裏切りの果てに目覚めた愛は、狂気だった〜冷遇夫の溺愛が、私を壊し始める〜

恋せよ恋

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奇跡の目覚め

  窓の外では、季節が移ろい始めたことを告げる鳥の声が響いている。

 カサンドラは、もはや自分の体の一部かのように馴染んだ椅子に座り、セバスチャンの手入れされた指先を見つめていた。
 数週間にわたる不眠不休の看病により、彼女の頬は削げ、美しかった緑の瞳の周囲には濃い隈が落ちている。

 その時だった。

 カサンドラが握っていた夫の指先が、微かに、だが確かな力で跳ねた。

「……セバスチャン様?」

 呼吸が止まる。

 重い瞼が、ゆっくりと持ち上がった。そこから覗いたのは、濁りのない蜂蜜色の瞳。数週間の混濁から抜け出し、ようやく現実の光を捉えたその瞳が、じっとカサンドラを見つめる。

 カサンドラは、心の中で冷酷な笑みを浮かべた。

(さあ、絶望なさい。私という『呪い』が、あなたの目の前にいるわ)

 どのような罵倒が飛んでくるだろうか。「なぜ助けた」「マデリーンはどこだ」と、あの女の名を叫ぶのだろうか。カサンドラはその醜悪な本性を迎え撃つべく、氷のような微笑を唇に湛えた。

 しかし。

「……あ、……カ、カサンドラ……?」

 掠れた、震える声が彼女の名を呼んだ。

 次の瞬間、セバスチャンの瞳から大粒の涙が溢れ出し、白い枕を濡らした。

「ぁぁ......カ......サン......ド......ラ……?ああ……」

 セバスチャンは、折れそうなほど細くなった腕を必死に伸ばし、カサンドラの腰に縋り付いた。激しく咽び泣き、子供のように顔を彼女の腹部に押し当てる。

「すまない、すまないカサンドラ……。僕は、なんてひどいことを……。君を、君のような人を、僕は……」

「……セバスチャン様?」

 予想だにしない反応に、カサンドラの思考が停止した。

 縋り付く手の震え。心臓を抉るような慟哭。そこには、あの傲慢で冷酷な男の影など、微塵もなかった。

「僕は...... 地獄を見てきた。暗闇の中で、君の声だけが聞こえていたんだ……。僕を現世に繋ぎ止めていたのは......君が毎日、僕の手を握り、清めてくれたからだ……」

 セバスチャンは顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになりながらカサンドラを見上げた。その瞳に宿っているのは、これまでの六年間に一度も見せたことのない、盲目的なまでの崇拝と熱情だった。

「君を失うところだった。……いや、僕が君を捨てようとしていたんだね。なんて愚かだったんだ。マデリーンとのことは、すべて夢だったかのように思える。あんな泥濘(ぬかるみ)のような情愛に、どうして僕の心は囚われていたんだろう……」

 カサンドラの背筋に、得体の知れない悪寒が走った。己の不貞を、まるで他人の過ちを語るかのように軽々しく口にしている。自白しているという自覚さえ欠落しているかのような、独りよがりな独白。

 彼は、事故の衝撃で正気を失ったのだろうか? それとも、死の淵を彷徨ったことで、倫理という概念さえ欠落してしまったのか。

「カサンドラ、許してくれなんて言わない。ただ、そばにいてくれ。君の顔を見ていないと、僕は息ができないんだ」

 彼は、カサンドラの荒れた手を両手で包み込み、まるで聖遺物に触れるかのように恭しく口づけを落とした。何度も、何度も。

 カサンドラは、突き飛ばしたい衝動を必死に抑え込んだ。

 おかしい。何かが、狂っている。

 彼女が用意していた復讐のシナリオは、「裏切りを隠し通そうとする夫を、証拠を突きつけて追い詰める」ことだった。
 あるいは、「目覚めても愛人を想い続ける夫を、義務の鎖で縛り殺す」ことだった。

 しかし、目の前の男はどうだ。
 自らの罪を認め、号泣し、カサンドラという「献身的な妻」に完全に依存している。

「……セバスチャン様、お気を確かに。まだ、お体がお辛いのでしょう」

「いや、今が一番、頭がはっきりしている。……僕は、君を愛しているんだ。初めて会ったあの日よりも、ずっと深く。……一生をかけて、君に償わせてほしい」

 カサンドラは、震える声で答えるのが精一杯だった。

「……ええ。お望み通りに、セバスチャン様」

 彼女の緑の瞳が、僅かに細められる。

 夫が改心したのなら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。周囲の人々は「奇跡だ」と称賛するだろう。

 だが、カサンドラの勘が、耳元で警告を鳴らしている。

 あまりに急激な、この豹変。
 縋り付く彼の腕の力は、病み上がりのそれとは思えないほど強く、執拗で――。

(これは、本当に『愛』なの……?)

 カサンドラを独占しようとする彼の瞳の奥に、暗い、底知れぬ深淵が見えた気がした。

 彼女は、自分を抱きしめる夫の背中に、冷めた手を回した。

 復讐のために作り上げた「完璧な妻」という檻。その檻に、自ら喜んで飛び込んできた猛獣と対峙しているような、形容しがたい恐怖が彼女を支配し始めていた。
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