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追いかける貴公子
心の奥底で積もり続けるのは、冷たい後悔だった。
かつて「王子の写し身」と称えられたレオナードの姿は、今や見る影もなかった。
外務省の執務室。父ウィリアムの秘書として座っていた椅子は空席のままだ。積み上げられた書類、精緻な外交ルートの図面。それらはすべて、レオナードにとっては色彩を失ったただの紙屑に過ぎなかった。
「レオナード! いい加減にしろ! たかが子爵令嬢一人に、いつまで現を抜かしている!」
父の怒声も、もはや彼の鼓膜を震わせることはない。
レオナードは自室に引きこもり、かつてオードリーが座っていた場所、彼女が淹れてくれた紅茶の残り香を探すように、虚空を見つめていた。
他の女?
レベッカも、アイーダも、名前すら思い出せないほどに霞んでいる。
あんなに執着していた「自由」という名の放蕩が、今では砂を噛むような虚無感しか与えてくれない。
「……あいつがいないと、僕は……」
鏡に映る自分を見るのが怖かった。
無精髭が浮き、金髪は輝きを失い、ヘーゼルの瞳は血走っている。
自分がどれほど、彼女の「静かな肯定」に依存していたか。
自分がどれほど、彼女の「変わらぬ忍耐」を足場にして、高みに立っていたか。
その足場が崩れ去った今、レオナードはただ、底なしの暗闇へと転落し続けていた。
仕事も、名誉も、家格も。彼女のいない世界では、すべてがガラクタだった。
彼女が隣にいて、僕を見上げて、「お好きになさってください」と微笑んでくれていたからこそ、僕は「レオナード・ヨーク」という完璧な仮面を被っていられたのだ。
「あああああッ!」
レオナードは机の上の高級な文具をなぎ払った。
インク瓶が割れ、黒い液体が絨毯を汚していく。それはまるで、彼自身の心が腐敗し、溢れ出したかのようだった。
いてもたってもいられなかった。ジャッカス商会が居場所を教えないのなら、自分の足で探すまでだ。
国境を越え、隣国のすべての港、すべての支店を、この手で暴いてやる。
レオナードは、父の制止も、妹マーガレットの蔑みの視線も振り切り、最小限の荷物だけを持って屋敷を飛び出した。
かつての貴公子が、護衛も連れず、一頭の馬に跨って国境を目指す。
その姿に、かつての優雅さは微塵もなかった。
隣国ベルサイユ。そこは王都とは異なる、荒々しくも活気に満ちた潮の香りが漂う国だった。
レオナードは、慣れない異国の地で、泥臭い捜索を続けていた。高級な仕立ての服は、旅の埃と雨に打たれてボロボロになり、自慢の金髪は潮風に吹かれて縺れている。
彼は宿屋の主人や、港の荷揚げ人、安酒場の商人に片っ端から声をかけた。
「ジャッカス商会の……オードリーという女性を知らないか? 髪は茶色で、瞳は大きな琥珀色だ。とても穏やかな雰囲気で、仕事ができる……」
必死に説明するレオナードを、商人たちは不審げに見つめる。
「ジャッカス商会? ああ、あそこは今、飛ぶ鳥を落とす勢いだがね。だが、一介の旅人が会えるようなお人じゃないよ。……おい、あんた。そんな汚い格好で、子爵令嬢を誘うするつもりかい?」
嘲笑が飛ぶ。
かつてなら、そんな無礼な言葉を吐いた男を、冷徹な一言で沈めていただろう。
けれど今のレオナードには、怒る気力さえなかった。
「頼む……。一目だけでいいんだ。彼女に、謝らなきゃいけないんだ」
喉は枯れ、足は豆だらけで血が滲んでいる。それでも、レオナードは歩くのをやめなかった。
歩き続けなければ、自分がどれほど彼女を傷つけてきたかという罪悪感に、押し潰されて死んでしまいそうだったからだ。
ある港町で、彼は有力な噂を耳にした。
「ジャッカス商会の若き女傑が、今夜、ベルサイユの豪商たちとの晩餐会に出席するらしい。……彼女、隣国の実業家とかなり親密だっていう話だぜ」
レオナードの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
焦燥感が、指先まで痺れさせる。彼は、なけなしの金で身なりを整えた。古着屋で手に入れた、少しサイズの合わない黒い上着。冷たい水で顔を洗い、縺れた髪を指で梳く。
鏡に映るのは、かつての「王子」の成れの果て――けれど、その瞳に宿る執念だけは、以前のどの瞬間よりも鋭かった。
晩餐会が開かれるという邸宅の門前。
警備の男たちに追い払われそうになりながらも、レオナードは物陰に潜み、その瞬間を待った。
夜の帳が降り、華やかな馬車が次々と門を潜っていく。そして、一台の、落ち着いた深い紺色の馬車が止まった。
扉が開く。降りてきたのは、一人の女性だった。
「……っ!」
レオナードは、息をすることさえ忘れた。
そこにいたのは、彼が知っている「地味な茶色の小鳥」ではなかった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、気品に満ちた仕草で裾を捌く女性。
髪は美しく結い上げられ、首元には飾り気のない、けれど上質な真珠が輝いている。何よりも、その瞳。かつて自分を不安げに追いかけていたあの琥珀色の瞳は、今は自信と知性に溢れ、夜の光を跳ね返していた。
彼女は、かつてレオナードが「地味だ」と言った茶色の髪を、誇らしげに夜風に靡かせている。その美しさに、レオナードは声を出すことさえできなかった。
彼女の隣には、一人の男がいた。
レオナードよりも年上だろうか。派手な装飾はないが、仕立ての完璧な服を纏い、岩のようにがっしりとした体躯の男。彼は、レオナードのように甘い言葉を囁くことはしない。ただ、オードリーが馬車から降りる際、大きな手をごく自然に、そして壊れ物を扱うように優しく差し出していた。
オードリーが、その手に自分の手を重ねる。そして、ふっと、穏やかに微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間。レオナードの胸の奥で、何かが完全に砕け散った。それは、彼には一度も見せたことのない、心からの、安らぎに満ちた微笑みだった。
「オードリー……」
掠れた声で彼女の名前を呼んだが、それは晩餐会の喧騒の中に、一瞬でかき消された。
彼女は一度も振り返ることなく、隣の男と親しげに言葉を交わしながら、光の溢れる邸宅の中へと消えていった。
レオナードは、暗い物陰に立ち尽くした。
泥にまみれた靴。ボロボロの上着。そして、自分勝手な執着だけを抱えてここまでやってきた、空っぽな自分。
夜霧が立ち込めてくる。
光の届かない場所で、かつての貴公子は、生まれて初めて「自分がいない方が、彼女は幸せなのだ」という絶望的な真実を、その身に刻み込まれたのだった。
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かつて「王子の写し身」と称えられたレオナードの姿は、今や見る影もなかった。
外務省の執務室。父ウィリアムの秘書として座っていた椅子は空席のままだ。積み上げられた書類、精緻な外交ルートの図面。それらはすべて、レオナードにとっては色彩を失ったただの紙屑に過ぎなかった。
「レオナード! いい加減にしろ! たかが子爵令嬢一人に、いつまで現を抜かしている!」
父の怒声も、もはや彼の鼓膜を震わせることはない。
レオナードは自室に引きこもり、かつてオードリーが座っていた場所、彼女が淹れてくれた紅茶の残り香を探すように、虚空を見つめていた。
他の女?
レベッカも、アイーダも、名前すら思い出せないほどに霞んでいる。
あんなに執着していた「自由」という名の放蕩が、今では砂を噛むような虚無感しか与えてくれない。
「……あいつがいないと、僕は……」
鏡に映る自分を見るのが怖かった。
無精髭が浮き、金髪は輝きを失い、ヘーゼルの瞳は血走っている。
自分がどれほど、彼女の「静かな肯定」に依存していたか。
自分がどれほど、彼女の「変わらぬ忍耐」を足場にして、高みに立っていたか。
その足場が崩れ去った今、レオナードはただ、底なしの暗闇へと転落し続けていた。
仕事も、名誉も、家格も。彼女のいない世界では、すべてがガラクタだった。
彼女が隣にいて、僕を見上げて、「お好きになさってください」と微笑んでくれていたからこそ、僕は「レオナード・ヨーク」という完璧な仮面を被っていられたのだ。
「あああああッ!」
レオナードは机の上の高級な文具をなぎ払った。
インク瓶が割れ、黒い液体が絨毯を汚していく。それはまるで、彼自身の心が腐敗し、溢れ出したかのようだった。
いてもたってもいられなかった。ジャッカス商会が居場所を教えないのなら、自分の足で探すまでだ。
国境を越え、隣国のすべての港、すべての支店を、この手で暴いてやる。
レオナードは、父の制止も、妹マーガレットの蔑みの視線も振り切り、最小限の荷物だけを持って屋敷を飛び出した。
かつての貴公子が、護衛も連れず、一頭の馬に跨って国境を目指す。
その姿に、かつての優雅さは微塵もなかった。
隣国ベルサイユ。そこは王都とは異なる、荒々しくも活気に満ちた潮の香りが漂う国だった。
レオナードは、慣れない異国の地で、泥臭い捜索を続けていた。高級な仕立ての服は、旅の埃と雨に打たれてボロボロになり、自慢の金髪は潮風に吹かれて縺れている。
彼は宿屋の主人や、港の荷揚げ人、安酒場の商人に片っ端から声をかけた。
「ジャッカス商会の……オードリーという女性を知らないか? 髪は茶色で、瞳は大きな琥珀色だ。とても穏やかな雰囲気で、仕事ができる……」
必死に説明するレオナードを、商人たちは不審げに見つめる。
「ジャッカス商会? ああ、あそこは今、飛ぶ鳥を落とす勢いだがね。だが、一介の旅人が会えるようなお人じゃないよ。……おい、あんた。そんな汚い格好で、子爵令嬢を誘うするつもりかい?」
嘲笑が飛ぶ。
かつてなら、そんな無礼な言葉を吐いた男を、冷徹な一言で沈めていただろう。
けれど今のレオナードには、怒る気力さえなかった。
「頼む……。一目だけでいいんだ。彼女に、謝らなきゃいけないんだ」
喉は枯れ、足は豆だらけで血が滲んでいる。それでも、レオナードは歩くのをやめなかった。
歩き続けなければ、自分がどれほど彼女を傷つけてきたかという罪悪感に、押し潰されて死んでしまいそうだったからだ。
ある港町で、彼は有力な噂を耳にした。
「ジャッカス商会の若き女傑が、今夜、ベルサイユの豪商たちとの晩餐会に出席するらしい。……彼女、隣国の実業家とかなり親密だっていう話だぜ」
レオナードの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
焦燥感が、指先まで痺れさせる。彼は、なけなしの金で身なりを整えた。古着屋で手に入れた、少しサイズの合わない黒い上着。冷たい水で顔を洗い、縺れた髪を指で梳く。
鏡に映るのは、かつての「王子」の成れの果て――けれど、その瞳に宿る執念だけは、以前のどの瞬間よりも鋭かった。
晩餐会が開かれるという邸宅の門前。
警備の男たちに追い払われそうになりながらも、レオナードは物陰に潜み、その瞬間を待った。
夜の帳が降り、華やかな馬車が次々と門を潜っていく。そして、一台の、落ち着いた深い紺色の馬車が止まった。
扉が開く。降りてきたのは、一人の女性だった。
「……っ!」
レオナードは、息をすることさえ忘れた。
そこにいたのは、彼が知っている「地味な茶色の小鳥」ではなかった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、気品に満ちた仕草で裾を捌く女性。
髪は美しく結い上げられ、首元には飾り気のない、けれど上質な真珠が輝いている。何よりも、その瞳。かつて自分を不安げに追いかけていたあの琥珀色の瞳は、今は自信と知性に溢れ、夜の光を跳ね返していた。
彼女は、かつてレオナードが「地味だ」と言った茶色の髪を、誇らしげに夜風に靡かせている。その美しさに、レオナードは声を出すことさえできなかった。
彼女の隣には、一人の男がいた。
レオナードよりも年上だろうか。派手な装飾はないが、仕立ての完璧な服を纏い、岩のようにがっしりとした体躯の男。彼は、レオナードのように甘い言葉を囁くことはしない。ただ、オードリーが馬車から降りる際、大きな手をごく自然に、そして壊れ物を扱うように優しく差し出していた。
オードリーが、その手に自分の手を重ねる。そして、ふっと、穏やかに微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間。レオナードの胸の奥で、何かが完全に砕け散った。それは、彼には一度も見せたことのない、心からの、安らぎに満ちた微笑みだった。
「オードリー……」
掠れた声で彼女の名前を呼んだが、それは晩餐会の喧騒の中に、一瞬でかき消された。
彼女は一度も振り返ることなく、隣の男と親しげに言葉を交わしながら、光の溢れる邸宅の中へと消えていった。
レオナードは、暗い物陰に立ち尽くした。
泥にまみれた靴。ボロボロの上着。そして、自分勝手な執着だけを抱えてここまでやってきた、空っぽな自分。
夜霧が立ち込めてくる。
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