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堪忍袋の緒が切れる
翌朝、オギルビー侯爵邸を包んでいたのは、重苦しく湿った沈黙だった。
リチャードは一晩中、寝室の扉の前で座り込んでいた。かつて社交界を沸かせた伊達男の面影はなく、高級なシャツは皺寄り、その瞳は後悔で赤く充血している。
扉が開いたのは、夜が明けてしばらくしてからのことだった。
出てきたキャサリンは、外出用の簡素なドレスに身を包み、手には小さな旅行鞄を一つだけ提げていた。
「……キャサリン! ああ、良かった、顔を見せてくれて。……その鞄はどうしたんだい? まさか、どこかへ行くつもりじゃ……」
リチャードが慌てて立ち上がり、彼女の行く手を塞ぐように両手を広げた。キャサリンは立ち止まり、夫を冷ややかに見上げた。その瞳には、昨夜までの絶望に代わって、硬質な怒りの炎が宿っている。
「どいてください。これ以上、貴方と同じ空気を吸いたくないのです」
「待ってくれ! 昨夜も言っただろう、あれは事故なんだ。僕は誘惑に負けた愚かな男だが、心から愛しているのは君だけなんだよ。許してほしい、一度の過ちで三年の月日を捨てないでくれ!」
リチャードは床に膝をつき、キャサリンのドレスの裾に縋り付いた。プライドも名誉も投げ捨てたその姿は、端から見れば痛々しいほどの求愛に見えたかもしれない。
だが、今のキャサリンにとって、その姿は滑稽な芝居にしか映らなかった。
「愛している……? よくもそんな言葉が吐けますわね、リチャード様」
キャサリンの声が、初めて震えた。悲しみではなく、抑えきれない憤怒によって。
「私への愛があるなら、なぜ、あんな汚らわしい真似ができたのですか!? 私が一人、貴方の帰りを信じて待っていたあの夜に。貴方は他の女の肌に触れ、あどけない愛の言葉を囁いていた。それが貴方の言う『愛』なのですか?」
「それは……酒が入っていて、正常な判断が……」
「お酒のせいにしないでください! 貴方はただ、私という『安らぎ』を手に入れながら、かつての『刺激』も手放せなかっただけでしょう? 私がどれほど貴方の過去の遊び相手から向けられる悪意を受け止めてきたと思っているのですか! 貴方が投げ出した無責任な情欲のツケを、なぜ私が、私の人生をもって払わされなければならないのですか!」
キャサリンの怒声が、静かな廊下に響き渡った。
控えめに様子を伺っていた侍女たちが、その剣幕に息を呑む。
真面目で大人しく、決して声を荒らげることのなかったキャサリン。リチャードが何をしても「お帰りなさい」と微笑んでいた彼女の、三年間分の忍耐という名の袋が、今、完全に引き裂かれたのだ。
「私を地味だと、面白みがないと嘲笑った女たち。彼女たちが正しかった。私はただの馬鹿な女でした。貴方の嘘に騙され、自分の居場所を見つけたと思い込んで……。お腹に子ができたというあの未亡人の言葉を聞いた時、私がどれほど殺したいほどの憎しみを感じたか、貴方には想像もつかないでしょうね!」
「キャサリン、落ち着くんだ。子供のことはまだ確定したわけじゃ……」
「確定など、どうでもいいのです! 貴方が彼女に触れた、その事実だけで、私と貴方の絆は死んだのです!」
キャサリンは、縋り付くリチャードの腕を思い切り振り払った。その勢いでリチャードが床に手をつく。
「もう、二度と私に触れないで。貴方の指先が触れるだけで、私は虫唾が走るわ」
彼女は振り返ることなく、玄関へと歩き出した。
慌てて老執事や侍女たちが駆け寄ってくる。
「奥様、どちらへ行かれるのですか! せめてお車を用意させます、侍女もお連れください!」
「いいえ、誰の助けもいりません。私は、オギルビー侯爵夫人としての特権をすべてここに置いていきます」
キャサリンは玄関の重い扉を開けた。外は、彼女の心情を写したかのような激しい雨が降り注いでいた。
リチャードが追いかけてくる。
「キャサリン! 行かないでくれ! 雨の中、一人でどこへ行くつもりだ! 戻れ、命令だ!」
命令。その言葉を聞いた瞬間、キャサリンは雨の中で立ち止まり、冷たく微笑んだ。
「命令……? 私を縛れるものは、もう何もありませんわ。……ああ、そうだわ。一つだけお伝えしておきます。貴方がいつか、私を見つけ出せるとは思わないでください。……貴方が愛した『真面目なキャサリン』は、もう死にましたから」
リチャードが雨に打たれながら伸ばした手は、空を斬った。
キャサリンは雨に濡れることも厭わず、ぬかるんだ道へと踏み出した。
小さな鞄一つ、傘も持たず、彼女はただひたすらに歩き続ける。
背後でリチャードが自分の名前を叫んでいるのが聞こえる。だが、激しい雨音と、彼女の胸の内で高鳴る「自由への鼓動」が、その声をかき消していった。
お腹のあたりが、わずかに疼いた。
この子だけは、誰にも渡さない。
この子だけは、嘘にまみれたこの邸の空気など吸わせない。
キャサリンの瞳は、激しい雨の中でも一点を見据えていた。
かつて彼女が「一生を捧げる」と誓った場所を、彼女は一度も振り返ることなく捨て去った。
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📢新連載🌹【『結婚前に恋がしたいんだ』、婚約者は妹を選び私を捨てた】
リチャードは一晩中、寝室の扉の前で座り込んでいた。かつて社交界を沸かせた伊達男の面影はなく、高級なシャツは皺寄り、その瞳は後悔で赤く充血している。
扉が開いたのは、夜が明けてしばらくしてからのことだった。
出てきたキャサリンは、外出用の簡素なドレスに身を包み、手には小さな旅行鞄を一つだけ提げていた。
「……キャサリン! ああ、良かった、顔を見せてくれて。……その鞄はどうしたんだい? まさか、どこかへ行くつもりじゃ……」
リチャードが慌てて立ち上がり、彼女の行く手を塞ぐように両手を広げた。キャサリンは立ち止まり、夫を冷ややかに見上げた。その瞳には、昨夜までの絶望に代わって、硬質な怒りの炎が宿っている。
「どいてください。これ以上、貴方と同じ空気を吸いたくないのです」
「待ってくれ! 昨夜も言っただろう、あれは事故なんだ。僕は誘惑に負けた愚かな男だが、心から愛しているのは君だけなんだよ。許してほしい、一度の過ちで三年の月日を捨てないでくれ!」
リチャードは床に膝をつき、キャサリンのドレスの裾に縋り付いた。プライドも名誉も投げ捨てたその姿は、端から見れば痛々しいほどの求愛に見えたかもしれない。
だが、今のキャサリンにとって、その姿は滑稽な芝居にしか映らなかった。
「愛している……? よくもそんな言葉が吐けますわね、リチャード様」
キャサリンの声が、初めて震えた。悲しみではなく、抑えきれない憤怒によって。
「私への愛があるなら、なぜ、あんな汚らわしい真似ができたのですか!? 私が一人、貴方の帰りを信じて待っていたあの夜に。貴方は他の女の肌に触れ、あどけない愛の言葉を囁いていた。それが貴方の言う『愛』なのですか?」
「それは……酒が入っていて、正常な判断が……」
「お酒のせいにしないでください! 貴方はただ、私という『安らぎ』を手に入れながら、かつての『刺激』も手放せなかっただけでしょう? 私がどれほど貴方の過去の遊び相手から向けられる悪意を受け止めてきたと思っているのですか! 貴方が投げ出した無責任な情欲のツケを、なぜ私が、私の人生をもって払わされなければならないのですか!」
キャサリンの怒声が、静かな廊下に響き渡った。
控えめに様子を伺っていた侍女たちが、その剣幕に息を呑む。
真面目で大人しく、決して声を荒らげることのなかったキャサリン。リチャードが何をしても「お帰りなさい」と微笑んでいた彼女の、三年間分の忍耐という名の袋が、今、完全に引き裂かれたのだ。
「私を地味だと、面白みがないと嘲笑った女たち。彼女たちが正しかった。私はただの馬鹿な女でした。貴方の嘘に騙され、自分の居場所を見つけたと思い込んで……。お腹に子ができたというあの未亡人の言葉を聞いた時、私がどれほど殺したいほどの憎しみを感じたか、貴方には想像もつかないでしょうね!」
「キャサリン、落ち着くんだ。子供のことはまだ確定したわけじゃ……」
「確定など、どうでもいいのです! 貴方が彼女に触れた、その事実だけで、私と貴方の絆は死んだのです!」
キャサリンは、縋り付くリチャードの腕を思い切り振り払った。その勢いでリチャードが床に手をつく。
「もう、二度と私に触れないで。貴方の指先が触れるだけで、私は虫唾が走るわ」
彼女は振り返ることなく、玄関へと歩き出した。
慌てて老執事や侍女たちが駆け寄ってくる。
「奥様、どちらへ行かれるのですか! せめてお車を用意させます、侍女もお連れください!」
「いいえ、誰の助けもいりません。私は、オギルビー侯爵夫人としての特権をすべてここに置いていきます」
キャサリンは玄関の重い扉を開けた。外は、彼女の心情を写したかのような激しい雨が降り注いでいた。
リチャードが追いかけてくる。
「キャサリン! 行かないでくれ! 雨の中、一人でどこへ行くつもりだ! 戻れ、命令だ!」
命令。その言葉を聞いた瞬間、キャサリンは雨の中で立ち止まり、冷たく微笑んだ。
「命令……? 私を縛れるものは、もう何もありませんわ。……ああ、そうだわ。一つだけお伝えしておきます。貴方がいつか、私を見つけ出せるとは思わないでください。……貴方が愛した『真面目なキャサリン』は、もう死にましたから」
リチャードが雨に打たれながら伸ばした手は、空を斬った。
キャサリンは雨に濡れることも厭わず、ぬかるんだ道へと踏み出した。
小さな鞄一つ、傘も持たず、彼女はただひたすらに歩き続ける。
背後でリチャードが自分の名前を叫んでいるのが聞こえる。だが、激しい雨音と、彼女の胸の内で高鳴る「自由への鼓動」が、その声をかき消していった。
お腹のあたりが、わずかに疼いた。
この子だけは、誰にも渡さない。
この子だけは、嘘にまみれたこの邸の空気など吸わせない。
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かつて彼女が「一生を捧げる」と誓った場所を、彼女は一度も振り返ることなく捨て去った。
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