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絶望の対峙
「和也……違うんだ、和也さん、聞いてくれ!」
直人が、這いつくばるようにして兄・和也の足元へ縋り付いた。
かつて「親友のような義兄弟」と笑い合っていた面影はどこにもない。そこにあるのは、自らの保身のためにプライドを捨てた男の、醜悪な姿だけだった。
「違う? 何が違うんだ、直人。俺の目の前にいるのは、俺の妻と、俺が信頼していた義弟じゃないのか?」
和也の声は、怒りを通り越して、ひどく冷え切っていた。その手には、陽子が共有した「不倫の証拠」が握りしめられている。
「それは……美沙さんが、君との生活に疲れて死にたいって言うから、僕は放っておけなくて……。そうだ、僕は彼女を助けようとしただけなんだ!」
「直人さん!? 何を言ってるの!」
美沙が金切り声を上げた。濡れた髪を振り乱し、信じられないものを見る目で直人を凝視する。
「あなたが言ったんじゃない!『和也さんみたいな甲斐性なしと一緒にいたら、君の才能が死んでしまう』って。『僕が陽子の金を使って、君と春人を幸せにするから』って、そう誘ったのはあなたでしょう!?」
「黙れ! 君が誘惑してきたんだろ! あの香水をわざと僕のシャツにつけて、陽子にバラすと脅したのは君じゃないか!」
狭い密室で、かつて「真実の愛」を誓い合った二人が、今は猛毒を吐き合いながら互いの傷口を広げていく。
陽子はその光景を、一歩引いた場所から冷徹に眺めていた。
(……これが、あなたたちの『愛』の正体)
「……もういいわよ、二人とも」
陽子の静かな声が、醜い怒号を切り裂いた。
「なすりつけ合っても無駄。直人、あなたが私の口座から『接待費』名目で引き出していたお金、全て美沙さんへのプレゼントや、この部屋の維持費に消えていた裏付けは取れているわ。美沙さんも、春人くんを放置してここで直人と過ごしていた証拠、近隣住民の証言も含めて揃ってる」
陽子はバッグから、一束の書類を取り出した。
「直人、これは離婚届。それから、私があなたに貸し付けていた生活費、学費の肩代わり分、そして不法に流用した資産の返済計画書よ。あ、もちろん慰謝料は別。一括で払えないなら、あなたの実家のご両親に保証人になってもらうわ」
「なっ……親だけは、親だけは勘弁してくれ! 父さんは心臓が悪いんだ!」
「私の心は、もっとボロボロになったわよ。あなたの手でね」
陽子の視線は、次に美沙へと向けられた。
「美沙さん。あなたには、和也兄ちゃんからの離婚届と、私からの慰謝料請求。それから……これは兄ちゃんが決めたことだけど、春人くんの親権、あなたは完全に失うことになるわ」
「親権……? 嫌よ、そんなの認めない! 私が産んだ子よ!」
「子供を放って、直人と過ごしていた女が? 自分の言葉に責任を持ちなさいよ。……兄ちゃん、いいわよね?」
和也は深く頷いた。
「ああ。美沙、お前を二度と春人には会わせない。お前のような女が母親であってほしくない。……直人、お前もだ。二度と、俺たちの前に現れるな」
「和也さん!」
「陽子!」
二人の叫びが響くが、陽子たちの心にはもう、一滴の情も残っていなかった。
「直人、あなたが言った通り、私は『可愛げもなくて、男みたいに稼ぐだけの女』よ。だから、感情で許したりはしない。数字と法律で、徹底的にあなたを追い詰める。それが、私なりの『愛』の終わらせ方よ」
陽子は、床に転がっていた「エクラ・ドゥ・ニュイ」の空瓶を、ヒールの先で静かに踏みつけた。パキッ、という乾いた音が、この部屋で唯一の「本物」の決別の合図だった。
「行きましょう、和也兄ちゃん」
陽子は一度も振り返ることなく、部屋を出た。
後ろで美沙の泣き叫ぶ声と、直人が弁護士に縋り付く声が聞こえていたが、それはもう、遠い異国の騒音のようにしか感じられなかった。
外に出ると、夜の風は驚くほど冷たく、そして澄んでいた。
陽子の隣で、和也がポツリと零した。
「……明日の朝、春人に何て言えばいいかな」
「『パパと、陽子おばちゃんが、ずっと守ってあげる』。それだけでいいと思うわ、兄ちゃん」
陽子は夜空を見上げた。
絶望の対峙を経て、ようやく自分自身の人生のハンドルを、自分の手に取り戻した実感が、彼女の中に静かに広がっていった。
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直人が、這いつくばるようにして兄・和也の足元へ縋り付いた。
かつて「親友のような義兄弟」と笑い合っていた面影はどこにもない。そこにあるのは、自らの保身のためにプライドを捨てた男の、醜悪な姿だけだった。
「違う? 何が違うんだ、直人。俺の目の前にいるのは、俺の妻と、俺が信頼していた義弟じゃないのか?」
和也の声は、怒りを通り越して、ひどく冷え切っていた。その手には、陽子が共有した「不倫の証拠」が握りしめられている。
「それは……美沙さんが、君との生活に疲れて死にたいって言うから、僕は放っておけなくて……。そうだ、僕は彼女を助けようとしただけなんだ!」
「直人さん!? 何を言ってるの!」
美沙が金切り声を上げた。濡れた髪を振り乱し、信じられないものを見る目で直人を凝視する。
「あなたが言ったんじゃない!『和也さんみたいな甲斐性なしと一緒にいたら、君の才能が死んでしまう』って。『僕が陽子の金を使って、君と春人を幸せにするから』って、そう誘ったのはあなたでしょう!?」
「黙れ! 君が誘惑してきたんだろ! あの香水をわざと僕のシャツにつけて、陽子にバラすと脅したのは君じゃないか!」
狭い密室で、かつて「真実の愛」を誓い合った二人が、今は猛毒を吐き合いながら互いの傷口を広げていく。
陽子はその光景を、一歩引いた場所から冷徹に眺めていた。
(……これが、あなたたちの『愛』の正体)
「……もういいわよ、二人とも」
陽子の静かな声が、醜い怒号を切り裂いた。
「なすりつけ合っても無駄。直人、あなたが私の口座から『接待費』名目で引き出していたお金、全て美沙さんへのプレゼントや、この部屋の維持費に消えていた裏付けは取れているわ。美沙さんも、春人くんを放置してここで直人と過ごしていた証拠、近隣住民の証言も含めて揃ってる」
陽子はバッグから、一束の書類を取り出した。
「直人、これは離婚届。それから、私があなたに貸し付けていた生活費、学費の肩代わり分、そして不法に流用した資産の返済計画書よ。あ、もちろん慰謝料は別。一括で払えないなら、あなたの実家のご両親に保証人になってもらうわ」
「なっ……親だけは、親だけは勘弁してくれ! 父さんは心臓が悪いんだ!」
「私の心は、もっとボロボロになったわよ。あなたの手でね」
陽子の視線は、次に美沙へと向けられた。
「美沙さん。あなたには、和也兄ちゃんからの離婚届と、私からの慰謝料請求。それから……これは兄ちゃんが決めたことだけど、春人くんの親権、あなたは完全に失うことになるわ」
「親権……? 嫌よ、そんなの認めない! 私が産んだ子よ!」
「子供を放って、直人と過ごしていた女が? 自分の言葉に責任を持ちなさいよ。……兄ちゃん、いいわよね?」
和也は深く頷いた。
「ああ。美沙、お前を二度と春人には会わせない。お前のような女が母親であってほしくない。……直人、お前もだ。二度と、俺たちの前に現れるな」
「和也さん!」
「陽子!」
二人の叫びが響くが、陽子たちの心にはもう、一滴の情も残っていなかった。
「直人、あなたが言った通り、私は『可愛げもなくて、男みたいに稼ぐだけの女』よ。だから、感情で許したりはしない。数字と法律で、徹底的にあなたを追い詰める。それが、私なりの『愛』の終わらせ方よ」
陽子は、床に転がっていた「エクラ・ドゥ・ニュイ」の空瓶を、ヒールの先で静かに踏みつけた。パキッ、という乾いた音が、この部屋で唯一の「本物」の決別の合図だった。
「行きましょう、和也兄ちゃん」
陽子は一度も振り返ることなく、部屋を出た。
後ろで美沙の泣き叫ぶ声と、直人が弁護士に縋り付く声が聞こえていたが、それはもう、遠い異国の騒音のようにしか感じられなかった。
外に出ると、夜の風は驚くほど冷たく、そして澄んでいた。
陽子の隣で、和也がポツリと零した。
「……明日の朝、春人に何て言えばいいかな」
「『パパと、陽子おばちゃんが、ずっと守ってあげる』。それだけでいいと思うわ、兄ちゃん」
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