いつか捨てられる日のために――浮気者の婚約者に、さよならの準備をしています

恋せよ恋

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隣国へ旅立つ決意

  夜の闇が冷えていく。かつてその静寂を「心地良い」と感じていたレオナードの心は、今や一秒ごとに刻まれる時計の針の音に、生爪を剥がされるような痛みを覚えていた。

 翌朝、レオナードは身なりを整える間も惜しみ、馬車を走らせてジャッカス子爵邸へと乗り込んだ。
 もはや、以前のような優雅な「王子の訪問」ではない。執事が止めるのも聞かず、土足で踏み込むような、余裕を失った男の無様な乱入だった。

「ジャッカス子爵!」

 家令を押しのけて応接室の扉を乱暴に開け放つ。そこには、朝の珈琲を嗜んでいたジャッカス家の当主マイケルが、新聞を広げたまま、微動だにせず座っていた。その背後には、嫡男のピエールが、氷のような眼差しでレオナードを射抜いている。

「……騒々しいな、ヨーク卿。ここは君の私邸ではないのだ」

「教えてください、オードリーはどこにいるんですか! ベルサイユ支店でしょう? 僕が行きます。今すぐ行って、彼女を連れ戻す!」

 レオナードの声は裏返っていた。
 その必死な形相を、マイケルは憐れむことすらせず、ただ淡々と、事務的な口調で告げた。

「無駄だ。オードリーはもう、ベルサイユにはいない」

「……え?」

「オードリーは、隣国との新航路の開拓という大役を任された。今は海の上か、あるいは名もなき港町で商談の最中だろう。社員の安全を守るため、その居場所を部外者に教えることは、商会の規約で禁じられている」

 マイケルはゆっくりと立ち上がり、レオナードの目の前に立った。
 かつては、この若き貴公子を「娘を幸せにする男」と信じようとした。だが、今の彼の目に映るのは、宝石を泥の中に落としてから「あれは僕のものだ」と泣き喚く、愚かな子供でしかなかった。

「レオナード卿。……君は、オードリーが『少しの間』と言った言葉の意味を、履き違えていたようだな」

「……っ……」

「オードリーにとっての『少しの間』とは、君という毒が、彼女の心の中から完全に抜け落ちるまでの時間だ。そして、それはすでに果たされた。オードリーはもう、君を待ってはいない」

 隣に立つピエールが、一歩前に踏み出した。

「帰れ、レオナード。……妹は、お前という、中身のない男に疲れ果てたんだ。お前がレベッカ嬢やアイーダ嬢と戯れている間、オードリーがどれほど一人で、自分の心を殺す訓練をしていたか。……お前には、想像もつかないだろう」

「……僕は、愛していたんだ! 彼女だけは特別だと……」

「『特別』? 笑わせるな」

 ピエールの声が、雷鳴のように響いた。

「お前がオードリーに贈ったのは、他の女と同じデザインの、石が地味な髪留めだった。お前が妹に見せたのは、他の女との惚気話と、守られることのない約束だけだ。……そんなものを『愛』と呼ぶなら、我がジャッカス家には、そんな安っぽい愛を買い取る余裕はない」

 レオナードは、崩れ落ちるように膝をついた。絨毯の模様が、涙で歪んで見える。

 かつて、ついでに贈った髪留め。

 かつて、空き教室で見せつけた不貞。

 かつて、植物園へ行こうと言って、一度も叶えなかった約束。

 それらの一つ一つが、鋭い氷の礫となって、今の彼を打ち据える。彼は「大人しくて便利な女」を愛していたのではない。自分を際立たせるための「地味な背景」として、彼女を利用していただけだったのだ。

「……探しに行く。どこまでだって……」

「勝手にするがいい。だが、ジャッカス商会の全戦力を挙げて、君の追跡を阻ませてもらう。オードリーは今、自分の足で立ち、自分の力で呼吸している。それを邪魔する権利は、君には一欠片もない」

 マイケルは、冷たく背を向けた。

「ヨーク卿をお送りしろ。……二度と、我が家の門を潜らせるな」

 引きずり出されるようにして、レオナードは屋敷を追い出された。春の嵐が吹き荒れ、雨が彼の金色の髪を濡らす。かつての貴公子は、ぬかるんだ道の上に立ち尽くし、ただ、空虚な空を見上げた。


 二年前。学園の時計塔の下で、頬を染めて告白してきた、大きな茶色の瞳の少女。「お返事は、いりません」と言った、あの健気な声。

 あの時、もし自分が彼女を抱きしめ、「僕も君だけを愛する」と誓っていたら。
 いや、二年生の冬、あの茶色の髪留めを贈るとき、せめて彼女の瞳の色を「世界で一番美しい色だ」と言ってあげられていたら。

 後悔は、毒のように彼の全身を回る。レオナードは、震える手で自分の胸を掻きむしった。そこには、彼女を失ったという事実だけが、巨大な穴となって口を開けていた。

「……オードリー……」

 雨の音にかき消されたその名前は、もう二度と、彼女の元に届くことはない。

 彼は、自分が持っていた唯一の本物を、自らの傲慢さで粉々に砕き、その破片さえも失ったことに、ようやく、ようやく気づいたのだった。

 夜でもないのに、彼の世界は真っ暗に染まっていく。隣国へと続く道は、あまりにも遠く、霞んでいた。
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