【完結】身売り覚悟の子爵令嬢、一夜限りの誘惑のつもりが遊び人の侯爵令息に執着されています!

恋せよ恋

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偽りの生活スタート

  翌朝、パトリシアを待っていたのは、信じられないほど迅速な「救済」だった。

 ギルバートは朝食の席で、事も無げに「君の実家の債務はすべて僕が一時的に買い取った。バルカスという男にはもう手を引かせたから安心するといい」と告げたのだ。

「え……あ、あの、全額ですか!? 利子も、その、延滞金も……?」

「ああ。ハワード侯爵家の名を出せば、あんな小悪党は二つ返事で引き下がったよ。これで君は、あの好色爺に売られることも、娼館へ行く必要もなくなったわけだ」

 パトリシアは手に持っていたフォークを落としそうになった。
 あんなに家族を苦しめ、自分の人生を終わらせようとしていた巨大な絶望が、この青年の鶴の一声であっけなく消え去ってしまった。

「そ、そんな……! お礼を……どうやってお返しすれば……」

「言っただろう? 君は僕の『お気に入り』だ。当面の間、世間にはそう公表してこの別邸に通ってもらう。それが僕への対価だよ」

 
 その言葉の響きに、パトリシアは昨夜の「お預け」を思い出し、顔を真っ赤にした。
 今はまだ指一本触れられていないが、借金を肩代わりしてもらった以上、いつ「その時」が来ても拒む権利はない。むしろ、自分から志願したことなのだ。

(いつ抱かれるのかしら……今夜? それとも、お昼寝の後? あ、でも、あの方は遊び人だから、もっと凄いテクニックを求めてくるのかも……!)

 パトリシアは一日に何度もビクビクと身を震わせていたが、肝心のギルバートは、彼女を別邸に置くと、以前と変わらず優雅に学園や社交場へと出かけていくのだった。

 ただ守られているだけなのは、商家の娘としてのプライドが許さない。
 パトリシアは、ギルバートへの恩返しをするべく、別邸で自分にできることを探し始めた。

「パトリシア様、そのようなことは私共にお任せください!」

「いいえ! 私は恩義ある身……いえ、ギルバート様の『お気に入り』なんですから、働かせてください!」

 そう言って彼女が手に取ったのは、モップと雑巾だった。
 もともと実家でも家事や商会の手伝いを率先してこなしていたパトリシアだ。貴族の令嬢とは思えない手際の良さで、屋敷の隅々まで磨き上げていく。

 それだけではない。料理人の手伝いをして領地の特産品を使った新メニューを提案したり、庭師と一緒に冷害に強いハーブの植え替えを手伝ったりと、彼女の周囲には常に笑顔があふれるようになった。

 ギルバートが連れ込んできたこれまでの「遊び相手」たちは、宝石やドレスをねだり、使用人を見下す者ばかりだった。それだけに、明るく謙虚で、全力で掃除に励むパトリシアは、あっという間に使用人たちの心を掴んでしまった。

「パトリシア様、今日もピカピカですね!」

「あ、庭のバラが咲きましたよ、一緒に見に行きませんか?」

 別邸の雰囲気は、彼女が通い詰めるようになってからというもの、驚くほど明るく様変わりしていた。
 ギルバートが夜、疲れを纏って帰宅すると、そこには鏡のように磨き上げられた床と、パトリシアが活けた瑞々しい季節の花、そして――。

「おかえりなさいませ、ギルバート様!」

 という、疲れも吹き飛ばすような彼女の元気すぎる声が待っているのだ。パトリシアは毎日、彼の帰宅を笑顔で確認し、その姿を見届けてからようやく安心したように馬車で実家の子爵家へと帰っていく。そんな健気な生活を続けていた。

 パトリシアは、「いつか心から抱かれたいと思われるまで待つ」と言ってくれた彼の、遊び人の仮面に隠された紳士的な一面を知るたびに、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じていた。

(ギルバート様は、本当に素敵な方。……もし、これが契約なんかじゃなくて、本当にお付き合いできているのだとしたら……なんて。……っ!)

 一人、赤くなった頬を両手で押さえ、自室のベッドで身悶える毎日。
 しかし、そんな恋を知ったばかりの少女の淡い期待は、やがて残酷な形で現実へと引き戻されることになる。


  ある日の午後。
 パトリシアは、ギルバートから頼まれていた書類を届けるため、王都の高級サロンへと向かった。
 そこは、高位貴族たちの社交の場。入り口でギルバートの名を出すと、奥にあるテラス席へと案内された。

 そこでパトリシアが目にしたのは――。

「まあ、ギルバート様ったら。今日も本当にお口が上手ですわ」

「本当のことだよ。君の瞳は、どんな宝石よりも美しい」

 麗しい金の髪を揺らし、複数の令嬢たちに囲まれて、楽しげに笑いさざめくギルバートの姿だった。
 彼は令嬢の一人の手を取り、あの泣きぼくろを艶っぽく動かしながら、とろけるような笑みを浮かべていた。

 それは、別邸でパトリシアに見せる穏やかな顔とは違う、「遊び人」としての男の顔だった。

「…………っ」

 足が震えた。

 分かっていたはずだ。彼は遊び人で、来るもの拒まず。
 自分はたまたま「面白い女」として拾われただけで、彼にとって令嬢たちとの火遊びは日常茶飯事なのだと。

 パトリシアは、気づかれないようにその場を駆け出した。
 書類は受付に預け、逃げるように別邸へと戻る。
 
 自室に飛び込み、ドアを閉めると、パトリシアはズルズルとその場にへたり込んだ。

「そうよ……そうよね。ギルバート様は、みんなの憧れなんだもの。私なんかが、特別だなんて思っちゃダメ……」

 自分に言い聞かせるように、震える声で呟く。
 自分は借金を肩代わりしてもらった、契約上の「遊び相手」に過ぎない。彼が誰と遊ぼうが、誰を口説こうが、文句を言う権利などどこにもないのだ。

「勘違いしちゃ、ダメよ……パトリシア……っ」

 何度も何度も、呪文のように繰り返す。
 けれど、視界はみるみるうちに歪んでいき、温かい涙が次から次へと溢れ出した。

 借金から救ってくれたヒーローとしての彼。
 掃除を褒めてくれた優しい彼。
 それらがすべて、彼の気まぐれな「遊び」の一部に過ぎないのだとしたら、こんなにも胸が痛いのはなぜだろう。

 パトリシアは、膝を抱えて声を殺して泣いた。
 「遊んで捨てて」と自分から願ったはずなのに、今の彼女にとって、それは世界で一番恐ろしい言葉になっていた。
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