『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様

恋せよ恋

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再会の温室、終わりの宣告

 学園の二学期が始まる日は、いつも少しだけ空気が冷たい。

 夏の名残を帯びた日差しが、校舎の回廊に並ぶステンドグラスを透過して、床に色鮮やかな模様を描いている。その光の粒を踏みしめながら、ヤスミン・ファーブルは早まる鼓動を抑えきれずにいた。

 ――今日、ユリアン様に会える。

 それだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 十歳の春。政略結婚という言葉の意味すら、よくわかっていなかった頃。
 初めての顔合わせの席で、ヤスミンは失敗をした。緊張のあまり、カーテシーの角度を誤り、ドレスの裾を踏んでよろめいたのだ。

 一瞬、空気が凍りついた。大人たちの視線が突き刺さり、誰かが小さく息を呑む。
 その中で、真っ先に動いたのが――彼だった。

「大丈夫?」

 白い手袋に包まれた手が、迷いなく差し出された。顔を上げた先で微笑んだ少年は、まるで物語の挿絵から抜け出してきたように美しかった。

「初めてなら、誰だって緊張するよ。気にしないで!」

 叱責も、嘲笑もなかった。ただ、「君は間違っていない」という肯定だけがあった。
 その瞬間、ヤスミンの世界で、ユリアン・ゲットーという存在は、特別な意味を持った。

 ――この人の隣に立つにふさわしい女性になろう。

 幼い胸に芽生えたその想いは、年を重ねるごとに、疑いようのない愛へと育っていった。
 彼と会えない夏休みは、ヤスミンにとって色を失った日々だった。

 鏡の前で微笑み方を練習し、刺繍糸を何度も替え、ドレスを選ぶ。彼がどんな言葉をかけてくれるか、その一瞬を思い描きながら。

 ――ユリアン様は、感情を表に出しすぎない女性がお好き。
 ――聞き分けが良くて、賢くて、彼を困らせない女性。

 それが、彼の婚約者であるための正解だと、信じて疑わなかった。

 今日、この日のために新調した薄浅葱色うすあさぎいろのドレスは、ユリアンの瞳の色に合わせたものだ。
 「似合っているね」と微笑んでくれる、その瞬間を夢見て、ヤスミンはこの一ヶ月、完璧な淑女であるための修業に励んできたのだ。

「ユリアン様、お待たせいたしましたわ」

 指定された北園の温室。色とりどりの花々の中で、愛しい婚約者は背を向けて立っていた。

 十七歳になった彼の背中は、いつの間にか遠い存在のように見える。
 振り返ったその美貌は相変わらず神話の彫刻のようで、ヤスミンの胸は切ないほどの愛しさに満たされた。

「ああ、ヤスミン。久しぶりだね。元気そうでよかった」

 彼は彼女の手を取り、その甲に軽く唇を落とす。それだけで、ヤスミンの頬は熱を帯びた。

「はい。ユリアン様も……お変わりありませんようで。あの、私、この夏に新しい刺繍の技法を――」

「刺繍か。君は相変わらず真面目だね。ファーブル侯爵令嬢として、申し分ない努力だ」

 褒められているはずなのに、どこか胸の奥がちくりと痛んだ。それでもヤスミンは、その違和感に名前を与えられない。

「……それでね、ヤスミン。今日は君に一つ、相談というか、報告があるんだ」

 その声を聞いた瞬間、十歳の春の、あの優しい笑顔が脳裏をよぎる。

 ――「誰だって緊張するよ。気にしないで!」

 だからこそ、彼女は疑わなかった。彼が自分を裏切るはずがないと。
 だが次の瞬間、彼の言葉は、すべてを粉々に打ち砕いた。

「僕たちは、十歳の頃から決められた仲だろう? 卒業すれば、僕の妻になるのは君だ。それは揺るがない事実だ。……だからこそ、卒業までの残り一年半、僕は『自由』を経験しておきたいと思っているんだ」

 ヤスミンは、瞬きをした。言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

「自由……と、仰いますと?」

「言葉通りの意味だよ。他の令嬢たちとも、付き合ってみたいんだ。特定の誰かというわけではなく、いろんな女性をエスコートし、恋の駆け引きを楽しんでみたい。いわば、大人の社交の予行演習のようなものだね」

 心臓が、ドクンと嫌な音を立て、耳の奥で、キーンと高い音が鳴り響く。

「……それは、つまり。他の方と、『恋』をなさるということですか? 婚約者である私がいながら?」

「『恋』というほど大げさなものじゃない。遊びだよ、ヤスミン。男のたしなみさ」

 ユリアンは、悪びれる様子もなく笑った。その笑顔は、かつてヤスミンが「優しい」と信じて疑わなかったものと同じだった。

「君は僕の自慢の婚約者だ。将来、僕の隣で公爵夫人として微笑むのは、君以外にありえない。だからこそ、今だけは僕を縛らないでほしい。わかるだろう? 僕が他の女性を知ることで、結果として、君の価値を再確認することにもなるんだから」

「そんな……っ!」

 ヤスミンの目から、大粒の涙が溢れ出した。

 彼女がこの七年間、彼のためにどれほどの涙を耐え、どれほどの孤独を耐え、彼にふさわしい女になろうと己を律してきたか。そのすべてを、彼は「遊び」という言葉で踏みにじろうとしている。

「嫌です、ユリアン様! お願い、そんなこと仰いないで。私は、貴方だけを見つめてきました。貴方さえいれば、他に何もいらないと思って……っ」

 ヤスミンは、彼の袖にすがり付いた。
 震える指先で、必死に彼をつなぎ止めようとする。だが、ユリアンは困ったように眉を下げ、優しく、けれど拒絶の意志を持って、彼女の手を解いた。

「泣かないでおくれよ。君らしくない。僕のヤスミンは、もっと聞き分けの良い、賢い女性だったはずだ。一時の娯楽を認める余裕くらい、持ってほしいな」

「…… 余裕…… ですか?」

「そう。僕が最終的には、君のところなんだから。卒業までの期限付きの自由だ。それくらい、笑って許してくれないか?」

 ユリアンは、ヤスミンの涙を親指でそっと拭った。
 その仕草はどこまでも愛おしげで、けれどその瞳の中には、ヤスミンの絶望に対する共感は微塵も存在しなかった。彼にとって、ヤスミンの苦しみはの範疇に過ぎなかったのだ。

「さあ、教室へ戻ろう。皆が見ている前で、泣きはらした顔を見せるのは良くない」

 ユリアンは一方的に話を締めくくると、彼女の背中を軽く押した。
 ヤスミンは、足元が泥沼に沈んでいくような感覚に陥りながら、力なく歩き出す。

 温室を出ると、爽やかな秋の風が吹いた。けれど、ヤスミンにはそれが、刃のように鋭く肌を裂く冷たさに感じられた。

 ――ユリアン様は、私を愛していない。
 ――ただ、「便利で物分かりの良い婚約者」として、側に置いているだけ。

 その残酷な真実が、胸の奥に深く突き刺さった。一学期までの幸せな記憶が、ガラス細工のように音を立てて崩れていく。
 
 ヤスミン・ファーブルの、長く、そして凍えるような地獄の日々が、今、始まったのだ。
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