェルターでは問題が頻出した。最重要課題は劣悪化した衣食住環境への適応。「環境改善が無理なら、人体を変えるしかない」と発案したのは先祖たちだ。あらゆる感覚と代替部品の研究が行われ、感覚調整され人工物と入れ替わっていく肉体の代わりに、人間、国民たらしめるものは精神と文化になった。
食文化は生命の維持に必須なだけでなく、歴史を伝え娯楽にもなるその最たるものと見なされた。しかも味覚のうち辛みは痛覚で、食圧覚や温度、そして何より多種多様な情報と意味を含んだ。「成人」の良い指標になったのだ。
理想的で他者に惑わされない平均的国民でなくては国を維持できない。
――問題は、国民が求める成人の基準が年々上がることか。
監査官は端末で報告書を書き、指定のアドレスに送信する。旧時代の組織としか知らないが、近くの廃ビルには数十年もの間毎週、支援物資が届けられていた。それで十分だった。
***
「砕いた大豆と湯の味噌汁が日本食ねえ。うちのご先祖様の旅行日記のが正確だ」
ツキジのスシはもう無理だな。青い瞳が報告書を滑り、金髪の男は英語で独りごちる。
目の前の大きなモニターに映し出された地図に打たれた点の、ひとつが赤く明滅していた。
「次は『戦前の流行』を混ぜようって上に提案するか。サムライはどうだ」
机に投げ出されたキーボードに手を伸ばす。程なくしてプリンターが、丁髷姿に洋装の男女が輪切りの西瓜片手に縁側でくつろぐ合成写真を吐き出した。
画面の端では維持可能時間を示す数字が、加速しながら滑り落ちていく。
平均的国民適性検査の会場は、シェルター住民二人に割り当てられる居住空間と同等の広さだった。その事実が、受検資格を得てきた人物の少なさを物語っている。
今年度後期も、予備試験を越えて辿り着いたのはたった一人だ。
――ようやくここまで来た。
その選ばれた青年の、緊張に加えて質疑応答に耐え続けた喉はすっかり乾き切っていた。日本人としては平均的な大きさの手が、Mサイズの国民用作業着の首元をわずかに緩める。青いシャツがちらりと覗いた。
最後の休憩時間、手首にはめた時計の秒針が十二を指すまでの僅かな間、彼は黒い睫毛を瞬きし、ゆっくり唾を飲み込む。
「『最終問題。ここに健康で問題のない平均的国民の成人A、B、C、Dの四人がいます。すり鉢型の』」
十二を指せば正面に、白髪の監査官が端末から顔を上げる様子が映った。背景の壁に貼られた贅沢品の壁紙、偶然にも子どもの頃から焦がれた空色とともに。
「すり鉢は知っているか」
壁に据え付けられた五十五インチモニターに映る口の動きに合わせて、脇のスピーカーから掠れた声が流れた。
長い間着席していた青年は、首筋を伸ばし見返す。視線は合わない。
移住第一世代たる監査官が傲慢でも老眼だからでもなく、画面三十センチ上で赤い光を明滅させるカメラが彼の視界だったからだ。
「インチとセンチという単位の混在は、大戦前の国交の名残による」遠い学生時代の歴史教師の口調を思い出しながら、平均的な日本人顔の青年は、下の世代に理解ある監察官を見つめた。
監査官の世代――既に片手で数えられる――はともかく、地上の記憶は人々の中から消えていた。今や料理は少し変わった趣味扱いだ。特にすり鉢など用途が限られすぎている。食事はほとんど液体か固形、もしくはペースト状で適切に提供されるため出番がない。
「昨年の博物館見学で、本物を見ました」
「宜しい」
正直に答えれば頷きが返る。
それより彼には、成人になるための平均的国民適性検査が、地上への扉が閉ざされて以来未更新らしき点が気に掛かった。「すり鉢」は、現在の平均的習得単語に含まれていない。
が、当時最先端の頭脳によって作られた永久普遍的な問題のはず、とすぐに自分を納得させた。彼は理性的で倫理的な成人たちによる教育課程と指導を享受し、平均以上の成績を修め、特に「伝統」の教科では常に上位にいた。
それに、先ほど監査官が話した設問の冒頭に覚えがあった。これがいつか図書館で読んだ「囚人の帽子」と呼ばれる問題ならば、これまでの十九問同様解く自信もあった。ここで波風立てることはない。
「続けよう。『階段状の席、低い方から一段ずつA、B、Cが。Aと壁を隔てた正面にはDが座っています』」
ほら、と青年は心の中でゆったりと構え、続く言葉と声音を想像した。二色の帽子が均等に割り振られた時、自分が被る色を当てたのは誰でしょうか――、
「『Dは監査官のカメラ映像を壁のモニターで共有します』」
違う。
思ってもみなかった続きに、青年の目尻がぴくりと動く。
「『部屋中央、壁とAの間には受検者と食卓が置かれます』」
言葉が切られると同時に、扉が開いて若い女性が白い布で覆われたワゴンを運んできた。彼女は布を机に掛け替えると、アルマイト製の給食トレイを眼前に置く。白いクロスと銀の食器に、頭上の二一〇〇年代の関東地方、同日時を再現した愛国社製人工太陽照明が眩しい。
「『受検者が食事を始めてから五分以内に、Bは赤白帽子を被ります。美味しそうだと思ったら赤、不味そうだと思ったら白を表に。なお全員、振り向くことは許可されていません』」
目が慣れると、受検通知の返答で事前申請した――シェルターメンテナンスの技能実習中も考え続けた、好物の「平均的国民食」が見えた。
米と味噌汁、揚げ物と野菜。
つやつや光る白米はきちんと陶器の茶碗によそわれ、淡黄色の味噌汁をたたえた汁椀は漆塗り。湯気と香気を立てるメインディッシュを盛り合わせた皿には、ごつごつとした風情がある。
割り箸には、白磁の箸置きまで付いていた。それらを収めているのは自然で主張しない色の木の盆。
かつて「定食」と呼ばれた平均的で完璧な日本食。永遠の実習生である彼には、たまにしか――誕生日の特別配給券でしかお目にかかれない贅沢品だ。
「『受検者は三十分以内に完食すれば合格、簡単ですね。晴れて我ら成人の仲間入りです。おめでとう!』何か質問は」
おめでとう、と問題内で祝福する監査官の声には、何度も同じ言葉と儀式を繰り返してきた者特有の無感動さがあり、青年は悟った。
単体なら観客が奇妙なだけのボーナス問題が、何であるか。
「あの番組は、士気高揚と正しい国民食を広める場だと思っていました」
僅かに語尾が震えていた。
青年が行儀悪いことを承知で見回せば、いつの間にか背後に横たわる段々に、見覚えのあるパイプ椅子が三脚増えていた。
いや、椅子だけではない。初めて来たはずの検査会場も、このボーナス問題の内容も、幾度となく見た。画面越しに。俯瞰視点で。
――視聴率八十%超の視聴者参加型娯楽番組、『あなたの好きな国民食』。
「なに、不合格でも食べかけを取り上げたりはしない」
誰も気にしないだろうに監査官はそんなことを言い、
「問題にはまだ続きがある。『Aが被る色は監査官によって検査直前、受検者以外の全員に告げられます。そしてBとDは反対の色を被ります。タイミングは各自の任意です』」
「自然な選択に見せるためですか? Aが先に被ればB、Cが影響を受けたとも取れるし、Cが先ならA、Bは自分の意思で。Dは常に自立しているように見える……」
「飲み込みが早いな」
五分前までならその言葉を誇りに思っただろう。しかし今は微塵もそんな気は起こらなかった。嘘ではない。シェルターの指導者であり保護者である監査官は嘘をつかない。
今もそうだ。やらせも沈黙も、嘘と同義だということを除けば。
「ああ、念のため。『検査は撮影され、国営テレビ一チャンネルでシェルター全体に放送されます』」
「そして選ばれた者だけが、手元の端末からコメントを書き込むことができます」
青年は淡々と言葉を続ける。視線が合わないことに感謝した。慈悲深く冷静だったはずの老人の顔が、のっぺりした人形のように見えた。
***
世界を巻き込んだ大戦が地上を荒廃させつつあった時、人類の取れる選択は二つだった。地上と地下のどちらで生き延びるかだ。前者は戦いを決意し自由と希望を地上に求め、後者は安全と地上復興を夢見て地下に潜った。
結局のところ地上は荒廃し、他のシェルターとも連絡は途絶え、この北関東国民保護シェルターは事実上の(人口数百人の)日本国として運営された。
責任者である監査官と議会は上手くやった。時が経ち代替わり問題が起きると、選挙・被選挙権をはじめとした決定権を持つ人々を「成人」とみなし、正しい日本を維持する素質のある、清く正しい平均的日本人が選ばれた。成人になるための検査の内容は、公正を期すため、極秘にされる。
――以上が青年が学校で教えられた歴史だ。しかし実のところ、最終問題に関しては堂々と公開され予習すら可能になっていたのだ。エンタメとして。
シェルター内で放送といえばニュース、特に法律の策定・更新とメンテナンス関連通知が殆どで、他の番組は旧時代に用意されたものが数十年繰り返されている。
その中で、ごく珍しい新規撮影の『あなたの好きな国民食』、通称『国民食』は恰好の娯楽だった。
「今回の検査を辞退するか」
次の機会がいつか分からないが。監査官の眼はそう言っていた。青年は白髪が混じり始めた頭をくしゃくしゃと掻くと、返答する。その間二秒。
「受けます」
「宜しい」
女性がワゴンと共に去ると、入れ替わりに演者が三人入ってきた。どの手にも白を表にした赤白帽子。彼らが「A、B、C」で、壁の向こうにもう一人いるのだろう。
彼らが着ている白と黒と灰の国民服。同色の床のタイル、無骨なパイプが這う壁と天井。色彩は食事だけで否が応でも人の目を惹く。
――ここはすり鉢じゃなくて闘技場だ。
中央図書館の通い慣れた禁帯出書架、いつか隠すように押し込めてあった――いつの間にか消えた――旧時代のボロボロの教科書が脳裏に蘇る。パンとサーカス。好きに叫ぶその日限りのローマ市民。特等席の特権階級には彼らの熱狂も酒の肴なのか。
開放的な青空の下で行われる野蛮な遊びを想像したことはあるが、自分が文明社会で見世物の剣闘士になるとは思ってもみなかった。
程なくしてモニターから監査官の顔が消えると、番組の軽快なオープニング曲が流れてきた。陽気で落ち着いた合成音声が「今日の幸運な住民が選んだ食事は」と告げる。視聴者には、検査であることは勿論出演者の名前も、生放送だとも知らされない。
青年はひと月前の出演者のその後を思い出そうとして、名も知らぬ彼のあれだけ見た背中を覚えておらず、見かけたことがあったかどうかすら記憶にないことに気が付いた。そして、適性検査を落ちた人物の話など誰もしないことにも。
思考の端から湧き上がっては覆っていく良からぬ想像を、青年は首を振って追い払う。
成人候補の貴重な人間を見世物にするためだけに、こんな無意味で手間のかかる問題を出すわけがない。
そう、見世物ではなく通過儀礼だ。成人の祝い膳が少し早まるだけのこと。ただ「好物を食べきるだけ」でいい。
一般的な「成人」なら誰に何を言われても平均で理想的で正しい振る舞いを、無事にやりきらなければならないのだから。
無意識のうちに深い呼吸を数度繰り返してから、青年は盆に視線を定めた。
左に炊きたての白米を盛った茶碗、右に豆腐とわかめの味噌汁を満たす椀。貴重品になったとはいえ、これが日本食の基本でないなどと疑う国民はいない。
間に置かれたメインディッシュの皿には小さめだが厚みのある豚カツ、尻尾までカリカリの海老フライと唐揚げが盛られ、千切りキャベツとトマト、レモンが添えられている。それに調味料の小瓶もだ。
こんな時でも体は正直なのか、いつぶりかの揚げ物の香りに思わず喉がごくりと鳴った。彼は箸を手に取り茶碗を持ち上げる。一口含めば米の甘みが広がった。
――美味しい。
これなら、すぐに食べ切れそうだと思った。
ほっとして目線が自然と上がれば、モニターに観客の野次が上から下に流れていた。その時々で選ばれた人間だけが書き込める、動画共有アプリの画面だ。
《あれ、何米?》
《日本米は日本米だろ》
米の銘柄を、青年は指定していた。長らく代表的品種のひとつだった、コシヒカリだ。
《テロップにコシヒカリって出てるけど、白すぎない?》
監査官らが誤った品種を出してくることはあり得ない。青年は、思わず眉間につくってしまった皺を意識して、緩めた。
その僅かな間もコメントは絶えず好き勝手に流れていく。
《あんなもんだって》 《おいしそう》 《米ばっかり食ってない?》
幸い、観客から青年の顔は見えない。赤く明滅するカメラは角度を下向きに変えて、手元の料理を映すだけのはずだ。モニターの存在も当然知らない。……はずだ。いや、確かカメラにわざと目線を合わせた者がいて、画面がコメントで賑わったことがあった。
彼らは無責任に今日は祭りだと書き散らす。成人の条件は模範的平均的日本人であることなのに――あれも事前検査の一環かと今では思う。煽ったり、貶したり、過激な発言をしたことはなかったはずだ。大丈夫だ、大丈夫なはずだ。
《箸の持ち方、そうじゃないだろ》 《もっとうまそうに食べろよ》《いや指出るもんじゃない?》
――箸の持ち方なら、昨日も練習した。間違ってないはずだ。
《何で割り箸?》
――割り箸は指定していない。漆塗りと付記すべきだったか、いやもし望めたとしても、本物の漆はとっくの昔に入手不可能だ。「伝統」のテキストに書いてある。衛生面からも監査官の判断は正しいはずだ。正しい、正しい。
《割り箸ささくれてる》 《割るの下手なんだな》
無視すればいいと分かっていても、つい割り箸を確認してしまう。指摘通り一部が数ミリ、細く裂けてぶら下がっていた。刺さると面倒だが、言う通りにするのは少し癪に障った。何よりコメントを認識していると知られれば、ろくなことにならない。
彼は画面を見るなと自分に何度も言い聞かせ、視線を落とし味噌汁に口を付ける。熱が唇を侵し、慌てて離す。
すると画面は見ずとも、脳内に勝手にコメントが流れた。《何やってんの》《大人なんだからそれぐらい分かるだろ》
続いて、想像の画面の端で消えていったはずのそれが――同じようなゴシック体の羅列が脳内に流れ始めた。
《何やってんの》《大人なんだからそれぐらい分かるだろ》《普通こぼさないよね》《これって出演者どうやって決まってんの?》
――これは、ただの妄想だ。
理性を不安が上回りそうになる。妄想ならば妄想だと確信したいと、青年が画面をただ確かめるためにちらりと、ほんの一瞬だけ視線をやれば、
《味噌の色変じゃない?》《腐ってるのかも》
《発酵》 《豆腐には葱だよ》 《絹? 木綿? どっち?》
《手が震えてるぞー》
気付いた時には、汁がばしゃりとトレイに零れた。白い袖が直径一ミリの水玉模様に彩られる。成人はこんな過ちをしない。目の端に、《汚ねえ》、と映った気がしたが頭から無理矢理振り払い、慌ただしくコップの水を喉に流し込む。
「……っ、けほっ」
むせた。唇から零れる。袖で拭く。成人らしくない。
むせた拍子に頭の位置が動き、モニターが目に入る。脳内で叫ぶ――見るな、こっちを見るな!
《唐揚げにレモン!?ありえない》《絶対残すなよ》《いや俺もかけるよ、けどカツにはソースより醤油だろ》
《あ、帽子白になったわ》 《美味しそうに食わないからなあ》
《こいつにはもったいなくね?》
流れるコメントの中で「帽子」の文字が目に飛び込んできた。――そうだ、帽子。彼ら観客より近くで見ている審査員たちがいる。
白。不味そうに見えたという評価。背後を思い切り振り返らない限り――事前に告げられた通り、失格だ――彼らが今何色を被っているか、どんな様子かは観客に書かれなければ分からない。
帽子の色と試験の合格には何ら関係がないが、白になればなるほど、それに赤が混じる度、観客のコメントは苛烈さを増すだろう。……知っている。今まで番組で見てきたからだ。被ろうとしたり、やめたり、帽子の色を手元でひっくり返したり。闘牛士が煽るようなその動きを。
被る帽子の色が予め検査官によって決められているという事前情報は、青年にとってもはやどうでもいいものとなっていた。
青年の視界の端には、いつしか画面が入ったままだ。
意思から離れた手が勝手に動き、止まる。レモンを持ち、置き、再度持つ。無意味な動作。減らない食事の向こう側、モニター上の文字がめまぐるしく入れ替わり、青年の思考も感情も流れる言葉に翻弄される。
肉は資源の無駄遣い、生魚は貴重品。味噌は米か麦か豆か。赤か白か、ハッチョウか。旧時代の該当食料・料理の普及率、現シェルターの在庫。
数あるレシピと食材から何を未来のために優先的に継承し、何がここにあるべき、国に相応しい――正しい料理か。
この食事を数ある食事の中から選んで食べているやつは、平均的日本人なのか。
青年の顔から表情は消え失せている。食事から顔を背けそうになった時、繰り返される言葉の幾つかは、自身もまた「図書館で見たものと違う」などと無邪気に書き込んできたものと同じだと理解した。
皿の中身はなかなか減らないのに、空腹はもう感じていない。
これは定食。長い間、悩み抜いて決めた伝統的定食のはずだったのに。
そう、教科書の記述もシェルターの公開情報の検索もした。図書館の資料室の奥で、過去の本も散々漁った。ちゃんと奥付があった。本物の写真だって見た。こんな奴らの適当な、想像だけの、根拠のない書き込みじゃない。
誰にも文句を言わせない、完璧で平均的な日本食。
何度だって妄想した。待ちに待っていた。だから美味しいはずだ。食べている自分も美味しく見えるはずだ。
けれど「はず」ではない青年は、いつもの代わり映えしない食事が恋しかった。
食糧合成機械から生み出される食事は、見た目も味も素っ気なくても生命維持活動に必要な栄養素が十分に盛り込まれていた。
国の技術の結晶に彼は浴している。水耕栽培を主体とした数少ない収穫物と備蓄では、共同体は数世代も長らえなかったろう。それを理解してなお飽き飽きしていた味気ないそれを、今は食べたくてしょうがなかった。
今や待ち望んでいた食事は苦痛でしかない。口の中に今入っている何かを、我慢して呑み込むと痛んだ喉を擦った。剣のように重い箸で千切りキャベツを持ち上げる。歯ごたえという原始的な快楽で余計な思考を洗い流そうとする。味はしない。
《ま ず そ う》
無味無臭のフィルムに似た、カシャカシャ耳の中で鳴る葉を無理矢理飲み下す。
画面の中に流れる単語が、妙に大きく見えた。
良い悪い、おかしい、変、善悪、主語が大きい、法律、歴史、許す、ありきたり、生存バイアス、流行、不要、気持ち悪い――あらゆる種類の批評と皮肉と罵倒と拒否と心配と欲望と何かと、そして画面上の文字に埋もれかけた自分。作業中の事故で失った左手義指とその借金、時折映る仕事終わりのソーダがつくった丸い肩。
検査前は早く成人になりたかった。承認、実習でない仕事、まともな給料、投票権。だが一番は行動範囲の拡大だ。
子供の頃に貸し出し禁止書庫で見た、除湿機、家庭用洗濯機や冷蔵庫が眩しかった。いつか目を盗んで地上に行き、歩き、自動車――平均的習得単語ではない――を修理して走らせる。あらゆる過去の遺物を集め再現したかった。
このまま三十年ばかり、金属の箱の中で過ごして何も残せないまま寿命を迎えたくなかった。
戦いだって常に空を包んでいるわけではないだろう。許されるなら無人の偵察機械を作る。試作機が放棄された資料の中にあった。やがて先祖が操ったという飛行機――これも平均的ではない。昔廃棄場にあった旧世代のオモチャを、同じ技能実習生だった父親が拾ってきて、見たことがないって友達に馬鹿にされた、空色のラインが入った白い雲みたいな――で青い空を――。
いつの間にか青年は目を見開いたまま動きを止めていた。
ジリリリリリリ。
スピーカーからベルが鳴り響いた。
***
「視野の調整と、清涼飲料水に混ぜる向精神薬の増量を検討しよう。第七世代は味蕾減少の反動か、不安が強いようだ」
監査官は画面越しに、担架で運ばれていく受検者を見送る。机には蒟蒻と白米粉末の「コシヒカリ」、戦前からの伝統的な人工調味料と合成油脂を注入したモグラ肉のカツ、食用フィルム製疑似キャベツなどが残されていた。
「成人が年々減っているな。次の監査官はまた、父さんになるかもしれない」
監査官は自身の机の脇に立てられた水槽のような円柱――第零世代、初代移住者の脳が浮かぶ容器を愛おしむように撫でる。
移住後すぐ、シェルターでは問題が頻出した。最重要課題は劣悪化した衣食住環境への適応。「環境改善が無理なら、人体を変えるしかない」と発案したのは先祖たちだ。あらゆる感覚と代替部品の研究が行われ、感覚調整され人工物と入れ替わっていく肉体の代わりに、人間、国民たらしめるものは精神と文化になった。
食文化は生命の維持に必須なだけでなく、歴史を伝え娯楽にもなるその最たるものと見なされた。しかも味覚のうち辛みは痛覚で、食圧覚や温度、そして何より多種多様な情報と意味を含んだ。「成人」の良い指標になったのだ。
理想的で他者に惑わされない平均的国民でなくては国を維持できない。
――問題は、国民が求める成人の基準が年々上がることか。
監査官は端末で報告書を書き、指定のアドレスに送信する。旧時代の組織としか知らないが、近くの廃ビルには数十年もの間毎週、支援物資が届けられていた。それで十分だった。
***
「砕いた大豆と湯の味噌汁が日本食ねえ。うちのご先祖様の旅行日記のが正確だ」
ツキジのスシはもう無理だな。青い瞳が報告書を滑り、金髪の男は英語で独りごちる。
目の前の大きなモニターに映し出された地図に打たれた点の、ひとつが赤く明滅していた。
「次は『戦前の流行』を混ぜようって上に提案するか。サムライはどうだ」
机に投げ出されたキーボードに手を伸ばす。程なくしてプリンターが、丁髷姿に洋装の男女が輪切りの西瓜片手に縁側でくつろぐ合成写真を吐き出した。
画面の端では維持可能時間を示す数字が、加速しながら滑り落ちていく。
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