【完結】『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様

恋せよ恋

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献身という名の苦行

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 北の森から帰還したユリアン・ゲットーの変化は、屋敷中の使用人、そして社交界の人々を驚愕させるに十分なものだった。

 かつて傲慢不遜で、婚約者の愛を当然のように踏みにじっていた若き公爵は、今や一人の女性――妻であるヤスミン――の影のように、その背後に控える存在となっていた。

「ヤスミン、今日のドレスと宝飾品は、これらでいいかい?」
 朝、ヤスミンの私室の扉を叩くのは、侍女ではなく夫であるユリアン自身だった。彼は膝をつき、ヤスミンの足元を整え、彼女が外出するための準備を、まるで忠実な従僕のように完璧にこなしていく。

「ユリアン様。そのような瑣末な仕事は、使用人に任せればよろしいのに。貴方の時間はもっと、国政や領地運営に充てられるべきですわ」
 ヤスミンは鏡越しに夫を見つめ、抑揚のない声で告げる。

 かつて、彼女がユリアンのために尽くそうとして、「重い」と一蹴された日々。その構図が、今、完全に逆転していた。

「……いいんだ、ヤスミン。僕がやりたいんだ。君の髪を整え、君の足元を飾る。それが今の僕にとって、何よりも優先すべき大切なことなんだよ」
 ユリアンは微笑む。だが、その微笑みはかつての勝ち誇ったようなものではなく、どこか切なげで、縋るような色を帯びていた。

 その日から、ユリアンの「苦行」が始まった。
 彼はヤスミンが好むと言っていた――あるいは、かつて好んでいた――ものをすべて調べ上げ、彼女の日常を彩ろうと躍起になった。
 
 彼女の執務室には、常に彼女の体調に合わせたハーブティーが用意され、彼女が少しでも疲れを見せれば、ユリアンはすぐさま駆け寄り、その細い肩を揉みほぐした。

 夜会に出席すれば、彼は他のどんな高貴な令嬢にも目もくれず、ただヤスミンの傍らに立ち、彼女の飲み物が空になれば注ぎ、彼女が歩く道に汚れがあれば、自らの外套を敷かんばかりの勢いでエスコートした。

「見て、ゲットー公爵。まるで忠犬のようですわ」
「あんなに浮名を流していた方が、あんなにも夫人に心酔するなんて……。一体、何があったのかしら」
 
 周囲の嘲笑や囁きが聞こえてこないはずはない。だが、ユリアンにはそんなことはどうでもよかった。

 彼がどれほど尽くそうと、どれほど情熱的な瞳で見つめようと、ヤスミンからの返答は常に、冷たく透き通っただったからだ。

「ありがとうございます、ユリアン。おかげで移動の効率が向上しましたわ」
「感謝いたします。おかげで執務の疲労が三割ほど軽減されました」
 ヤスミンは、彼の献身を「便利な奉仕」としてしか受け取らない。彼を愛することもないが、拒絶することもない。ただ、そこにあるものとして淡々と処理していく。

 ユリアンにとって、それはどんな罵倒よりも残酷な仕打ちだった。
(……ああ。ヤスミン、君はこんなにも孤独で虚しかったんだね)
 
 かつて、彼女が自分に尽くし、冷たくあしらわれていた時の孤独。ユリアンは今、その一万倍の冷たさを、彼女のから受けていた。魔女が言った「愛されない苦しみにのた打ち回る」という言葉が、骨身に染みる。
 
 ある雨の夜。ヤスミンが執務を終えて寝室に戻ると、そこには床に座り込み、彼女の帰りを待っていたユリアンの姿があった。
 彼は、彼女が以前「可愛い」と言っていた、市井の小さな工芸品を手にしていた。

「ヤスミン……。これ、君が好きだっただろう? 職人を探して、作らせたんだ」
 差し出された木彫りの小鳥。それはかつて、二人が幼い頃に市場で見かけ、ヤスミンが欲しそうに眺めていたものだった。

 ヤスミンはその小鳥を手に取り、無機質に検分した。
「……造形は精巧ですわね。ですが、今の私には、この物品を置くためのスペースを確保するメリットが感じられません。ユリアン、貴方の時間はもっと――」

「言わないでくれ、ヤスミン! 効率とか、メリットとか、そんな言葉で片付けないでくれ!」
 ユリアンは思わず、彼女の膝に顔を埋めた。
「……僕を見てくれ。ここにいる、君を愛して狂いそうな男を見てくれ。……一度でいい。義務の微笑みじゃない、本当の……本当の君を見せてくれ……っ」
 ユリアンの肩が激しく震え、彼女のドレスに涙の染みが広がっていく。
 
 ヤスミンは、その震える夫の頭を、そっと撫でた。
 その手つきは優しかったが、瞳はどこまでも遠くを見つめている。

「……ユリアン。貴方は今、とても非効率なことをなさっています。私に期待しても、何も得られないと、魔女も仰ったでしょう?」
 ヤスミンの言葉に、ユリアンは弾かれたように顔を上げた。

「……魔女? 君、魔女に会ったことを、覚えているのか……?」
「ええ。記憶は消去されておりませんわ。……私が愛を捨て、貴方を『ただの主人』として見る道を選んだ時の、あの森の冷たさ。……ユリアン、貴方が今していることは、あの時私が貴方にしていたことと同じ。……でも、私はもう、貴方に愛を返す装置が壊れてしまっているのです」

 ヤスミンは、自らの胸に手を当てた。
「ここには、何もありません。氷が張った湖の底のように、静かで、平穏です。……貴方がどれほど熱を注いでも、この湖が溶けることはない。……それなのに、どうして貴方は、そんなに悲しそうな顔をするのですか?」
 ヤスミンの問いは、純粋な疑問だった。
 彼女にはもう、「悲しみ」という概念さえ、他人の物語のようにしか理解できないのだ。
 
 ユリアンは、彼女の冷たい手を自分の頬に押し当てた。
「……溶けなくていい。ヤスミン、一生溶けなくても構わない。……君が僕を愛さなくても、僕は君を愛し続ける。君が僕を捨てても、僕は君の影として這いずり回る。……それが、僕が選んだ『自由』なんだ」
 ユリアンの絶望的な告白に、ヤスミンはわずかに、本当にわずかに、眉を動かした。

 それは、感情と呼ぶにはあまりに微かな、氷のひび割れのような反応だった。
「……左様ですか。……自由、ですか。貴方はどこまでも、身勝手な方ですわね、ユリアン」

 ヤスミンはふっと、色のない溜息を吐いた。
「……疲れました。もう寝ましょう。……ユリアン、明日の朝は、私と一緒に庭の散歩に付き合ってくださる? 貴方が用意したあのバラが、どれほど効率的に咲いているか、確認したいのです」

「……ああ。喜んで、ヤスミン。……喜んで」
 ユリアンは彼女の手を握りしめた。

 それは、終わりのない地獄への招待状だったかもしれない。彼女の心はまだ、鉄よりも固く凍りついている。
 けれど、ユリアンは初めて、彼女の言葉に「義務」ではない、微かな意志を感じたような気がした。

 窓の外では、雨が雪へと変わっていた。
 
 彼女の心にある永久凍土は、まだ、一ミリも溶けてはいない。
 だが、その冷たい氷の上に、ユリアンという名の、熱すぎるほどの涙が、一滴ずつ、確実に刻まれていく。
 
 それがいつか氷を穿つ日が来るのか、それともユリアンが先に凍死するのか。
 その答えを知る者は、まだ、どこにもいなかった。
______________

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