三年目の浮気 ~妊娠した私に、今さら愛を乞うても遅すぎますわ~

恋せよ恋

文字の大きさ
8 / 13

堪忍袋の緒が切れる

  翌朝、オギルビー侯爵邸を包んでいたのは、重苦しく湿った沈黙だった。
 リチャードは一晩中、寝室の扉の前で座り込んでいた。かつて社交界を沸かせた伊達男の面影はなく、高級なシャツは皺寄り、その瞳は後悔で赤く充血している。

 扉が開いたのは、夜が明けてしばらくしてからのことだった。
 出てきたキャサリンは、外出用の簡素なドレスに身を包み、手には小さな旅行鞄を一つだけ提げていた。

「……キャサリン! ああ、良かった、顔を見せてくれて。……その鞄はどうしたんだい? まさか、どこかへ行くつもりじゃ……」

 リチャードが慌てて立ち上がり、彼女の行く手を塞ぐように両手を広げた。キャサリンは立ち止まり、夫を冷ややかに見上げた。その瞳には、昨夜までの絶望に代わって、硬質な怒りの炎が宿っている。

「どいてください。これ以上、貴方と同じ空気を吸いたくないのです」

「待ってくれ! 昨夜も言っただろう、あれは事故なんだ。僕は誘惑に負けた愚かな男だが、心から愛しているのは君だけなんだよ。許してほしい、一度の過ちで三年の月日を捨てないでくれ!」

 リチャードは床に膝をつき、キャサリンのドレスの裾に縋り付いた。プライドも名誉も投げ捨てたその姿は、端から見れば痛々しいほどの求愛に見えたかもしれない。
 だが、今のキャサリンにとって、その姿は滑稽な芝居にしか映らなかった。

「愛している……? よくもそんな言葉が吐けますわね、リチャード様」

 キャサリンの声が、初めて震えた。悲しみではなく、抑えきれない憤怒によって。

「私への愛があるなら、なぜ、あんな汚らわしい真似ができたのですか!? 私が一人、貴方の帰りを信じて待っていたあの夜に。貴方は他の女の肌に触れ、あどけない愛の言葉を囁いていた。それが貴方の言う『愛』なのですか?」

「それは……酒が入っていて、正常な判断が……」

「お酒のせいにしないでください! 貴方はただ、私という『安らぎ』を手に入れながら、かつての『刺激』も手放せなかっただけでしょう? 私がどれほど貴方の過去の遊び相手から向けられる悪意を受け止めてきたと思っているのですか! 貴方が投げ出した無責任な情欲のツケを、なぜ私が、私の人生をもって払わされなければならないのですか!」

 キャサリンの怒声が、静かな廊下に響き渡った。
 控えめに様子を伺っていた侍女たちが、その剣幕に息を呑む。

 真面目で大人しく、決して声を荒らげることのなかったキャサリン。リチャードが何をしても「お帰りなさい」と微笑んでいた彼女の、三年間分の忍耐という名の袋が、今、完全に引き裂かれたのだ。

「私を地味だと、面白みがないと嘲笑った女たち。彼女たちが正しかった。私はただの馬鹿な女でした。貴方の嘘に騙され、自分の居場所を見つけたと思い込んで……。お腹に子ができたというあの未亡人の言葉を聞いた時、私がどれほど殺したいほどの憎しみを感じたか、貴方には想像もつかないでしょうね!」

「キャサリン、落ち着くんだ。子供のことはまだ確定したわけじゃ……」

「確定など、どうでもいいのです! 貴方が彼女に触れた、その事実だけで、私と貴方の絆は死んだのです!」

 キャサリンは、縋り付くリチャードの腕を思い切り振り払った。その勢いでリチャードが床に手をつく。

「もう、二度と私に触れないで。貴方の指先が触れるだけで、私は虫唾が走るわ」

 彼女は振り返ることなく、玄関へと歩き出した。
 慌てて老執事や侍女たちが駆け寄ってくる。

「奥様、どちらへ行かれるのですか! せめてお車を用意させます、侍女もお連れください!」

「いいえ、誰の助けもいりません。私は、オギルビー侯爵夫人としての特権をすべてここに置いていきます」

 キャサリンは玄関の重い扉を開けた。外は、彼女の心情を写したかのような激しい雨が降り注いでいた。
 リチャードが追いかけてくる。

「キャサリン! 行かないでくれ! 雨の中、一人でどこへ行くつもりだ! 戻れ、命令だ!」

 命令。その言葉を聞いた瞬間、キャサリンは雨の中で立ち止まり、冷たく微笑んだ。

「命令……? 私を縛れるものは、もう何もありませんわ。……ああ、そうだわ。一つだけお伝えしておきます。貴方がいつか、私を見つけ出せるとは思わないでください。……貴方が愛した『真面目なキャサリン』は、もう死にましたから」

 リチャードが雨に打たれながら伸ばした手は、空を斬った。

 キャサリンは雨に濡れることも厭わず、ぬかるんだ道へと踏み出した。
 小さな鞄一つ、傘も持たず、彼女はただひたすらに歩き続ける。
 背後でリチャードが自分の名前を叫んでいるのが聞こえる。だが、激しい雨音と、彼女の胸の内で高鳴る「自由への鼓動」が、その声をかき消していった。

 お腹のあたりが、わずかに疼いた。
 この子だけは、誰にも渡さない。
 この子だけは、嘘にまみれたこの邸の空気など吸わせない。
 キャサリンの瞳は、激しい雨の中でも一点を見据えていた。

 かつて彼女が「一生を捧げる」と誓った場所を、彼女は一度も振り返ることなく捨て去った。
_____________

エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇‍♀️

📢新連載🌹【『結婚前に恋がしたいんだ』、婚約者は妹を選び私を捨てた】

あなたにおすすめの小説

側室や愛妾くらい居てもいいだろう?と笑った夫を破滅させてやりました

紬あおい
恋愛
やりたい放題なお馬鹿な夫を捨てたお話 3800文字足らずの短編です

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

番ではないと言われた王妃の行く末

にのまえ
恋愛
 獣人の国エスラエルの王妃スノーは、人間でありながら“番”として選ばれ、オオカミ族の王ローレンスと結婚した。しかし三年間、彼に番と認められることも愛されることもなく、白い結婚のまま冷遇され続ける。  それでも王妃として国に尽くしてきたスノーだったが、ある日、ローレンスが別の令嬢レイアーを懐妊させ、側妃として迎えると知る。ついに心が折れたスノーは離縁を決意し、国を去ろうとする。  しかしその道中、レイアー嬢の実家の襲撃に遭い、スノーは命を落とす寸前、自身の命と引き換えに広域回復魔法で多くの命を救う。  これでスノーの、人生は終わりのはずだった。  だが次に目を覚ますと、スノーは三年前の結婚式当日に戻っていた。何度死んでも、何度拒絶しても、結婚式の誓いの瞬間へと戻される。  番から逃れようと、スノーは何度も死を選ぶが――。

【完結】貴方が好きなのはあくまでも私のお姉様

すだもみぢ
恋愛
伯爵令嬢であるカリンは、隣の辺境伯の息子であるデュークが苦手だった。 彼の悪戯にひどく泣かされたことがあったから。 そんな彼が成長し、年の離れたカリンの姉、ヨーランダと付き合い始めてから彼は変わっていく。 ヨーランダは世紀の淑女と呼ばれた女性。 彼女の元でどんどんと洗練され、魅力に満ちていくデュークをカリンは傍らから見ていることしかできなかった。 しかしヨーランダはデュークではなく他の人を選び、結婚してしまう。 それからしばらくして、カリンの元にデュークから結婚の申し込みが届く。 私はお姉さまの代わりでしょうか。 貴方が私に優しくすればするほど悲しくなるし、みじめな気持ちになるのに……。 そう思いつつも、彼を思う気持ちは抑えられなくなっていく。 8/21 MAGI様より表紙イラストを、9/24にはMAGI様の作曲された この小説のイメージソング「意味のない空」をいただきました。 https://www.youtube.com/watch?v=L6C92gMQ_gE MAGI様、ありがとうございます! イメージが広がりますので聞きながらお話を読んでくださると嬉しいです。

二番目でいい。それがあなたの隣にいられる唯一の方法だから

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢アリスは、幼い頃から幼馴染のクリスに恋をしていた。 けれどクリスが想っているのは、アリスの親友であり、美しく社交的な令嬢ミリアだと信じていた。いつだって彼の視線の先にいるのはミリアで、自分はその隣で笑うことしかできなかったから。 そんなある日、ミリアに縁談が決まり、王都を去ることになる。 失意のはずのクリスを見て胸を痛めていたアリスだったが、ミリアが嫁いだ直後、なぜかクリスから結婚を申し込まれてしまう。 嬉しい。けれど苦しい。 これは愛の告白ではなく、親友を失った悲しみを紛らわすための求婚なのだそう思ったアリスは、本心を隠したまま妻になることを選ぶ

家出を決行した結果

恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。 デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。 自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。 ※なろうさんにも公開しています。

都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

凪ノ
恋愛
自他ともに認める禁欲主義の御曹司と付き合って四年目、彼は今もなお、彼女を拒んでいた。 そこで小林時絵(こばやし ときえ)は母親に電話をかけた。 「お母さん、前に言ってたパイロットの面接、もう手配してもらえる?」 電話の向こうで、時絵の母は驚きを隠せなかった。 「本当なの?でも、海浜市に残って結婚するって言ってたじゃない……あんなに好きだったパイロットの仕事も全部諦めたんじゃなかったの?」 薄暗い光の中、彼が夢中でその女に手を伸ばし、理性を失っていく彼の姿を眺めながら── 時絵は自嘲的に笑った。 ──H市に戻れば、また自分のキャリアを取り戻せる。 これからはまた、大空を自由に飛ぶパイロット、小林時絵として生きていく。 不倫に溺れた……惨めな女なんかじゃなくて……

【本編完結】愛していると気づいたから、私はあなたを手放します

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
愛しているのに、触れられない。 幼なじみの夫は、こう言った。 「もう、女性を愛することはできない」と。 それでも「君がいい」と言い続ける彼と、 子どもを望む現実の間で、私は追い詰められていく。 だから決めた。 彼のためにも、私は他の誰かを探す。 ――そう思ったのに。 なぜあなたは、そんな顔で私を追いかけてくるの? これは、間違った優しさで離れた二人が、 もう一度、互いを選び直すまでの物語。 ※表紙はAI生成イラストを使用しています。