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最悪の出産日
「オギャーッ!」
「おめでとうございます、奥様! 元気な男の子ですよ!」
主寝室に響き渡ったその産声は、新しい命の力強さに満ち溢れていた。
窓から差し込む祝福の光を浴びて、産婆が掲げた小さな命――。それを見たエメラルダは、産後の激しい疲労も忘れ、感極まった涙で視界を滲ませた。
十五歳で婚約し、十八歳で結婚。それから二年、待ちに待った跡継ぎの誕生だ。
差し出された赤ん坊の、柔らかな温もり。小さな、けれど確かな重み。エメラルダの緑の瞳から、安堵の涙がこぼれ落ちた。
「ベルナルド様には……?」
「はい。夜会に出席されている閣下には、すでにお使いを出しました。今頃、大喜びで飛んで帰っていらっしゃることでしょう」
侍女の言葉に、エメラルダは胸を疼かせた。
夫、ベルナルド・スタンレー侯爵。金髪に青い瞳を持つ、誰もが振り返るほどの美丈夫だ。
彼はエメラルダを愛していると言ってくれる。けれど、彼のその愛はあまりに博愛すぎた。
「社交界の華に触れるのは、紳士としての嗜みだよ、エメラルダ」
悪びれもせず、他の女の香りをさせて帰宅する夫。そのたびに彼女の心は削られてきたが、今日という日は特別だ。私たちの子供が生まれたのだから。
(今日からは、きっと……旦那様も変わってくださるわ)
そう信じていた。
しかし、その淡い期待は、階下から響いてきた「悲鳴」によって無残に打ち砕かれることになる。
「ひっ……化け物だ!」
「開けろ! 早く、医者を呼んでくれ!」
怒号と、何かが引きずられるような不気味な音。
産後の疲労で鉛のように重い体に鞭打ち、エメラルダは必死に制止する侍女を振り切った。指先を震わせ、まだ感覚の戻らぬ足を引きずりながら、彼女は寝室の入り口へと這い出した。
「ベルナルド様……? 何があったの……?」
開け放たれた扉の向こう。
そこには、従者たちに抱えられた「異形」が転がっていた。
「……あ……ああ…………キャーッ!」
エメラルダの喉から、悲鳴があがった。
そこにいたのは、彼女が愛した、あの輝くような美丈夫ではなかった。
金色の髪は抜け落ち、ドロドロとした粘液を垂らす漆黒の鱗に覆われている。
吸い込まれるようだった青い瞳は血走って突出し、まるで爬虫類のそれだ。
整っていた鼻筋は潰れ、裂けた口からは長い牙が覗いている。
それは、人間というよりは、深淵の泥から這い出してきた悪魔の成れの果てだった。
「エメ……ル……ダ……」
化け物の口が動いた。
聞き慣れたはずの、甘く低いバリトンは、今や岩を削るような不快な濁音に変わっている。
ベルナルドの体が激しく痙攣した。
彼の肌の隙間から、どす黒い煙が噴き出し、さらなる変貌を促していく。
「あ……が……っ、エ……メ……助け……」
かつてのベルナルドなら、これほど無様に助けを乞うことはなかっただろう。常に余裕を崩さず、女たちを翻弄していた優雅で自信満々な夫。
その男が、今、怪物となって床を這い、産後の妻に縋り付こうとしている。
エメラルダは、震える手で自分の胸元を抑えた。
隣の部屋からは、何も知らない赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
光り輝く未来が待っているはずだった、最高の日。
祝福の鐘の音は、いつの間にか、終わりを告げる弔鐘へと変わっていた。
「ベルナルド……様……」
エメラルダは、恐怖を押し殺して一歩踏み出した。
鼻を突く腐臭。ヌチャリと音を立てる床の粘液。
それでも、この怪物の奥底に、自分の愛した男が閉じ込められているのだとしたら。
「……いいえ。死なせはしません。あなたがしたことは許せませんが……それでも、あなたは私の子の父親なのですから」
エメラルダの瞳に、絶望を超えた鋭い光が宿る。
カサンドラの狂った笑い声が響く中、侯爵邸は深い闇へと沈んでいった。
これが、後に「氷の侯爵夫人」と呼ばれることになるエメラルダの、長きにわたる戦いの始まりだった。
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「おめでとうございます、奥様! 元気な男の子ですよ!」
主寝室に響き渡ったその産声は、新しい命の力強さに満ち溢れていた。
窓から差し込む祝福の光を浴びて、産婆が掲げた小さな命――。それを見たエメラルダは、産後の激しい疲労も忘れ、感極まった涙で視界を滲ませた。
十五歳で婚約し、十八歳で結婚。それから二年、待ちに待った跡継ぎの誕生だ。
差し出された赤ん坊の、柔らかな温もり。小さな、けれど確かな重み。エメラルダの緑の瞳から、安堵の涙がこぼれ落ちた。
「ベルナルド様には……?」
「はい。夜会に出席されている閣下には、すでにお使いを出しました。今頃、大喜びで飛んで帰っていらっしゃることでしょう」
侍女の言葉に、エメラルダは胸を疼かせた。
夫、ベルナルド・スタンレー侯爵。金髪に青い瞳を持つ、誰もが振り返るほどの美丈夫だ。
彼はエメラルダを愛していると言ってくれる。けれど、彼のその愛はあまりに博愛すぎた。
「社交界の華に触れるのは、紳士としての嗜みだよ、エメラルダ」
悪びれもせず、他の女の香りをさせて帰宅する夫。そのたびに彼女の心は削られてきたが、今日という日は特別だ。私たちの子供が生まれたのだから。
(今日からは、きっと……旦那様も変わってくださるわ)
そう信じていた。
しかし、その淡い期待は、階下から響いてきた「悲鳴」によって無残に打ち砕かれることになる。
「ひっ……化け物だ!」
「開けろ! 早く、医者を呼んでくれ!」
怒号と、何かが引きずられるような不気味な音。
産後の疲労で鉛のように重い体に鞭打ち、エメラルダは必死に制止する侍女を振り切った。指先を震わせ、まだ感覚の戻らぬ足を引きずりながら、彼女は寝室の入り口へと這い出した。
「ベルナルド様……? 何があったの……?」
開け放たれた扉の向こう。
そこには、従者たちに抱えられた「異形」が転がっていた。
「……あ……ああ…………キャーッ!」
エメラルダの喉から、悲鳴があがった。
そこにいたのは、彼女が愛した、あの輝くような美丈夫ではなかった。
金色の髪は抜け落ち、ドロドロとした粘液を垂らす漆黒の鱗に覆われている。
吸い込まれるようだった青い瞳は血走って突出し、まるで爬虫類のそれだ。
整っていた鼻筋は潰れ、裂けた口からは長い牙が覗いている。
それは、人間というよりは、深淵の泥から這い出してきた悪魔の成れの果てだった。
「エメ……ル……ダ……」
化け物の口が動いた。
聞き慣れたはずの、甘く低いバリトンは、今や岩を削るような不快な濁音に変わっている。
ベルナルドの体が激しく痙攣した。
彼の肌の隙間から、どす黒い煙が噴き出し、さらなる変貌を促していく。
「あ……が……っ、エ……メ……助け……」
かつてのベルナルドなら、これほど無様に助けを乞うことはなかっただろう。常に余裕を崩さず、女たちを翻弄していた優雅で自信満々な夫。
その男が、今、怪物となって床を這い、産後の妻に縋り付こうとしている。
エメラルダは、震える手で自分の胸元を抑えた。
隣の部屋からは、何も知らない赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
光り輝く未来が待っているはずだった、最高の日。
祝福の鐘の音は、いつの間にか、終わりを告げる弔鐘へと変わっていた。
「ベルナルド……様……」
エメラルダは、恐怖を押し殺して一歩踏み出した。
鼻を突く腐臭。ヌチャリと音を立てる床の粘液。
それでも、この怪物の奥底に、自分の愛した男が閉じ込められているのだとしたら。
「……いいえ。死なせはしません。あなたがしたことは許せませんが……それでも、あなたは私の子の父親なのですから」
エメラルダの瞳に、絶望を超えた鋭い光が宿る。
カサンドラの狂った笑い声が響く中、侯爵邸は深い闇へと沈んでいった。
これが、後に「氷の侯爵夫人」と呼ばれることになるエメラルダの、長きにわたる戦いの始まりだった。
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