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独りの夜と、甘い誘惑
季節が冬へと移ろい始めた頃、オッティ子爵邸を予期せぬ不運が襲った。
流行病の熱が、幼い二人を同時に襲ったのである。まず長男のスティーブが熱を出し、その二日後にはまだ体の小さなジェニファーが、真っ赤な顔をして激しく咳き込み始めた。
「お母様、熱いよ……」
「ジェニファー!大丈夫よ。お母様がここにいるわ」
メラニアは、不眠不休で子供たちの看病に当たった。乳母や侍女たちも手伝ってくれたが、子供たちは熱に浮かされながら「お母様、お母様」と、メラニアの手を離そうとしなかった。
夜中、咳き込む子供の背をさすりながら、メラニアは幾度となく、不在の夫の名前を心の中で呼びかけた。
(ジュリアン、助けて……怖いのです。もし、この子たちに何かあったら……)
かつて、死の淵を彷徨ったあの出産。あの時、ジュリアンが泣きながら手を握ってくれたから、自分は戻ってこられた。今の自分を支えているのは、彼に「命を大切にしてほしい」と懇願された、あの誓いだけだった。
明け方、ようやく子供たちが眠りについた時、メラニアは引き出しから彼の手紙を取り出した。
『君は僕の光だ。君がいるから、僕はどんな困難も乗り越えられる』
その文字を指先でなぞる。彼も今、異国で自分と同じように寂しさと戦い、家族を想っているのだ。そう思うだけで、折れそうな心に再び力が宿る。
「……頑張らなくては。私は、あなたの誇り高き妻なのだから」
メラニアは涙を拭い、再び子供たちの寝顔へと向き合った。彼が帰ってきた時に、健やかに成長した子供たちを見せること。それが彼女に課せられた聖なる任務であるかのように、メラニアは自分自身を追い込んでいった。
その頃、隣国の宿舎。本国からの知らせを待つまでもなく、ジュリアンの日常は、マルタという新しい色彩に塗り替えられつつあった。
マルタ・クラインは、有能だった。
没落寸前の男爵家で培われた「生き抜くための狡猾さ」を、彼女は「健気なあどけなさ」という衣で包み込み、ジュリアンの懐へと滑り込ませていた。
彼女は、ジュリアンが決して口に出さない不満――メラニアを聖域化したことで生じた、男としての飢え――を敏感に察知していた。
「ジュリアン様、また奥様へのお手紙ですか?」
他の職員が帰った夕方、残務で机に向かうジュリアンの背後に、マルタが夕食のトレイを持って現れた。
「ああ。少しでも早く、彼女を安心させてやりたいんだが……最近、何を書いても同じような内容になってしまう気がしてね」
ジュリアンは自嘲気味に笑い、ペンを置いた。
メラニアへの手紙は、今や彼にとって「義務」になりつつあった。愛している。大切に思っている。だが、変化のない「理想の妻」へ贈る言葉は、書けば書くほど虚ろに響いた。
マルタは彼の肩に、そっと小さな手を置いた。
「それは、ジュリアン様が奥様をあまりに尊いものだと思いすぎているからですわ。愛の言葉とは、もっと……泥臭く、形のないものであるべきですのに」
「泥臭い……?」
「ええ。例えば、このように……」
マルタはジュリアンの手からペンを抜き取ると、余白にサラサラと詩のような一節を書き記した。
それは、メラニアが好む高潔なものではなく、もっと瑞々しく、読んだ者の肌が火照るような、秘めやかな情愛の言葉だった。
「……こんな言葉、僕には書けない」
「私がお手伝いしましょうか? ジュリアン様が想っていることを、私が代わりに『奥様が喜ぶ言葉』に整えて差し上げますわ。そうすれば、ジュリアン様はもっとお仕事に集中できますし、奥様も、より深い愛を感じて幸せになれます。筆跡は真似できませんので、ジュリアン様が清書と署名をしてお送りくださいー」
それは、禁断の果実だった。ジュリアンは一瞬、戸惑った。妻への愛の手紙を他人に書かせるなど。だが、隣で微笑むマルタの茶色の瞳は、どこまでも無垢で、「あなたの助けになりたい」と訴えていた。
「……頼んでも、いいだろうか」
「はい、喜んで。ジュリアン様」
その夜を境に、二人の距離は急速に縮まった。
手紙の文面を相談するという名目で、二人の時間は増えていった。マルタは、ジュリアンがメラニアには決して見せない「男としての弱音」を引き出し、それを全肯定して包み込んだ。
「奥様は完璧すぎて、ジュリアン様がお疲れであることを理解できないのでしょうね。お可哀想に……。私なら、もっとあなたの心を自由にして差し上げられるのに」
マルタの言葉は、甘い毒のようにジュリアンの心に浸透していった。「子供たちの母親」であるメラニアには見せられない醜い自分を、マルタは愛してくれる。
次第に、ジュリアンの手はメラニアへの手紙を綴るためではなく、マルタの赤毛に触れるために動くようになっていった。
数日後。ようやく熱が下がり、眠りについた子供たちの傍らで、メラニアは届いたばかりの手紙を開封した。
そこには、今まで以上に情熱的で、胸を締め付けるような愛の告白が並んでいた。
「ああ……ジュリアン。あなたがこんなに私を求めてくれている。私も、あなたに会いたい……」
メラニアは、愛する夫の文字を指でなぞり、手紙を抱きしめて静かに涙を流した。
彼女が縋り付いているその言葉が、今まさに、夫が別の女の腰を抱き寄せながら「これくらい書けばいいか」と笑って承諾したものだとも知らずに。
家族のためにと、身を削って孤独に耐えるメラニア。
家族のためという免罪符を使い、安易な快楽に身を投じるジュリアン。
二人の心は、海よりも深い絶望の溝で、分かたれようとしていた。
__________
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流行病の熱が、幼い二人を同時に襲ったのである。まず長男のスティーブが熱を出し、その二日後にはまだ体の小さなジェニファーが、真っ赤な顔をして激しく咳き込み始めた。
「お母様、熱いよ……」
「ジェニファー!大丈夫よ。お母様がここにいるわ」
メラニアは、不眠不休で子供たちの看病に当たった。乳母や侍女たちも手伝ってくれたが、子供たちは熱に浮かされながら「お母様、お母様」と、メラニアの手を離そうとしなかった。
夜中、咳き込む子供の背をさすりながら、メラニアは幾度となく、不在の夫の名前を心の中で呼びかけた。
(ジュリアン、助けて……怖いのです。もし、この子たちに何かあったら……)
かつて、死の淵を彷徨ったあの出産。あの時、ジュリアンが泣きながら手を握ってくれたから、自分は戻ってこられた。今の自分を支えているのは、彼に「命を大切にしてほしい」と懇願された、あの誓いだけだった。
明け方、ようやく子供たちが眠りについた時、メラニアは引き出しから彼の手紙を取り出した。
『君は僕の光だ。君がいるから、僕はどんな困難も乗り越えられる』
その文字を指先でなぞる。彼も今、異国で自分と同じように寂しさと戦い、家族を想っているのだ。そう思うだけで、折れそうな心に再び力が宿る。
「……頑張らなくては。私は、あなたの誇り高き妻なのだから」
メラニアは涙を拭い、再び子供たちの寝顔へと向き合った。彼が帰ってきた時に、健やかに成長した子供たちを見せること。それが彼女に課せられた聖なる任務であるかのように、メラニアは自分自身を追い込んでいった。
その頃、隣国の宿舎。本国からの知らせを待つまでもなく、ジュリアンの日常は、マルタという新しい色彩に塗り替えられつつあった。
マルタ・クラインは、有能だった。
没落寸前の男爵家で培われた「生き抜くための狡猾さ」を、彼女は「健気なあどけなさ」という衣で包み込み、ジュリアンの懐へと滑り込ませていた。
彼女は、ジュリアンが決して口に出さない不満――メラニアを聖域化したことで生じた、男としての飢え――を敏感に察知していた。
「ジュリアン様、また奥様へのお手紙ですか?」
他の職員が帰った夕方、残務で机に向かうジュリアンの背後に、マルタが夕食のトレイを持って現れた。
「ああ。少しでも早く、彼女を安心させてやりたいんだが……最近、何を書いても同じような内容になってしまう気がしてね」
ジュリアンは自嘲気味に笑い、ペンを置いた。
メラニアへの手紙は、今や彼にとって「義務」になりつつあった。愛している。大切に思っている。だが、変化のない「理想の妻」へ贈る言葉は、書けば書くほど虚ろに響いた。
マルタは彼の肩に、そっと小さな手を置いた。
「それは、ジュリアン様が奥様をあまりに尊いものだと思いすぎているからですわ。愛の言葉とは、もっと……泥臭く、形のないものであるべきですのに」
「泥臭い……?」
「ええ。例えば、このように……」
マルタはジュリアンの手からペンを抜き取ると、余白にサラサラと詩のような一節を書き記した。
それは、メラニアが好む高潔なものではなく、もっと瑞々しく、読んだ者の肌が火照るような、秘めやかな情愛の言葉だった。
「……こんな言葉、僕には書けない」
「私がお手伝いしましょうか? ジュリアン様が想っていることを、私が代わりに『奥様が喜ぶ言葉』に整えて差し上げますわ。そうすれば、ジュリアン様はもっとお仕事に集中できますし、奥様も、より深い愛を感じて幸せになれます。筆跡は真似できませんので、ジュリアン様が清書と署名をしてお送りくださいー」
それは、禁断の果実だった。ジュリアンは一瞬、戸惑った。妻への愛の手紙を他人に書かせるなど。だが、隣で微笑むマルタの茶色の瞳は、どこまでも無垢で、「あなたの助けになりたい」と訴えていた。
「……頼んでも、いいだろうか」
「はい、喜んで。ジュリアン様」
その夜を境に、二人の距離は急速に縮まった。
手紙の文面を相談するという名目で、二人の時間は増えていった。マルタは、ジュリアンがメラニアには決して見せない「男としての弱音」を引き出し、それを全肯定して包み込んだ。
「奥様は完璧すぎて、ジュリアン様がお疲れであることを理解できないのでしょうね。お可哀想に……。私なら、もっとあなたの心を自由にして差し上げられるのに」
マルタの言葉は、甘い毒のようにジュリアンの心に浸透していった。「子供たちの母親」であるメラニアには見せられない醜い自分を、マルタは愛してくれる。
次第に、ジュリアンの手はメラニアへの手紙を綴るためではなく、マルタの赤毛に触れるために動くようになっていった。
数日後。ようやく熱が下がり、眠りについた子供たちの傍らで、メラニアは届いたばかりの手紙を開封した。
そこには、今まで以上に情熱的で、胸を締め付けるような愛の告白が並んでいた。
「ああ……ジュリアン。あなたがこんなに私を求めてくれている。私も、あなたに会いたい……」
メラニアは、愛する夫の文字を指でなぞり、手紙を抱きしめて静かに涙を流した。
彼女が縋り付いているその言葉が、今まさに、夫が別の女の腰を抱き寄せながら「これくらい書けばいいか」と笑って承諾したものだとも知らずに。
家族のためにと、身を削って孤独に耐えるメラニア。
家族のためという免罪符を使い、安易な快楽に身を投じるジュリアン。
二人の心は、海よりも深い絶望の溝で、分かたれようとしていた。
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