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氷の女官長と、再開された「苦行」
ドマイン先生が学園を去り、教室に「自由な思考」という風が吹き込み始めた頃。私には、もう一つの避けられぬ戦場が待っていた。
『王太子妃教育』。
それは、未来の国母となるべく課される、文字通りの「苦行」である。以前のエスメラルダは、この時間をエドワード殿下へ近づくためのステップだと信じ、慣れない礼儀作法や歴史学に四苦八苦しながら食らいついていた。しかし、その必死さは常に嘲笑の対象でしかなかった。
「……お久しぶりですわね、エスメラルダ様。学園での『お遊び』に夢中で、こちらを忘れてしまったのかと思っておりましたわ」
王城の一角、豪奢だが冷え冷えとした空気が漂う「白鳥の間」。
そこで私を待ち構えていたのは、教育係のヴィオレッタ伯爵夫人だった。彼女は扇をパチンと閉じ、柳のような細い体を揺らしながら、嫌味な笑みを浮かべた。
ヴィオレッタ夫人は、キャサリン・フォード公爵令嬢を擁するフォード公爵家の遠戚にあたる人物だ。彼女はキャサリンこそが未来の国母に相応しいと盲信しており、その目的を果たすためなら手段を選ばない。たとえ、彼女が次期宰相、チャールズ・デビットソン公爵令息の婚約者であったとしてもだ。
以前からエスメラルダの些細な失態を針小棒大に膨らませては王妃殿下へ報告し、彼女を王太子妃の座から引きずり下ろそうと画策してきた、いわば「天敵」である。
「ご機嫌よう、ヴィオレッタ夫人。学園での日々は、わたくしにとって非常に有意義な『学び』の場でしたわ。本日も、よろしくお願いいたします」
私が優雅にカーテシーを捧げると、夫人の眉がピクリと跳ねた。
以前なら「よろしくね」と金切り声を上げ、ドレスの裾を乱していたはずの私が、あまりにも自然に、そして淀みなく礼をこなしたからだ。
「……ふん。形だけは覚えたようですわね。ですが、妃教育はそんなに甘いものではありませんわよ」
夫人が机に叩きつけたのは、厚さ五センチはあろうかという羊皮紙の束だった。
「本日の課題です。これまでの遅れを取り戻していただきますわ。三時間で王国の法典を暗記し、その後の二時間で周辺諸国の外交儀礼に関するレポートを提出。最後の一時間で、歴代王妃の家系図を完璧に書き写していただきます。……もちろん、一文字の誤字も、文字の乱れも許しませんわ」
それは、明らかに嫌がらせであった。
物理的に不可能なスケジュールを突きつけ、私が音を上げるのを手ぐすね引いて待っているのだ。あるいは、期待通りに私が癇癪を起こせば、それを「妃としての品格に欠ける」と報告する腹積もりなのだろう。
(……三時間で暗記? 二時間でレポート?)
私は心の中で、かつての教え子たちに課した中間試験の難易度と比較した。
(いいわ。前世で、徹夜で学習指導要案を書き、並行して重すぎる校務分掌を片付けてきた私をナメないでちょうだい。この程度の分量、タスク管理を最適化して脳内のマルチタスクをフル回転させれば、お茶の子さいさいだわ!)
私は不敵な笑みを隠し、静かにペンを取った。
「承知いたしました。では、始めさせていただきますわ」
迷いのない私の返答に、ヴィオレッタ夫人は鼻で笑い、部屋の隅へと下がった。
しかし、彼女はまだ気づいていない。今の私には、前世の教師時代に培った「締め切り直前の超集中力《ゾーンに入る未知数》」と、公爵令嬢としての高い基礎教養が、魔力のように混ざり合っていることに。
――スタート。
まずは法典の暗記。私はただ文字を追うのではない。脳内に「検索インデックス」を構築するように、法体系を構造化して視覚的に保存していく。これぞ、現代の効率的学習法と、令嬢の並外れた記憶力が生んだ知のチートだ。
ペン先が紙の上を滑る。
カリカリ、と規則正しい音だけが室内に響く。
そこには、今回の教育を監督するために、もう一人の人物が控えていた。
女官長、カサンドラ。
王妃殿下の右腕であり、この城で最も厳しい審美眼を持つと言われる女性だ。彼女は表情一つ変えず、眼鏡の奥の鋭い瞳で、私の挙動を監視していた。
ヴィオレッタ夫人は、隣に控えるカサンドラへ聞こえるように、扇で口元を隠しながら勝ち誇ったように囁いた。
「女官長、見ていてくださいな。エスメラルダ様なら、三十分もしないうちに泣き言を言って投げ出しますわよ」
しかし、カサンドラの視線は、ヴィオレッタ夫人の言葉を通り越し、私の「手元」に釘付けになっていた。
私のペン先は、まるで魔法にかけられたかのように滑らかに、そして驚異的な速度で紙の上を走っていた。法典の内容を脳内で構造化し、キーワードを抽出して整理していく。それは「暗記」ではなく、法学というシステムの「理解」だった。
一時間、二時間と時が過ぎる。
通常なら、極度の集中と過酷な姿勢維持に、令嬢の体力は尽きるはずだ。だが、私の背筋は定規を当てたように美しく、呼吸は一定で、ペンを走らせる音だけが室内に心地よく響いている。
「な……なぜ、手が止まらないの……?」
焦り始めたのはヴィオレッタ夫人の方だった。
彼女は私の背後に回り込み、書き上げられた書類を覗き込んだ。そして、その顔が驚愕に染まる。
そこにあったのは、単なる書き写しではない。
王国の法律の矛盾点を指摘し、現代の経済状況に合わせた改善案までもが、美しい筆致で添えられた「完璧な論文」だったのだ。
部屋の空気が、じりじりと熱を帯び始める。
冷徹な女官長カサンドラの瞳に、初めて微かな「光」が宿った。
____________
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『王太子妃教育』。
それは、未来の国母となるべく課される、文字通りの「苦行」である。以前のエスメラルダは、この時間をエドワード殿下へ近づくためのステップだと信じ、慣れない礼儀作法や歴史学に四苦八苦しながら食らいついていた。しかし、その必死さは常に嘲笑の対象でしかなかった。
「……お久しぶりですわね、エスメラルダ様。学園での『お遊び』に夢中で、こちらを忘れてしまったのかと思っておりましたわ」
王城の一角、豪奢だが冷え冷えとした空気が漂う「白鳥の間」。
そこで私を待ち構えていたのは、教育係のヴィオレッタ伯爵夫人だった。彼女は扇をパチンと閉じ、柳のような細い体を揺らしながら、嫌味な笑みを浮かべた。
ヴィオレッタ夫人は、キャサリン・フォード公爵令嬢を擁するフォード公爵家の遠戚にあたる人物だ。彼女はキャサリンこそが未来の国母に相応しいと盲信しており、その目的を果たすためなら手段を選ばない。たとえ、彼女が次期宰相、チャールズ・デビットソン公爵令息の婚約者であったとしてもだ。
以前からエスメラルダの些細な失態を針小棒大に膨らませては王妃殿下へ報告し、彼女を王太子妃の座から引きずり下ろそうと画策してきた、いわば「天敵」である。
「ご機嫌よう、ヴィオレッタ夫人。学園での日々は、わたくしにとって非常に有意義な『学び』の場でしたわ。本日も、よろしくお願いいたします」
私が優雅にカーテシーを捧げると、夫人の眉がピクリと跳ねた。
以前なら「よろしくね」と金切り声を上げ、ドレスの裾を乱していたはずの私が、あまりにも自然に、そして淀みなく礼をこなしたからだ。
「……ふん。形だけは覚えたようですわね。ですが、妃教育はそんなに甘いものではありませんわよ」
夫人が机に叩きつけたのは、厚さ五センチはあろうかという羊皮紙の束だった。
「本日の課題です。これまでの遅れを取り戻していただきますわ。三時間で王国の法典を暗記し、その後の二時間で周辺諸国の外交儀礼に関するレポートを提出。最後の一時間で、歴代王妃の家系図を完璧に書き写していただきます。……もちろん、一文字の誤字も、文字の乱れも許しませんわ」
それは、明らかに嫌がらせであった。
物理的に不可能なスケジュールを突きつけ、私が音を上げるのを手ぐすね引いて待っているのだ。あるいは、期待通りに私が癇癪を起こせば、それを「妃としての品格に欠ける」と報告する腹積もりなのだろう。
(……三時間で暗記? 二時間でレポート?)
私は心の中で、かつての教え子たちに課した中間試験の難易度と比較した。
(いいわ。前世で、徹夜で学習指導要案を書き、並行して重すぎる校務分掌を片付けてきた私をナメないでちょうだい。この程度の分量、タスク管理を最適化して脳内のマルチタスクをフル回転させれば、お茶の子さいさいだわ!)
私は不敵な笑みを隠し、静かにペンを取った。
「承知いたしました。では、始めさせていただきますわ」
迷いのない私の返答に、ヴィオレッタ夫人は鼻で笑い、部屋の隅へと下がった。
しかし、彼女はまだ気づいていない。今の私には、前世の教師時代に培った「締め切り直前の超集中力《ゾーンに入る未知数》」と、公爵令嬢としての高い基礎教養が、魔力のように混ざり合っていることに。
――スタート。
まずは法典の暗記。私はただ文字を追うのではない。脳内に「検索インデックス」を構築するように、法体系を構造化して視覚的に保存していく。これぞ、現代の効率的学習法と、令嬢の並外れた記憶力が生んだ知のチートだ。
ペン先が紙の上を滑る。
カリカリ、と規則正しい音だけが室内に響く。
そこには、今回の教育を監督するために、もう一人の人物が控えていた。
女官長、カサンドラ。
王妃殿下の右腕であり、この城で最も厳しい審美眼を持つと言われる女性だ。彼女は表情一つ変えず、眼鏡の奥の鋭い瞳で、私の挙動を監視していた。
ヴィオレッタ夫人は、隣に控えるカサンドラへ聞こえるように、扇で口元を隠しながら勝ち誇ったように囁いた。
「女官長、見ていてくださいな。エスメラルダ様なら、三十分もしないうちに泣き言を言って投げ出しますわよ」
しかし、カサンドラの視線は、ヴィオレッタ夫人の言葉を通り越し、私の「手元」に釘付けになっていた。
私のペン先は、まるで魔法にかけられたかのように滑らかに、そして驚異的な速度で紙の上を走っていた。法典の内容を脳内で構造化し、キーワードを抽出して整理していく。それは「暗記」ではなく、法学というシステムの「理解」だった。
一時間、二時間と時が過ぎる。
通常なら、極度の集中と過酷な姿勢維持に、令嬢の体力は尽きるはずだ。だが、私の背筋は定規を当てたように美しく、呼吸は一定で、ペンを走らせる音だけが室内に心地よく響いている。
「な……なぜ、手が止まらないの……?」
焦り始めたのはヴィオレッタ夫人の方だった。
彼女は私の背後に回り込み、書き上げられた書類を覗き込んだ。そして、その顔が驚愕に染まる。
そこにあったのは、単なる書き写しではない。
王国の法律の矛盾点を指摘し、現代の経済状況に合わせた改善案までもが、美しい筆致で添えられた「完璧な論文」だったのだ。
部屋の空気が、じりじりと熱を帯び始める。
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