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泥沼の対峙
医師が去った後の寝室は、まるで墓所のような静寂に包まれていた。
キャサリンは壁の方を向いたまま横たわり、背後に立つリチャードの気配を感じていた。かつては安らぎの象徴だったその気配が、今は肌を刺すような不快感をもたらす。
「……キャサリン。気分はどうだい」
リチャードの震える声が、静寂を破った。彼はベッドの端に腰を下ろし、そっとキャサリンの肩に手を伸ばす。しかし、彼女が微かに身を強張らせるのを見て、火に触れたかのように手を引っ込めた。
「先生は、極度の心労だと仰っていた。……すまない。全部、僕のせいだ」
キャサリンはゆっくりと上体を起こした。青白い顔に、焦点の定まらない瞳。リチャードはその痛々しい姿に胸を締め付けられながらも、必死に弁明の言葉を紡ぎ始める。
「いいかい、キャサリン。落ち着いて聞いてくれ。あの前ヴィンセント子爵夫人が言ったことは……確かに…… 事実だ。あの日、僕は彼女と……一度だけ……間違いを犯した。でも、誓って言う。彼女に対して愛なんて微塵もないんだ!」
リチャードは縋り付くような目でキャサリンを見つめた。
「酒のせいだったんだ。君がいない夜会で、少し羽目を外してしまっただけなんだよ。彼女は、ただの昔馴染みで……。向こうから誘ってきたんだ。僕は、ただ……」
「……ただ、何ですの?」
キャサリンの低い声が、リチャードの言葉を遮った。
「ただ、懐かしかった? それとも、真面目すぎるわたくしとの生活に飽きて、刺激が欲しかったのですか?」
「そんなことはない! 君との生活は幸せだ。心から君を愛している。それに!彼女の子が僕の子だという確証もないんだ。あの夜会には他にも多くの男がいた。彼女が生活のために、かつての遊び人だった僕をカモにしようとしているだけかもしれない。産まれてくるまでは、僕の子かどうかも分からないんだよ!」
リチャードは、それが自分を正当化する唯一の希望であるかのように捲し立てた。
愛はない。一度きりだ。相手の狂言かもしれない。
その言い訳の一つ一つが、キャサリンの心に冷や水を浴びせかける。
(この人は……自分のしたことが、どれほど私を汚したか分かっていないのね)
キャサリンの脳裏に、この三年の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
リチャードに相応しい妻になろうと、必死にマナーを学び直した日々。
社交界で「地味な女」「淫売」と陰口を叩かれても、彼にだけは恥をかかせまいと、唇を噛んで微笑み続けた夜会。
彼の「君が初めてだ」という言葉を信じ、彼が過去に抱いたであろう女たちの幻影と戦いながら、自分を納得させてきた三年間。
その努力のすべてが、リチャードの「魔が差した」という軽薄な一言で、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「……リチャード様。貴方は仰いましたわね。『君以外の女性は石ころと同じだ』と」
「ああ、今でもそう思っているよ、キャサリン!」
「では、貴方は石ころを抱いて、新しい命を作ったのですか? 愛する妻を邸に一人残して、石ころと戯れていたのですか?」
キャサリンの声は、怒りを通り越して冷徹だった。
「わたくしが、どんな気持ちで貴方を信じてきたか。どれほどの悪意に耐えて、貴方の帰りを待っていたか……貴方には、一生かかっても理解できないでしょう」
「待ってくれ、やり直そう。何でもする。彼女には金を払って遠ざけるし、二度と浮気なんてしない! 僕には君が必要なんだ!」
リチャードがキャサリンの手を強く握りしめる。その手は温かい。けれど、その温もりすらも今は、別の女に触れた残り香が漂っているようで、吐き気がした。
自分のお腹の中には、今、この男との子が宿っている。
それを告げれば、リチャードは喜ぶだろう。「やはり君が一番だ」と、新しい命を盾にして自分を繋ぎ止めようとするだろう。
だが、その喜びすらも、エレナの宿した命という「不純物」によって汚されている。
「……触らないで」
キャサリンは、リチャードの手を静かに、しかし断固として振り払った。
「貴方の愛は、私を癒やすものではなく、私を貶めるものでした。三年間……わたくしが信じてきたリチャード様は、どこにもいなかったのですね」
リチャードは、キャサリンの瞳から「光」が消えたのを見た。
かつて彼を無垢に信じ、慈しんでいたあの温かな眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、ただ深く、冷たい、絶望の淵だった。
「キャサリン……!」
夫の呼びかける声を無視し、キャサリンは再びベッドに横たわった。
彼女の中で、何かが決定的に壊れた。
そして、壊れた破片の陰から、これまでの彼女にはなかった、鋭い「決意」が鎌首をもたげていた。
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キャサリンは壁の方を向いたまま横たわり、背後に立つリチャードの気配を感じていた。かつては安らぎの象徴だったその気配が、今は肌を刺すような不快感をもたらす。
「……キャサリン。気分はどうだい」
リチャードの震える声が、静寂を破った。彼はベッドの端に腰を下ろし、そっとキャサリンの肩に手を伸ばす。しかし、彼女が微かに身を強張らせるのを見て、火に触れたかのように手を引っ込めた。
「先生は、極度の心労だと仰っていた。……すまない。全部、僕のせいだ」
キャサリンはゆっくりと上体を起こした。青白い顔に、焦点の定まらない瞳。リチャードはその痛々しい姿に胸を締め付けられながらも、必死に弁明の言葉を紡ぎ始める。
「いいかい、キャサリン。落ち着いて聞いてくれ。あの前ヴィンセント子爵夫人が言ったことは……確かに…… 事実だ。あの日、僕は彼女と……一度だけ……間違いを犯した。でも、誓って言う。彼女に対して愛なんて微塵もないんだ!」
リチャードは縋り付くような目でキャサリンを見つめた。
「酒のせいだったんだ。君がいない夜会で、少し羽目を外してしまっただけなんだよ。彼女は、ただの昔馴染みで……。向こうから誘ってきたんだ。僕は、ただ……」
「……ただ、何ですの?」
キャサリンの低い声が、リチャードの言葉を遮った。
「ただ、懐かしかった? それとも、真面目すぎるわたくしとの生活に飽きて、刺激が欲しかったのですか?」
「そんなことはない! 君との生活は幸せだ。心から君を愛している。それに!彼女の子が僕の子だという確証もないんだ。あの夜会には他にも多くの男がいた。彼女が生活のために、かつての遊び人だった僕をカモにしようとしているだけかもしれない。産まれてくるまでは、僕の子かどうかも分からないんだよ!」
リチャードは、それが自分を正当化する唯一の希望であるかのように捲し立てた。
愛はない。一度きりだ。相手の狂言かもしれない。
その言い訳の一つ一つが、キャサリンの心に冷や水を浴びせかける。
(この人は……自分のしたことが、どれほど私を汚したか分かっていないのね)
キャサリンの脳裏に、この三年の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
リチャードに相応しい妻になろうと、必死にマナーを学び直した日々。
社交界で「地味な女」「淫売」と陰口を叩かれても、彼にだけは恥をかかせまいと、唇を噛んで微笑み続けた夜会。
彼の「君が初めてだ」という言葉を信じ、彼が過去に抱いたであろう女たちの幻影と戦いながら、自分を納得させてきた三年間。
その努力のすべてが、リチャードの「魔が差した」という軽薄な一言で、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「……リチャード様。貴方は仰いましたわね。『君以外の女性は石ころと同じだ』と」
「ああ、今でもそう思っているよ、キャサリン!」
「では、貴方は石ころを抱いて、新しい命を作ったのですか? 愛する妻を邸に一人残して、石ころと戯れていたのですか?」
キャサリンの声は、怒りを通り越して冷徹だった。
「わたくしが、どんな気持ちで貴方を信じてきたか。どれほどの悪意に耐えて、貴方の帰りを待っていたか……貴方には、一生かかっても理解できないでしょう」
「待ってくれ、やり直そう。何でもする。彼女には金を払って遠ざけるし、二度と浮気なんてしない! 僕には君が必要なんだ!」
リチャードがキャサリンの手を強く握りしめる。その手は温かい。けれど、その温もりすらも今は、別の女に触れた残り香が漂っているようで、吐き気がした。
自分のお腹の中には、今、この男との子が宿っている。
それを告げれば、リチャードは喜ぶだろう。「やはり君が一番だ」と、新しい命を盾にして自分を繋ぎ止めようとするだろう。
だが、その喜びすらも、エレナの宿した命という「不純物」によって汚されている。
「……触らないで」
キャサリンは、リチャードの手を静かに、しかし断固として振り払った。
「貴方の愛は、私を癒やすものではなく、私を貶めるものでした。三年間……わたくしが信じてきたリチャード様は、どこにもいなかったのですね」
リチャードは、キャサリンの瞳から「光」が消えたのを見た。
かつて彼を無垢に信じ、慈しんでいたあの温かな眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、ただ深く、冷たい、絶望の淵だった。
「キャサリン……!」
夫の呼びかける声を無視し、キャサリンは再びベッドに横たわった。
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