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一年目の記念日に、お別れ
窓の外では、王都の学園街を彩る魔導灯が、記念日を祝うように柔らかな光を放っている。
高級レストランの個室。テーブルの上には、美しく盛り付けられた一周年記念のフルコースが並んでいた。
「アン、交際一周年おめでとう。君と出会えて、この一年は本当に幸せだったよ」
目の前に座るザック・トレタン伯爵令息は、眩しいほどの微笑みを浮かべて私を見つめている。
緩やかに波打つ金髪に、晴れ渡った空のような碧眼。学園でも「爽やか王子」と名高い彼は、今日も完璧な恋人だった。私の好みを熟知した料理を選び、エスコートも非の打ち所がない。
けれど、私の胸の奥には、冷たい氷の塊が居座っていた。
「……はい。私も、ザック様と一緒にいられて、夢のようでした」
嘘ではない。ゴードン伯爵家の次女として、目立たず平穏に生きてきた私にとって、彼のような輝かしい嫡男から告白されたのは、一生分の運命を使い果たしたような出来事だった。
だからこそ、彼には幸せになってほしかったのだ。……私ではない、別の誰かと。
数日前、図書室で彼が忘れていった学生手帳を拾った時のことが、脳裏に焼き付いて離れない。
落ちた拍子に開いてしまったページ。そこには、一枚の肖像写真と、小さなカードが挟まっていた。
豊かな茶色の巻毛に、色っぽい瞳を持つ、息を呑むほど美しい女性。彼の幼馴染であり、元カノであるカレン・シャンピア男爵令嬢。
そしてカードに綴られた、流麗な筆致の『会いたい』という一言。
さらに追い打ちをかけるように、廊下の角で聞いてしまった彼の友人の声。
『ザック、結局カレン嬢とはどうなってるんだ? 彼女、婚約者がいるのに君に執着してるんだろ?』
ザックは否定しなかった。ただ、困ったように笑っていただけだった。
(優しいザック様は、私を傷つけたくなくて言い出せないだけ。……本当は、彼女のもとへ行きたいはずなのに)
そう思い至った瞬間、私のなかで何かが音を立てて崩れた。
一年前、彼が私を選んでくれた理由は分からない。けれど、本気で愛し合っていたカレン様が戻りたいと言っているのなら、私が居座る場所なんて、もうどこにもない。
「アン? どうしたんだい、あまり食べていないようだけど。体調が悪いのか?」
ザックが心配そうに身を乗り出し、私の手に触れようとする。その温かな手に触れてしまえば、決意が鈍る。私は咄嗟にナプキンで口元を抑え、その手を避けた。
「……いいえ、大丈夫です。ただ、少しお話したいことがあって」
「話? 改まってどうしたんだい」
彼は相変わらず、優しく穏やかな表情で私を促す。その「優しさ」こそが、今の私には鋭い刃のように突き刺さる。自分からは決して別れを切り出せない、残酷なまでの誠実さ。
私は震える指先を膝の上で握りしめ、喉までせり上がった言葉を、一気に吐き出した。
「ザック様。今日、この記念すべき日に……お別れをさせてください」
その瞬間、部屋の中の空気が凍りついた。
銀食器が触れ合う微かな音さえ消え、完全な静寂が支配する。
「……今、なんて言ったんだい?」
ザックの声は、低く、どこか抑揚を欠いていた。さっきまでの爽やかな響きが、嘘のように消えている。
「私、気づいてしまったんです。ザック様には、他に心に決めた方がいらっしゃること。カレン様とのことも、その……伺いました。私のような女が、ザック様の隣にいるのは、もう限界なんです」
私は一気に捲し立てた。
本当は、彼を責めたかったわけではない。ただ、「知っているから、もう無理をしなくていいですよ」と伝えたかっただけなのに。
「カレン? ……ああ、あのアホな女のことか。それが、僕たちのお別れに関係あると?」
ザックの口から出た「アホな女」という過激な言葉に、私は目を見開いた。そんな乱暴な言葉、彼から一度も聞いたことがない。
混乱する頭で、私はそれでも立ち上がった。今、ここで彼の顔をまともに見てしまったら、すべてが嘘だと言ってしまいそうだったから。
「もう、いいんです。カレン様は本当にお美しい方でした。写真を見て、納得してしまったんです。……ザック様、今までありがとうございました。貴方の幸せを、心から願っています」
「待て、アン。話は終わっていない。写真って何のことだ。どこでそれを見た」
椅子を蹴るような勢いでザックが立ち上がる。その迫力に気圧されそうになりながらも、私は必死で出口へ向かった。
「手帳を見ました! ごめんなさい、勝手に見て……でも、あんなものを持っていたら、私がどんな気持ちになるか、ザック様なら分かりますよね!?」
最後は、叫ぶようだった。
涙が溢れそうになるのを堪え、私は扉を強く開けた。
「アン! 待てと言っているだろう!」
背後から追いかけてくる足音が聞こえる。でも、今の私には彼に捕まる勇気がない。
レストランの階段を駆け下り、待たせていた馬車に飛び乗る。
「出して! 早く!」
御者に急かし、馬車が動き出す。窓の外を振り返ると、レストランの入り口に立つザックの姿が見えた。
街灯の下、夜の闇に紛れた彼の表情は、ここからではよく見えない。
ただ、一つだけ。
いつも優しく細められていた彼の瞳が、見たこともないほど鋭く、そして狂気すら孕んだ光を宿して私を射抜いていたような気がした。
「……これでいいのよ。これで……」
馬車の座席に崩れ落ち、私は声を殺して泣いた。
彼を解放してあげられた。彼はこれで、自分を責めることなく、本当に好きな人のところへ行けるはず。
……けれど、この時の私はまだ知らなかった。
彼にとって、あの写真は「未練」の象徴などではなく、ただの「不快なゴミ」でしかなかったことを。
そして、私という唯一の「癒やし」を失った彼が、どれほど恐ろしい本性を露わにするかということも。
翌朝、学園の私の机に、見たこともないほど大量の薔薇の花束と、一枚のカードが置かれていた。
そこには、ザックの署名とともに、ただ一言。
『逃げられると思わないで』
その文字は、紙を突き破らんばかりの力強い筆跡で書かれていた。
___________
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高級レストランの個室。テーブルの上には、美しく盛り付けられた一周年記念のフルコースが並んでいた。
「アン、交際一周年おめでとう。君と出会えて、この一年は本当に幸せだったよ」
目の前に座るザック・トレタン伯爵令息は、眩しいほどの微笑みを浮かべて私を見つめている。
緩やかに波打つ金髪に、晴れ渡った空のような碧眼。学園でも「爽やか王子」と名高い彼は、今日も完璧な恋人だった。私の好みを熟知した料理を選び、エスコートも非の打ち所がない。
けれど、私の胸の奥には、冷たい氷の塊が居座っていた。
「……はい。私も、ザック様と一緒にいられて、夢のようでした」
嘘ではない。ゴードン伯爵家の次女として、目立たず平穏に生きてきた私にとって、彼のような輝かしい嫡男から告白されたのは、一生分の運命を使い果たしたような出来事だった。
だからこそ、彼には幸せになってほしかったのだ。……私ではない、別の誰かと。
数日前、図書室で彼が忘れていった学生手帳を拾った時のことが、脳裏に焼き付いて離れない。
落ちた拍子に開いてしまったページ。そこには、一枚の肖像写真と、小さなカードが挟まっていた。
豊かな茶色の巻毛に、色っぽい瞳を持つ、息を呑むほど美しい女性。彼の幼馴染であり、元カノであるカレン・シャンピア男爵令嬢。
そしてカードに綴られた、流麗な筆致の『会いたい』という一言。
さらに追い打ちをかけるように、廊下の角で聞いてしまった彼の友人の声。
『ザック、結局カレン嬢とはどうなってるんだ? 彼女、婚約者がいるのに君に執着してるんだろ?』
ザックは否定しなかった。ただ、困ったように笑っていただけだった。
(優しいザック様は、私を傷つけたくなくて言い出せないだけ。……本当は、彼女のもとへ行きたいはずなのに)
そう思い至った瞬間、私のなかで何かが音を立てて崩れた。
一年前、彼が私を選んでくれた理由は分からない。けれど、本気で愛し合っていたカレン様が戻りたいと言っているのなら、私が居座る場所なんて、もうどこにもない。
「アン? どうしたんだい、あまり食べていないようだけど。体調が悪いのか?」
ザックが心配そうに身を乗り出し、私の手に触れようとする。その温かな手に触れてしまえば、決意が鈍る。私は咄嗟にナプキンで口元を抑え、その手を避けた。
「……いいえ、大丈夫です。ただ、少しお話したいことがあって」
「話? 改まってどうしたんだい」
彼は相変わらず、優しく穏やかな表情で私を促す。その「優しさ」こそが、今の私には鋭い刃のように突き刺さる。自分からは決して別れを切り出せない、残酷なまでの誠実さ。
私は震える指先を膝の上で握りしめ、喉までせり上がった言葉を、一気に吐き出した。
「ザック様。今日、この記念すべき日に……お別れをさせてください」
その瞬間、部屋の中の空気が凍りついた。
銀食器が触れ合う微かな音さえ消え、完全な静寂が支配する。
「……今、なんて言ったんだい?」
ザックの声は、低く、どこか抑揚を欠いていた。さっきまでの爽やかな響きが、嘘のように消えている。
「私、気づいてしまったんです。ザック様には、他に心に決めた方がいらっしゃること。カレン様とのことも、その……伺いました。私のような女が、ザック様の隣にいるのは、もう限界なんです」
私は一気に捲し立てた。
本当は、彼を責めたかったわけではない。ただ、「知っているから、もう無理をしなくていいですよ」と伝えたかっただけなのに。
「カレン? ……ああ、あのアホな女のことか。それが、僕たちのお別れに関係あると?」
ザックの口から出た「アホな女」という過激な言葉に、私は目を見開いた。そんな乱暴な言葉、彼から一度も聞いたことがない。
混乱する頭で、私はそれでも立ち上がった。今、ここで彼の顔をまともに見てしまったら、すべてが嘘だと言ってしまいそうだったから。
「もう、いいんです。カレン様は本当にお美しい方でした。写真を見て、納得してしまったんです。……ザック様、今までありがとうございました。貴方の幸せを、心から願っています」
「待て、アン。話は終わっていない。写真って何のことだ。どこでそれを見た」
椅子を蹴るような勢いでザックが立ち上がる。その迫力に気圧されそうになりながらも、私は必死で出口へ向かった。
「手帳を見ました! ごめんなさい、勝手に見て……でも、あんなものを持っていたら、私がどんな気持ちになるか、ザック様なら分かりますよね!?」
最後は、叫ぶようだった。
涙が溢れそうになるのを堪え、私は扉を強く開けた。
「アン! 待てと言っているだろう!」
背後から追いかけてくる足音が聞こえる。でも、今の私には彼に捕まる勇気がない。
レストランの階段を駆け下り、待たせていた馬車に飛び乗る。
「出して! 早く!」
御者に急かし、馬車が動き出す。窓の外を振り返ると、レストランの入り口に立つザックの姿が見えた。
街灯の下、夜の闇に紛れた彼の表情は、ここからではよく見えない。
ただ、一つだけ。
いつも優しく細められていた彼の瞳が、見たこともないほど鋭く、そして狂気すら孕んだ光を宿して私を射抜いていたような気がした。
「……これでいいのよ。これで……」
馬車の座席に崩れ落ち、私は声を殺して泣いた。
彼を解放してあげられた。彼はこれで、自分を責めることなく、本当に好きな人のところへ行けるはず。
……けれど、この時の私はまだ知らなかった。
彼にとって、あの写真は「未練」の象徴などではなく、ただの「不快なゴミ」でしかなかったことを。
そして、私という唯一の「癒やし」を失った彼が、どれほど恐ろしい本性を露わにするかということも。
翌朝、学園の私の机に、見たこともないほど大量の薔薇の花束と、一枚のカードが置かれていた。
そこには、ザックの署名とともに、ただ一言。
『逃げられると思わないで』
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