茅鼠

綿涙粉緒

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茅鼠

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茅鼠かやねずみ、というそうだ」

 男はそういうと、器用に釣竿を操りながら煙管の灰を落とした。

 総髪を後ろで無造作に束ねたその男は、五十の坂を少し越えたほどの歳で、粗末な着流しに身を包む体格の良い浅黒い肌の侍だ。

 よく見れば額に面ずれができている、相当鍛えた腕であろうと思われた。

「そう……なの、ですか」

 男の隣で、竿も持たずに手持無沙汰の体で座っていた若侍が、そう答える。

 一方こちらはつるりとした月代も清々しい二十そこそこの男で、こんな朝方の河原に不釣り合いな、清々しい羽織袴というをして座っている。

「小さい」

 その視線の先には、油紙のような赤茶けた色をした小さな鼠が葦の根方をかじっているのが見える。「そうですか、茅鼠というのですか」若侍はそうつぶやくと刀の柄に手をかけた。

 その手が、小刻みに震えている。

「可愛らしいであろう、そなたの在所には寒すぎて住んではおらぬものだ」

 その言葉に、若侍はビクリと身を震わせ、刀の柄から手を下した。

「知っておられたのですね」

 河原の地面を眺めながら、恐る恐るそうたずねた若侍に「うむ、まあなんとはなく、ではあるが」と小さく呟くと男は竿を置いてゆっくりと立ち上がった。

 思いがけず小さな身体。しかし、その得体のしれない雰囲気に、その場の気温が、ぐんと下がった。

 男の眉間に深く刻まれたしわが、神楽面の鬼の如くに迫って見える。

「そなたの名は木村左右平そうへいで、あろう」

「はい、そしてあなたの名は……」

 若侍はそう言って同じく立ち上がろうとした、が、脚が震え河原の石に根が生えたように腰が動かない。

「ああ、察しの通りわが名は佐々木孝右衛門」

 そこまで言うと男は、口の端をにやりと釣り上げその丸太の如くに太い首をさすった。

 二人の間に冷たい風が走る。

「そなたの探す、仇首、なのであろう」

 男の言葉に、若侍はゴクリと唾を呑み込んでゆっくりと頷いた。



「怖くは、ないのですか」

 木村は小さく、川面に向かって聴く。

「なあに、そなたほどではない」

 佐々木はそう答えると、ピュッと風を切って竿をあげ「うむ、いかんな」とつぶやいて針先を見ると「さすがにいくつも獲物はかからぬかよ」と自嘲気味に笑って木村を見た。

「獲物は、私、なのですか」

 木村は不機嫌そうに呟き、葦の隙間を走る小さな生き物に目を遣った。

「気になるのか、茅鼠が」

「ええ、私の郷にはいないもの、いえ、ご承知の事でしたね」

 佐々木はそんな木村の様子を小さく鼻で笑って一瞥すると、小さな針先に練り餌を擦り付ける。一つ一つの動作は緩慢だが、その所作の一つ一つが堂に入って、まったくの隙さえ見せない。

 木村は、ゴクリと唾を呑み込んだ。

「私は、恐れているのでしょうか」

「恐れてはいないのか」

 木村の問いにそっけなくそう問い返すと、佐々木は再び釣竿を川に投げる。

 朝方の湿った空気を裂くように振り込まれる竿先の動きは、少しの乱れもなく、生き物のように針先が川面へと飛んで行った。

 その動き、そのたたずまい。

「そう、ですね、私は恐れているのだと思います」

 そう答えて、木村は朝露に冷え始めたその両腕をさすった。

 やむにやまれぬ事情で、木村はこの男を追って雪深い郷から江戸にまでひとりやってきた。そして、目の前の男が、佐々木孝右衛門というこの男が、いかに恐ろしい人間であるかは、郷里のうわさで嫌というほど知っていた。

 指南番を目指す旅武芸者を藩侯の前でことごとく叩きのめし、容赦なく木刀一本でその命を絶つ。

 眉尻一つ動かさず、口元に微笑みを浮かべて。

「あなたのお噂は、聞いておりますゆえ」

 ただ座っているだけのその姿、竿さばき。

 噂に偽りはない、木村はそう確信していた。

「そうか、それは恥ずかしいことだな」

「恥ずかしい、のですか」

「ああ、若いというのはそれだけで恥ずかしいものだからな」 

 佐々木の言葉に、若侍である木村は再び不機嫌そうな表情を浮かべる。

「まあ、人というものはいくつになっても恥ずかしいものだ。若いころはそれが恥ずかしいと気づかぬだけ」

 言いながら佐々木は「コンコン」と乾いた咳をした。

「そなただけではない、みな恥ずかしいものだ」

 子供のように不機嫌になった木村の心中を正確に察したのか、佐々木はそういうとまたしても器用に片手で煙管に火をつける。

 ふわりと紫の煙が上り、甘いにおいが漂った。

 ――この匂い、知っている

 漂う香に顔をしかめ、木村は再び茅鼠に目を移す。

 一心不乱に葦の根方に縋り付く小さな生き物。

 そう、あの時の俺もそうだった。

 物言わぬ亡骸となった父の身体に縋り付き、ただ泣き叫ぶだけの子供。

 そして思い出した、この匂いは縋り付いた父の亡骸から匂っていたもの。生臭い血の匂いの中で、くっきりとその甘い匂いだけは覚えている。そしてそれは。

 隣の男が、佐々木孝右衛門が仇の首であることを決定づける匂いだ。

 だからこそ伝えなくてはならないと思った。自分が生きてきたあかしと、そして、この男がもたらしたことの結果を、それは、礼儀のように思われた。

 そう決めて、木村はゆっくりと口を開く。

「父は、最低の男でした」

 木村の言葉に、佐々木は答えない。

 ただ黙って煙管をくゆらせ川面の竿先を眺めるのみ。

「殺されて当然の男、あれは天罰だ、正義の裁きだ。そんな声の中で私は育ったのです」

 木村はそういうと、過去に思いをはせた。

 まだ十歳になったばかりのころ、木村の本宅に押し入った佐々木孝右衛門は、左右平の父玄侑を殺害し、その妻、そう、左右平の母ときをかどわかすと血刀を手に藩を出奔した。

 そののち、残された左右平は遠縁の家で肩身の狭い暮らしを始める。

 そしてそこで、いやというほど父の悪評を聞かされた。

 さらに、そのおまけとばかりに、いやというほど仇である佐々木孝右衛門の名声をも聞かされて育ったのだ。

 しかし、それは真実。確かに父は悪評の似合う、そんな男であったらしい。

 郷里の噂では、父は次々に身分の卑しい女に手を付け、飽きたらごみ屑のように捨てる好色漢であったらしい。

 しかも、藩侯ですらおいそれと口を出せない血筋をかさに悪行の限りを尽くした卑劣漢でもあったらしい。

 それゆえ、どこにどれほど兄弟がいるかもしれないから気をつけろ、そんな言葉とともに耳の腐り落ちそうな事どもをいやというほど聞かされて左右平は育った。贅を尽くした暮らしを送っていた幼き日々のその責を負わされるように。父玄侑への仇討のような言葉を一身に受けて、育った。

 事実、そんな父の姿のその端緒を左右平は覚えていた。

 家には行儀見習いの下級武士の娘がいつも数人住んでいたのだ。そして、そんな女たちが、父や母とともに寝間に入っていく姿を何度か見かけたことがあった。

 下級武士の娘でも分け隔てなく接する優しい両親。そう無邪気に思っていた左右平も父の悪評を聞きながら大人へと成長していく中で、その意味を知り、井戸の陰で何度も嘔吐した。何度も嘔吐し、涙をこぼし、そして、心に決めた。

 自分は立派な武士になろうと。

 佐々木孝右衛門のような、ひとかどの武士に。

「清廉潔白、質実剛健。まさに武士のかがみ」

「ん、何か言ったか」

「いいえ、こちらのことです」

 そして、その男が今は隣に座っている。

 憧れ追い求めた、憎き仇の首が、そこにある。

 剣を持てば鬼、離せば仏。命をなげうって挑む者には容赦なく自分のすべてをぶつけてその覚悟のほどに応じて生殺を操り、傷ついた未熟な敵は、敵であろうと手当てをし、そしてその業を惜しげもなく教え伝える。

 人を救うに理を問わず、抗うに敵を問わず。

 そしてついに、父のひどい仕打ちに耐えかねた母が墓地で首を吊ろうとしていたところを助けた。藩侯ですら逆らい難いその巨悪に、ひるむことなく白刃ひとつで挑みかかり、見事その本懐を遂げた三国一の武士。

 その所業に何人の無辜の民が喝さいを叫び、そして感謝したのか。

 左右平に向けられた人々の視線を思い出すだけで、その大きさなら身に染みてわかる。

「あなたは今、郷里で神となっておりますよ」

 事実、出奔し取り潰しとなった佐々木の本宅跡にはちいさな祠が立っている。

 はじめは、木村玄侑の悪行に悩まされていたどこぞの商人が建てたものだったらしい、しかし時とともに、それはまさに神ともいえる扱いに変わっていた。剣を志す者、文で身を立てようとするもの、立身出世を望むもの。そして、男子を授かった母親などが訪れ、どうか佐々木様のごとき立派な男になれますようにと手を合わせる。

 人によっては、それを、佐々木神社というものもいる。

「どうですか、神になった気分は」
 
「恥ずかしいことだ、死んでもおらぬのというのに。だが、なるほどそれでというわけか……」

 佐々木は困惑の表情を浮かべ、深く長い息をたばこの煙とともに吐き出すと、ひざを鳴らしてその灰を打ち捨てた。

「ええ、藩としては、重役を殺した咎人が、それこそ神になったので始末が悪い」

「さもありなん」

 時が経つにつれ、藩内で高まる佐々木の評判。

 しかし、武士の本懐は上意下達の忠義であるとする藩の思惑は、藩の重役を切り捨て妻を奪って逃げた男のその評判を捨てておくわけにもいかず、とはいえ藩の境を超えて佐々木を追うわけにもいかず。

 結果、亡き木村玄侑の忘れ形見である木村左右平に白羽の矢が立ったというわけだ。

 木村もまた、藩から押し付けられるように届いた仇討ち御免状に、そのすべてを悟った。抗うつもりもなかった。また、佐々木孝右衛門に会ってみたくもあった。

 剣の腕も十人並みの木村に、仇を討つ気などみじんもない。

 ただ、会いたかった。憧れの男に。 

「あなたが江戸にいる、その行方はすぐにもつかめました」

「隠してはおらんからな」

「ええ、あからさまに残る足跡は、たどりやすかったですよ」

 そう、佐々木の足取りは目の前に転がるようにくっきりと残っていた。

 普通、一生をかけても巡り合えない仇の首に、たった四半月ほどでたどり着くことができたのは、このわざと残していたのではないかと思えるほどに、くっきりと残る佐々木の足取りのおかげだ。いや。そうではない。

 きっと。

「わざと、なんですね」

「さてな」

 そういうと佐々木は懐から小さなおはぎのようなものを出して川に放り投げた。

 それは、そのあたりに細かな粉をまき散らしながら川へぼちゃりと落ちる。

「いまのは」

「撒餌だ、糠を炒ったものに少々魚粉を混ぜてある。おかげで」

 そういうと佐々木は数間先の葦の根方を見つめた。

「魚も集まるが、鼠もまた、な」

 見れば、先ほどの茅鼠がきょとんとこちらを眺めている。そして、そんな視線に気づいたからなのか、またしても目の前の葦にとりつくと細かにかじり始めた。

 一心不乱にかじっている、しかし、先ほどとまったく変わっていないように見える。

 なんと小さく不憫な生き物か。

 木村はいったんはそう思い、しかし、すぐに思い直して茅鼠を見つめる。

 茅鼠の小さな身体に比べて、葦の大きさは、まるで大木のようなものに違いない。そう思えたからだ。

 ただ一心不乱に葦をかじり、それをどうするつもりなのかは知らないまでも、きっとこれを切り倒そうと挑んでいるに違いない。その身体から見れば巨木のごときそれを、小さな身体一つで倒そうとあがいているのだ。

「気になるか、茅鼠が」

 再び、佐々木は先ほどと同じことを聞いた。

「ええ、健気なものであると、見上げたものであると、そう思います」

 木村の素直な口ぶりに、佐々木は小さく「フッ」笑うと意外なことを口にした。

「木村玄侑の御子息殿、よければわしの下で剣を学ばぬか」

「なんですって」

 木村はとっさに立ち上がる。

 その後ろで、茅鼠がさっと姿を消す音がした。

「わしを殺すためのその剣、わしが鍛えてやろうというのだ」

 佐々木の奇妙な誘いに、木村はただ立ちすくむばかりであった。



「わしは、ほめられ、あがめられるような人間ではないのだ」

 奇妙な誘いの後、佐々木はそう前置きをして独白を始めた。

 木村には、ただそれを聞くほかない。

「確かに剣の腕は立つ、自分で言うのもなんであるがな、たとえこの江戸であろうとわしに敵う者はそうそうおるまい」

 一見、世間知らずの若い武芸者のような言葉も、佐々木の口から洩れればそれは、真実としてしか受け止められない説得力があった。確かにそうであろう、木村でなくとも、そう思ったに違いない。

「それだけにわしはおごっていた。弱きを叩きのめすことに快感を得、弱きに施すことに自慢を得、そうして高まる名声を浴びることに汲々としておっただけだ」

 佐々木は語る、その胸の内を。

 自らを満たし、そんな手前勝手な満足を得るだけの日々。

 弱きもの打ち据え、救いを求めるものに手を差し伸べながらも、その心内ではいつもそれらを見下し、ただ自分の名声を高める道具としてしか考えていなかった。湧き上がる卑しい心が、そんな自分を突き動かしていた。

「愉快であったよ、本当にな」

 そう自嘲気味に笑う佐々木の言葉を、木村はそれほど意外とも思わずに聞いた。

 佐々木の言葉、きっとそれは謙遜ではない。間違いなくそれは、佐々木の偽らざる想いであり、その男の価値を減ずる事実ではない。

 むしろ、憧れ追い求めた男が、郷里で神となった男が、ただの心ある人間であったことに木村は安堵すら覚えていた。その正直な物言いに親しみがわきつつもあった。  

 しかし、次の一言で、木村の心中は一変する。

「それにな、わしは、そなたの母に、とき殿に懸想しておった」

「な、いま、なんと」

 懸想……だと。

 では、佐々木殿はわが母に惚れていたということか。と、すれば、それは。

 そんな木村の心中を正確に察して、佐々木は続けた。

「ああ、そうだ、そなたの母が墓地で首をくくろうとしておったなどというのは真っ赤な嘘。真実は、ただわしとそなたの母とで示し合わせて玄侑殿の寝間に押し入り、刀もとらせずに惨殺したまでのこと」

 そんな……馬鹿な……。

「で、では、佐々木殿は母を哀れんだのではなく」

「押し込み、奪った。ただの夜盗よ」

 そう言うとニヤリといやらしげに笑い、冷たい視線で木村を見下し、続けた。

「どうしても手に入らない女だったからな、ああするしかなかったのよ」

「こぶ付きの藩の重役の奥方。そうでもせねば我が物にはなるまい」

「隠れて犯すのも、限度があったしな」

「寝首を掻くしか、あるまい」

 なんて、ことだ。

 とめどなくあふれる佐々木の言葉に、木村は心中でそう唸り、そしてこぶしを握り締めた。

 憧れていた、いや、崇拝すらしていた目の前のこの男は、木村の思いもつかぬほどに下衆な男であった。

 それは、確実に父玄侑にも劣る卑劣漢であり、佐々木の悪辣さに比べれば父玄侑のそれは児戯にも等しく思えた。武士の家に押し込み寝首を掻いて妻を簒奪するなど、とてものこと侍のやるべきことではない、それはまさに夜盗の領分だ。

 畜生外道の仕業だ。

 佐々木の心内に黒い憎しみがわく。それが誰に対するものかもわからず。

 それが目の前のこの外道に対してなのか、それとも卑しい自らの母に対してか。いや、真実も知らず、噂に惑わされ、哀れな父を恨み、この外道、佐々木孝右衛門に憧れ続けた愚かな自分に対してか。

 それとも、この皮肉な運命に対してなのか。

 わからぬ。

 わからぬまでも、その身を焦がす憎しみと怒りは、木村の額に粟のような汗を染み出させるに十分であった。

 その心に、ねばつく黒い炎をたきつけるには十分すぎる事実であった。
 
 しかし、佐々木は、そんな木村を気にも留めず、さらに吐き捨てた。

「まあでも、とき殿は長くはもたなんだよ。罪の呵責であろうが、少々無理に事を進めさせたせいか気を病んでな、間もなく死んだ。思えばあれも哀れな女よな」

 佐々木の言葉に、木村の視界がぐにゃりとゆがむ。

 知っていた、それは知っていた。

 佐々木と母がともに暮らしたのは三年にも満たぬことを。しかしそれも、別のところにその種があると思っていた。

 少なくとも木村には、それでも母は佐々木に救われたのだと思っていた。

 その三年を、自由に、幸せに暮らしたのだと。

 なのに、救われるどころか、母は無理に畜生働きの片棒を担がされたせいで心を病み、そのせいで死んだのだ。しかも、それを佐々木は、そんな母を哀れだと言い放った、哀れだとそう切り捨てたのだ。

 恥ずかしげもなく、母を哀れんだのだ。

「き、貴様は、それで恥ずかしくはないのか」

「なにを、先刻から恥ずかしいといっておるではないか」

 絞り出すように、やっとのことで発した木村の問いに、佐々木はぶっきらぼうに答える。そして、何事もなかったかのようにもう一度切り出した。

「で、どうする。わしの下で剣を学ぶ気はあるか」

「ふざけるな」

 木村はそう叫ぶとその場に立ち上がり、刀に手をかけた。

 そのまま抜き打ちにこの男を切って捨てる。前口上もも名乗りもなく、相手に剣を構えるいとまも与えず、卑劣漢にはふさわしい不意打ちで仕留める、それならできる、自分にもできる。

 この男は父の、いや父と母の仇なのだ。
 
 木村がそう決して、刀を抜こうとした、その時。

 ピュウという風切音とともに川面から飛んできた竿先が空中でクルリと向きを変え木村の眼前に迫り、同時に佐々木の煙管が木村の愛刀の柄頭をグイっと押さえつけた。

 まったく見えなかった、動いたことすら、わからなかった。

「ぐぅ」
 
 木村の口から、つぶれる様な呼気が漏れる。

 煙管に抑えられた刀は岩に遮られるかの如くにピクリとも動かず、そして、これより一寸も動けばその竿先が柔らかい眼球を貫くことは未熟な木村にも明白であった。

 だから動けない、木村は完全にそのすべてを封じられたのだ。

「そなたではわしの敵にはならん。その程度の無様な不意打ちが叶うほど、わしは弱くはない」 

 佐々木はそういうと、抜き打ちの姿勢のまま固まる木村を泥にまみれた雪駄で蹴り飛ばした。そして、そのまま風の如くに木村に迫るとそのみぞおちあたりを思いきり踏みつけた。  

「がぁぁ」

 木村の口から悲鳴が漏れる。

 佐々木はそれを無表情で聞き流し、続けた。冷たい瞳で見下ろしながら。

「あがいて見せよ木村左右平。茅鼠の如く一心不乱に剣を磨き、その命をもってあがいて見せよ」

 言いながら佐々木の脚に力がこもる。

 胃の腑の内をぶちまけそうな苦痛の中、木村はその声を聞いた。

「これより毎日、わしはこの刻限ここでそなたを待つ。何度でも挑み、その度に強くなれ。誰のためでもなく、藩のためでも親の仇でもなく、そなたの憎しい男を討つために、そのためだけに強くなれ」

 佐々木の脚にさらに力がこもる。

 木村は、その身を裂くような痛みにすでにその意識を手放しそうになっていた。そうなりながらも、佐々木の言葉を必死に耳の端でとらえていた。

「あがけよ茅鼠。そなたの前にある巨木にかじりつき、見事倒して見せよ。見事本懐を遂げてみせよ」

 遠くなる佐々木の声を聴きながら木村は心中でつぶやく。

 ああ、俺は茅鼠であるのか。と。

 これから俺は、この男に挑み、倒れ、そしてまた挑み。その巨木をかじり倒すその時まで、みじめに縋り付かねばならないのか。それが俺の人生なのか、それが俺の運命さだめであるというのか。

 ならば、そうであるならば。

 その時、かすれていく意識の果てに茅鼠の姿が見えたような気がした。

 相も変わらず、一心不乱に葦にかじりつき、いまだそれを倒せてはいない、小さな、小さな生き物の姿が。

 健気にも果敢な、小さき命の姿が。

 俺はあれか、ならば。

 挑もう。

 この身果てるまで、命燃え尽きるまで。

 この男に挑み、そして、いつかは……。

「期待しておるぞ、茅鼠」

 佐々木のその言葉が、木村の耳に届くことは、なかった。 



「で、大川の殺しの件、ありゃいってぇどうなってる」

 浅草あたりを根城にする目明しの藤五郎は、手下てかの五平に面倒くさそうにそうたずねた。

 この男、浅草の藤五郎親分といえば知らぬ者のいない、新米の同心なら頭も下げようかというほどの大人物ではあるが、その実ただの面倒くさがりのお節介焼きという、なんとも厄介な性分の中年男だ。その厄介さ加減は、歳の割にはやけに多い白髪が物語っている。

「ああ、あの決闘の件ですかい、しかし親分、ありゃ親分の縄張りじゃねえですぜ」

 かつては駱駝らくだの五平という名で知られていた小悪党、いや小悪党と大悪党のちょうど中ごろくらいの名うての強請屋であったこの男。藤五郎に熱い灸をすえられて以来その手下ということになっている五平もまた、藤五郎の厄介な性分にはほとほと手を焼いている。

 まあ、その性分がなければ今頃五平は獄門台に登っていたのだろうから、文句を言えた義理ではないのだが。

「知ったことか、負けた佐々木某って侍は、俺の縄張りじゃねぇのかい」

「まぁ遠かありませんが、ちょいと出てますな」

「うるせぇ、で、どうなんだい」

 五平の抵抗もむなしく、どうやらこれにも藤五郎は嘴を挟みたいらしい。

 もちろん五平も、そんなことは先刻承知で北町の同心あたりからそれなりの情報はすでに仕入れてきている。強請屋であった頃は、準備万端整えて、ぐうの音も出ないほど相手を追い詰めることで有名だった男だ。こういう仕事に関しては、そこいらの瓦版屋の上を行く。

「へぇ、殺されたのは、浅草をちょいと出た上野は池之端の長屋住まい、今は素読の指南をやっているご浪人で、佐々木孝右衛門って年寄りでさ」

 その言葉に、藤五郎は「チッ」っと舌打ちをした。

「やっぱりあの爺だったか、てぇことは相手は相当の手練れってこったな」

「ご存知で」

「ああ、よく知ってるよ。碁会所でよく合う年寄りでな、普段はどこにでもいる好々爺だが……ありゃ」

 藤五郎は後ろ頭をほりほりと掻いた。

「剣の鬼だ」

「わかるんで」

「ああ、間違いねぇよ、ありゃ相当鳴らした男だ」

 藤五郎は目をつぶる。

 あの姿、あの出で立ち、あのたたずまい。ただ座っているだけでもどこにも打ち込むすきがなく、ただ歩いているだけでも、すれ違う人間を軒並み切り殺してしまいそうな冷涼なる殺気の塊。

 あれが、殺されるもんかね。

「で、下手人は」

「ま、まあ下手人といっていいのかどうかわかりませんが」

「なに、どういう意味だ」

「いやね、その佐々木某を殺めたやつも二本差しで、本人が言う通りなら仇討だってことになるそうで」

 仇討ちだって、じゃぁ。

「御免状はあるのかい」

「それがねえんでさ」

 御免状がねぇ、か。まあそれでも、名前と在所がわかれば侍の仇討はおとがめなしってことになるんだろうが。

「で、そいつは、なんて野郎だ」

「それなんですがね」

 藤五郎の問いに五平は答えにくそうにうつむいた。

「なんだ、わかんねえのか、だんまりかい」

「いえ、まあ、そうなんですが」

「ですが……なんでぃ」

 五平はそう問われるとばつの悪そうに答えた。

「茅鼠、だそうです」

「なに」

「ですから、茅鼠」

 いぶかしげな顔で、藤五郎は五平を見る。

 茅鼠、だと。 

「ええ、仇討ちですからね、ご番所でも名前と在所さえわかれば無罪放免ってことになるんで結構粘っているそうなんですが、なにを聞かれても答えるのは自分が茅鼠だってぇ事と、もう一つ」

「もう一つ……なんでぃ」

「へぇ、殺めた佐々木某は自分の」

 そう言うと五平は、無遠慮に藤五郎宅の水瓶に近付き、柄杓からそのまま水を飲み、答えた。

「佐々木は自分の父親だ……と」

「なんだそりゃ」

 そうとだけ答えて、藤五郎はその場で腕組みをすると「ううん」と小さくうなった。

 そりゃぁねえな。俺はあいつの息子を知っている。それこそ、上野あたりを縄張りにしている同じく目明しの八助あたりも知っているはずだ。佐々木孝右衛門の一粒種、確か奥州あたりから連れてきた細君との間に結んだたった一人の息子のことを。

 実は藤五郎は、その細君もよく知っていた。

 たまに佐々木宅を訪れて、夜っぴて碁を打つことがあったのだ。

 いつ行っても、ここと変わらない貧乏長屋を磨き上げるようにきれいにしてある、品のいい、それでいて佐々木と仲睦まじい細君であった。いつも笑顔を浮かべている、美しい女であった。

「倅は侍にはしたくないんですよ」

 あの頃佐々木がそういったいった通り、息子は、侍を捨てて料理屋の桜屋で板前をしているはずだ。

 腕はいいそうだがまさかあの鬼を殺せるはずはない。

「で、どうなるよ」

「へぇ、北町のお役人が言うには、このままだんまりが続けば間違いなく獄門台だろう、と」

「切腹……にはならねぇよな」

「ええ、まぁ。乱心ってことになるでしょうから、晒されはしねぇとは思いますが、打ち首でしょうねぇ」

「そうかい」

 じゃぁ、俺の出番はねぇ、よ、なぁ。

 そこまで聞いて、藤五郎は五平に「もういいぜ」とだけ言うと、埃の浮く畳にゴロンと横になった。

 鬼を殺した茅鼠、か。

「たいそうなねず公だ」

 藤五郎はそうつぶやくと、にやりと笑って、ひとつ大あくびをした。

 それを見て、五平はそっと藤五郎の家を出る。

「大親分は昼寝ですかい」

 長屋の路地に出た五平はそうつぶやくと、昼下がりの江戸の空を見上げた。

「今日もあっつくなりそうだ」

 五平はそういうと、さっと尻っぱしょりをして路地をかけ出す。

 その後ろで、小さな鼠がさっと陰に隠れた。

 江戸の街に掃いて捨てるほどいる、何でもない、小さな小さな生き物が。 

 小さく、鳴いた気がした。  

  
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