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社交界の踏み絵
王妃主催の午後の茶会。それは、王宮のサンルームを埋め尽くす色とりどりのドレスと、甘い菓子の香りに包まれた、ロメリア王国社交界の縮図だった。
だが、今やその優雅な空間は、ある種の「踏み絵」の場と化していた。
中心に座るのは、王妃エスメラルダ。そしてその隣で、借りてきた猫のように身を縮めているフィオナである。
出席した夫人や令嬢たちは、競い合うようにフィオナを賛美した。
「まあ、フィオナ様。今日のその瞳、まるで森の奥の泉のように清らかですわ」
「殿下が夢中になられるのも分かりますわ。あの方のような、型に嵌まった冷たさが一切ございませんもの」
「真実の愛に選ばれた『シンデレラ』は、纏う空気からして違いますわね」
彼女たちの言葉は、フィオナへの称賛であると同時に、壁際で一人、静かに紅茶を楽しむマグノリアへの礫でもあった。
マグノリアは、誰からも声をかけられず、視線すら合わされない。かつては彼女の機嫌を伺うために列をなしていた人々が、今は彼女の存在を徹底して無視している。
マグノリアは、その喧騒を遠く聞きながら、ティーカップの縁を指先でなぞった。
(……なるほどね。まさに『踏み絵』ね)
彼女たちが選んだのは、盤石な法と秩序を象徴する公爵令嬢ではなく、王子の寵愛という、移ろいやすくも輝かしい「お伽話」の方だった。
その時、広間の入り口からアーノルドが颯爽と姿を現した。彼はフィオナの元へ歩み寄り、その肩を抱き寄せると、そのままマグノリアの方を向いた。
「マグノリア。君に折り入って頼みがある」
アーノルドの声には、かつての敬意の欠片もなく、事務的な不遜さだけが宿っていた。
「フィオナを正式に王宮へ住まわせることにした。だが、彼女にはまだ、王族としての作法が足りない。……そこでだ。君が彼女の教育係を引き受けてくれないか。完璧な君の教育なら、彼女もすぐに馴染めるだろう」
会場に衝撃が走る。
婚約者に、自分の浮気相手……もとい「真実の愛」の相手の教育を任せる。それは、マグノリアを教師として遇しているのではなく、便利な「道具」として扱っていることを公衆の面前で宣言するに等しかった。
マグノリアは、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。
「……殿下、身に余る光栄な仰せでございます。フィオナ様をお導きすることは、わたくしにとっても喜ばしいことに違いありませんわ」
「そうか! やはり君は話が分かる――」
「ですが」
マグノリアは、柔らかな、けれど剃刀のような鋭さを秘めた微笑を浮かべた。
「……私が教育係をお引き受けすれば、今私が肩代わりしております殿下の執務……例えば、財務省への通達や隣国との国境警備計画の策定、それらがすべて滞ることになります。それでも、よろしいでしょうか?」
「うっ……」
アーノルドの表情が強張った。
彼には分かっていた。自分が今、フィオナと遊び、夜会で英雄気取りをしていられるのは、マグノリアがその背後で、恐ろしいほどの密度で書類を捌いているからだということを。
「……君は、そうやっていつも取引のような言い方をする。彼女に教える数時間、自分の時間を割くこともできないのか?」
「時間は有限でございます、殿下。私が彼女に礼儀作法を教えている間、隣国からの親書は誰が読み、返信を書くのでしょうか。……もし殿下が『それは後回しでよい』と仰るなら、私は喜んでフィオナ様のお側に侍りますわ」
アーノルドは、周囲の令嬢たちの視線を意識し、顔を真っ赤にした。
「仕事ができない王子」だとバラされた屈辱。そして、正論で自分を封じ込めようとするマグノリアへの憎悪。
「……もういい! 嫉妬深い女だ。君に頼もうとした僕が間違っていたよ。彼女の清らかな心に、君のような事務的で冷酷な考えが染み付いては困るからな!」
アーノルドは吐き捨てるように言うと、フィオナを連れて足早に去っていった。
背後からは「まあ、マグノリア様。殿下の善意をそんな風に無下にされるなんて」「可愛げのないお方」という、蔑みの声が飛ぶ。
マグノリアは、誰に言い訳することもなく、優雅に一礼してその場を去った。
夜。王宮の喧騒から離れたカークランド公爵邸の書斎で、マグノリアは父であり、この国の宰相であるハロルドと向かい合っていた。
卓上の蝋燭が、二人の冷徹な瞳を照らし出している。
「……お父様。本日、ついに決定いたしました」
マグノリアは、手元の書類を父に差し出した。それは、公爵家が所有する王都の主要銀行の株、および物流網の権利移転の目録だった。
「この国は、『契約』よりも『感情』を優先し始めました。王太子の私物化、王妃の盲信、そしてそれに同調する貴族たち。……これは、法治国家の終わりです。感情で動く国家は、一度の不況や一度の凶作で、跡形もなく崩壊いたします」
ハロルド公爵は、娘の言葉を静かに咀嚼し、深く頷いた。
「……マグノリア。お前がこの九年間、アーノルド殿下に捧げてきた努力を思えば、父は無念でならない」
「いいえ、お父様。九年は、良い勉強代でしたわ。……おかげで、私は『人はどれほど愚かになれるか』という貴重なデータを手に入れました」
マグノリアの口調には、未練の欠片もなかった。
「公爵家の全資産の六割を、すでにルミナリア王国の国債、および北方の商業都市の不動産へと移し始めました。残りの四割……王国内に残る資産は、すべて『担保』として機能させます。王家が次に資金難に陥った際、それらはすべて自動的に、我が家の所有物として差し押さえられる契約になっています」
「……徹底しているな」
「情けをかける相手は、もうここにはおりません。お父様、私たちカークランド家はこの沈みゆく泥舟から、最も高く、最も安全な場所へと飛び移る時ですわ」
マグノリアは、窓の外を眺めた。
闇に沈む王宮。そこでは今も、王子がシンデレラに愛を囁き、人々が明日もパンが届くことを疑わずに眠っている。
(殿下。あなたが求めた『自由』の正体は、私という『重し』がなくなった後の、底なしの転落ですわ)
マグノリアの指先が、地図上の「ルミナリア王国」の地点をなぞった。
「お父様。一ヶ月後、ルミナリアの特使が来る際、我が家はその船に乗ります。……ロメリア王国が、自らの選んだ『シンデレラとの真実の愛』という名の負債に押し潰される様を、海の向こうから眺めることにいたしましょう」
月光の下、マグノリアの瞳は、これまでにないほど冷たく、そして美しく輝いていた。
それは、初恋を捨て、国を捨て、覚醒した女の瞳だった。
__________
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📢短編🌹【「元カノが忘れられないんでしょう?」と身を引いた瞬間、爽やか彼氏の執着スイッチが入りました】
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中心に座るのは、王妃エスメラルダ。そしてその隣で、借りてきた猫のように身を縮めているフィオナである。
出席した夫人や令嬢たちは、競い合うようにフィオナを賛美した。
「まあ、フィオナ様。今日のその瞳、まるで森の奥の泉のように清らかですわ」
「殿下が夢中になられるのも分かりますわ。あの方のような、型に嵌まった冷たさが一切ございませんもの」
「真実の愛に選ばれた『シンデレラ』は、纏う空気からして違いますわね」
彼女たちの言葉は、フィオナへの称賛であると同時に、壁際で一人、静かに紅茶を楽しむマグノリアへの礫でもあった。
マグノリアは、誰からも声をかけられず、視線すら合わされない。かつては彼女の機嫌を伺うために列をなしていた人々が、今は彼女の存在を徹底して無視している。
マグノリアは、その喧騒を遠く聞きながら、ティーカップの縁を指先でなぞった。
(……なるほどね。まさに『踏み絵』ね)
彼女たちが選んだのは、盤石な法と秩序を象徴する公爵令嬢ではなく、王子の寵愛という、移ろいやすくも輝かしい「お伽話」の方だった。
その時、広間の入り口からアーノルドが颯爽と姿を現した。彼はフィオナの元へ歩み寄り、その肩を抱き寄せると、そのままマグノリアの方を向いた。
「マグノリア。君に折り入って頼みがある」
アーノルドの声には、かつての敬意の欠片もなく、事務的な不遜さだけが宿っていた。
「フィオナを正式に王宮へ住まわせることにした。だが、彼女にはまだ、王族としての作法が足りない。……そこでだ。君が彼女の教育係を引き受けてくれないか。完璧な君の教育なら、彼女もすぐに馴染めるだろう」
会場に衝撃が走る。
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マグノリアは、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。
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「そうか! やはり君は話が分かる――」
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マグノリアは、柔らかな、けれど剃刀のような鋭さを秘めた微笑を浮かべた。
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「……君は、そうやっていつも取引のような言い方をする。彼女に教える数時間、自分の時間を割くこともできないのか?」
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アーノルドは、周囲の令嬢たちの視線を意識し、顔を真っ赤にした。
「仕事ができない王子」だとバラされた屈辱。そして、正論で自分を封じ込めようとするマグノリアへの憎悪。
「……もういい! 嫉妬深い女だ。君に頼もうとした僕が間違っていたよ。彼女の清らかな心に、君のような事務的で冷酷な考えが染み付いては困るからな!」
アーノルドは吐き捨てるように言うと、フィオナを連れて足早に去っていった。
背後からは「まあ、マグノリア様。殿下の善意をそんな風に無下にされるなんて」「可愛げのないお方」という、蔑みの声が飛ぶ。
マグノリアは、誰に言い訳することもなく、優雅に一礼してその場を去った。
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「……徹底しているな」
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マグノリアは、窓の外を眺めた。
闇に沈む王宮。そこでは今も、王子がシンデレラに愛を囁き、人々が明日もパンが届くことを疑わずに眠っている。
(殿下。あなたが求めた『自由』の正体は、私という『重し』がなくなった後の、底なしの転落ですわ)
マグノリアの指先が、地図上の「ルミナリア王国」の地点をなぞった。
「お父様。一ヶ月後、ルミナリアの特使が来る際、我が家はその船に乗ります。……ロメリア王国が、自らの選んだ『シンデレラとの真実の愛』という名の負債に押し潰される様を、海の向こうから眺めることにいたしましょう」
月光の下、マグノリアの瞳は、これまでにないほど冷たく、そして美しく輝いていた。
それは、初恋を捨て、国を捨て、覚醒した女の瞳だった。
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