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深淵の瞳2
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じっとその翅を見つめると、かすかな太陽光に鈍く深緑色の光沢を放った。手を動かし角度を変えてみても、飛び立とうとはせず落ち着いた様子でしがみついている。
ユノンは幼い日、貴重な晴れた空の下で夢中になって見つめた蝶の翅を思い出した。
この霧に包まれたぼんやりした世界で、花々以外にこれほどまでにたくさんの色彩をもつものがあるのかと感動したのだ。
歳が十になる頃には王への輿入れ前なのだからと極力外出を控えた生活を強いられてきた。
まさか妃になってからこんな風にささやかな自由を手に入れられるとは、なんと皮肉なことだと乾いた笑みが漏れる。
「来てごらん、ミロ。この蝶がよく翅を見せてくれる」
立ち上がり振り向くと、手のひらの上の蝶と同じ色彩の眼差しとぶつかった。
闇の中に混じる、深い、深い緑の色。
思慮深げな目は細められ、まるで自分を貫き反対側を見通そうとしているように感じた。
おそろしく端正な顔立ちの、知らない人物だった。ユノンは驚いて何も言えない。ただ押し黙り、視線を外せないでいる。
「ユノン・オルトア」
手を掴まれ、蝶が飛び立つ。ユノンの肩はびくりと震えた。鼓動が早まっていき、身体は勝手に緊張する。
「俺がわかるか?」
「……」
深淵のような瞳に覗き込まれ、ユノンの背がぞくりと粟立った。
知らない顔のこの男は何を言っているのだろう。気味が悪い。離れたい。
突然気配もなく現れて、自分のことをわかるかなどと。男の着ているものは上等そうだが、臣下が仕掛けた悪い冗談だろうか。
「……知らない。誰だ、お前は」
言葉を出すたび、喉がひりつく。掴まれた腕が焼けるように熱い。振りほどきたいのに、なぜかそれはできなかった。
男はふんと鼻で笑う。
「昨晩王に抱かれ、よがり過ぎて記憶をなくしたか?」
「はあ?」
淡々と言われ、顔が熱くなっていく。妃に対するこんな不遜な態度が許されてたまるものか。
「ミロ! 誰だこの者は!」
怒鳴ると、ミロがぱたぱたと掛けてくる。そうすると大量の黒輝蝶がばらばらと飛び立ち、「ひっ」と小さく悲鳴が聞こえた。
「へ、陛下の弟君のライル殿下でいらっしゃいます。ですから先ほどお呼びしましたのに」
狼狽した様子で息をつくミロの言葉に、耳を疑った。
「なに?」
もちろんライルのことは知っている。だがいまだに面識はない。タリアスはなぜ事前に会わせて紹介してくれなかったのだろう。
「他国に使者として赴いていた。昨日の婚礼の儀に間に合うよう戻って来る予定が、向こうの船着き場の事故で遅れたのだ。帰り着いた時には儀式は終わっていた」
「なんだって……?」
ライルはユノンの腕を解放する。掴まれた跡がいやにじんじんする。
「……弟君とは知らず、ご無礼をお許しください」
不本意だが謝るしかない。王の弟に乱暴な物言いをしてしまった。波風立てるべき相手ではないのに。
ユノンは頭を下げた。
「やはり、だめか」
「……今、なんとおっしゃられましたか?」
その問いには答えず、ライルは背を向けて歩いて行った。マントを翻し、石段を上り、王宮の方へ去って行く。
「気難しい方です。正直申しますと、私も少し苦手な方です」
ミロがこそりと囁く。
「けれど王陛下は絶大な信頼を寄せておられます。ことにライル殿下の担当しておられます翡翠と塩丹の輸出貿易に関しては、先代の王の時代よりもかなり利益を出しておられるようです。私も、よくは知らないのですが」
「どうやって?」
「良質な翡翠の流れ着く時期というのがあるようでして。規則性はないとされていますが殿下はそれを上手く予測し、集中して採石する時期と細工時期をわけておられる。それで高品質な翡翠細工を今までより大量に生産することを可能にしたのです」
「そんなことができるのか」
ユノンはライルの去った方を見つめている。もう姿は見えないが、ひどく心がざわつく。
嫌な感じかと問われると、また違う。彼の不遜な態度は許しがたいけれど、なぜか違う意味で気になってしまうのだ。それは言葉では表しがたい。
「やはり早春の朝夕はまだ少し、冷えますね。戻りましょうか」
ミロに顔を覗き込まれ、我に返った。
「どうかされましたか? ライル様に何かされました?」
ミロが険しい顔をする。
「いや、なんでもない」
発言で辱められたが、そのことまで彼は知らなくていい。
ライルはこの先死ぬまで幾度となく顔を合わせなければならないだろう人物だ。深入りせず、浅く付き合えばいい。
自分は王とだけ上手くやり、臣下には柔和に接してさえいればみんな穏やかでいられる。王の妻として、臣下たちとともに忠誠を尽くすだけ。
ユノンは俯き、石段へと歩き出した。
ユノンは幼い日、貴重な晴れた空の下で夢中になって見つめた蝶の翅を思い出した。
この霧に包まれたぼんやりした世界で、花々以外にこれほどまでにたくさんの色彩をもつものがあるのかと感動したのだ。
歳が十になる頃には王への輿入れ前なのだからと極力外出を控えた生活を強いられてきた。
まさか妃になってからこんな風にささやかな自由を手に入れられるとは、なんと皮肉なことだと乾いた笑みが漏れる。
「来てごらん、ミロ。この蝶がよく翅を見せてくれる」
立ち上がり振り向くと、手のひらの上の蝶と同じ色彩の眼差しとぶつかった。
闇の中に混じる、深い、深い緑の色。
思慮深げな目は細められ、まるで自分を貫き反対側を見通そうとしているように感じた。
おそろしく端正な顔立ちの、知らない人物だった。ユノンは驚いて何も言えない。ただ押し黙り、視線を外せないでいる。
「ユノン・オルトア」
手を掴まれ、蝶が飛び立つ。ユノンの肩はびくりと震えた。鼓動が早まっていき、身体は勝手に緊張する。
「俺がわかるか?」
「……」
深淵のような瞳に覗き込まれ、ユノンの背がぞくりと粟立った。
知らない顔のこの男は何を言っているのだろう。気味が悪い。離れたい。
突然気配もなく現れて、自分のことをわかるかなどと。男の着ているものは上等そうだが、臣下が仕掛けた悪い冗談だろうか。
「……知らない。誰だ、お前は」
言葉を出すたび、喉がひりつく。掴まれた腕が焼けるように熱い。振りほどきたいのに、なぜかそれはできなかった。
男はふんと鼻で笑う。
「昨晩王に抱かれ、よがり過ぎて記憶をなくしたか?」
「はあ?」
淡々と言われ、顔が熱くなっていく。妃に対するこんな不遜な態度が許されてたまるものか。
「ミロ! 誰だこの者は!」
怒鳴ると、ミロがぱたぱたと掛けてくる。そうすると大量の黒輝蝶がばらばらと飛び立ち、「ひっ」と小さく悲鳴が聞こえた。
「へ、陛下の弟君のライル殿下でいらっしゃいます。ですから先ほどお呼びしましたのに」
狼狽した様子で息をつくミロの言葉に、耳を疑った。
「なに?」
もちろんライルのことは知っている。だがいまだに面識はない。タリアスはなぜ事前に会わせて紹介してくれなかったのだろう。
「他国に使者として赴いていた。昨日の婚礼の儀に間に合うよう戻って来る予定が、向こうの船着き場の事故で遅れたのだ。帰り着いた時には儀式は終わっていた」
「なんだって……?」
ライルはユノンの腕を解放する。掴まれた跡がいやにじんじんする。
「……弟君とは知らず、ご無礼をお許しください」
不本意だが謝るしかない。王の弟に乱暴な物言いをしてしまった。波風立てるべき相手ではないのに。
ユノンは頭を下げた。
「やはり、だめか」
「……今、なんとおっしゃられましたか?」
その問いには答えず、ライルは背を向けて歩いて行った。マントを翻し、石段を上り、王宮の方へ去って行く。
「気難しい方です。正直申しますと、私も少し苦手な方です」
ミロがこそりと囁く。
「けれど王陛下は絶大な信頼を寄せておられます。ことにライル殿下の担当しておられます翡翠と塩丹の輸出貿易に関しては、先代の王の時代よりもかなり利益を出しておられるようです。私も、よくは知らないのですが」
「どうやって?」
「良質な翡翠の流れ着く時期というのがあるようでして。規則性はないとされていますが殿下はそれを上手く予測し、集中して採石する時期と細工時期をわけておられる。それで高品質な翡翠細工を今までより大量に生産することを可能にしたのです」
「そんなことができるのか」
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嫌な感じかと問われると、また違う。彼の不遜な態度は許しがたいけれど、なぜか違う意味で気になってしまうのだ。それは言葉では表しがたい。
「やはり早春の朝夕はまだ少し、冷えますね。戻りましょうか」
ミロに顔を覗き込まれ、我に返った。
「どうかされましたか? ライル様に何かされました?」
ミロが険しい顔をする。
「いや、なんでもない」
発言で辱められたが、そのことまで彼は知らなくていい。
ライルはこの先死ぬまで幾度となく顔を合わせなければならないだろう人物だ。深入りせず、浅く付き合えばいい。
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ユノンは俯き、石段へと歩き出した。
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