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転落したクロエ・ダグラス伯爵令嬢 〜二十歳のバレンタインに拾われて、裏通りの母になります〜
泥にまみれた指先
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夜明け前の、薄暗い裏通りの朝は早い。
クロエが渡されたのは、冷たい水がなみなみと注がれた鉄のバケツと、使い古されて毛羽立った麻の雑巾、そして柄の短いブラシだった。
「……っ、冷たい……!」
洗濯場に溜められた水に手を入れた瞬間、刺すような痛みが走る。二月という季節は、この裏通りの底冷えをさらに過酷なものにしていた。かつては香油で丹念に手入れされ、絹の手袋に守られていたクロエの指先が、見る間に赤紫に変色していく。
「いつまで突っ立ってるんだい、お嬢様。日が昇るまでに娼婦たちのシーツを全部洗い終えなきゃ、あんたの朝食は抜きだよ」
背後から声をかけたのは、娼婦の一人、マーサだった。彼女は二十歳そこそこのはずだが、その肌は白粉で荒れ、瞳には隠しきれない生活の疲れが滲んでいる。彼女たちは皆、夜通し客の相手をし、ようやく眠りにつく時間なのだ。
「分かっているわよ……言われなくても!」
クロエは反反するように言い返し、石鹸を泡立ててシーツに擦りつけた。だが、やり方を知らない。力を入れすぎれば布が傷み、入れなければ汚れは落ちない。苛立ちに任せてゴシゴシと擦るうちに、爪の間から血が滲み、泡が赤く染まった。
「ふん、無様だねぇ」
通りがかった別の女たちが、クスクスと笑いながら通り過ぎる。
「見てよ、あの手。あんなに白くて細い指で何ができるのかしら。男を誘惑することしか知らなかったツケが回ってきたのよ」
「自業自得よね。お貴族様なんてバチが当たったのよ」
クロエは耳を塞ぎたかった。かつて自分が「地味だ」「無能だ」と嘲笑っていた平民たち。
(……うるさい。うるさいわよ……!)
涙が溢れそうになるのを、クロエは必死に堪えた。ここで泣けば、本当に負けたことになる。
洗濯が終われば、次は「便所掃除」だった。
鼻を突く悪臭。こびりついた汚れ。かつての彼女なら、その場に立っているだけで失神していただろう。だが、今の彼女には逃げ場がない。
「……おえっ……」
何度もえずき、胃液を吐きそうになりながらも、彼女はブラシを動かした。
屈辱だった。自分がかつて「汚らわしい」と見下していた世界の、さらに底に自分がいる。自分が磨いているこの床は、かつての自分が軽蔑していた男たちが歩いた場所なのだ。
「おい、まだ終わってねえのか」
不意に頭上から声が降りてきた。
バケツの取っ手に寄りかかって座り込んでいたクロエが顔を上げると、そこにはザッシュが立っていた。相変わらず、三白眼で何を考えているか分からない男だ。
「……見ての通りよ。腰が限界なの。指も動かないわ……」
「そうかよ。だがな、お前のその汚れは、石鹸じゃ落ちねえぞ」
ザッシュはしゃがみ込み、クロエの真っ赤に腫れた指先を、大きな、タコだらけの掌で無造作に掴んだ。
「ひゃっ……! 何するのよ!」
「お前が今まで握っていたのは、他人の情けと、他人の財布だけだ。だから、自分の手が汚れるのを異常に怖がる。……いいか、お嬢。この裏通りで生きていくなら、自分の汚れは自分で引き受けろ。他人に洗ってもらおうと思うな」
ザッシュはそう言うと、懐から小さなくしゃくしゃになった紙包みを取り出し、クロエの膝に放り投げた。
「……何、これ」
「安物の薬草だ。塗っておけ。お前のその『綺麗な手』が、ただの『働く女の手』に変わるまで、その痛みは消えねえよ」
ザッシュはそれだけ言うと、背を向けて立ち去った。
クロエは残された紙包みを開けた。中には、独特の苦い匂いがする緑色の軟膏が入っていた。それを指先に塗ると、不思議とズキズキとした痛みが和らぎ、代わりに心地よい熱が広がった。
(……なによ、偉そうに……)
けれど、クロエの目から、今度は我慢していた涙がポロリとこぼれ落ちた。
誰かに心配されたことなんて、何年ぶりだろうか。男たちは自分を「華」として扱い、父は自分を「商品」として扱った。誰も、自分の「指先の痛み」なんて見てくれなかった。
掃除を終え、疲れ果てて厨房へ向かうと、ロザリンがいた。彼女はクロエに、一切れの硬いパンと、具のほとんどない薄いスープを差し出した。
「お疲れさん。全部やり遂げたようだね」
「……ええ。死ぬかと思ったわ」
「死にゃしないよ。人間は、思っているよりしぶといもんさ。特に、あんたみたいに業の深い女はね」
ロザリンは煙管をふかし、窓の外の暗い空を見上げた。
「あんたが捨てられた二月十四日から、もう三日が経った。王都じゃ、バレンタインの浮かれ気分も消えちまったよ。……さあ、食べな。明日も早いよ」
クロエは、泥のように疲れた身体で、その硬いパンを齧った。
これまでの人生で食べてきたどんな豪華なコース料理よりも、そのパンは噛み締めるほどに味がした。自分の「労働」で手に入れた、最初の食事。
パンを飲み込む時、喉の奥が熱くなった。それは空腹が満たされる喜びだけではない。
自分の中にあった「伯爵令嬢」という名の空虚な殻が、メキメキと音を立てて崩れ、代わりに「クロエ」という一人の女の、泥臭い自我が芽吹こうとしている音だった。
(……負けない。エレナ、貴女にだけは……そして、私を捨てたあの男にだけは……!)
彼女の瞳に、再び強い光が宿る。それは華やかさではなく、暗闇の中で静かに燃える、残り火のような青い光だった。
泥にまみれたその手で、彼女は今、自分の運命という名の雑巾を、力強く絞り始めていた。
______________
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クロエが渡されたのは、冷たい水がなみなみと注がれた鉄のバケツと、使い古されて毛羽立った麻の雑巾、そして柄の短いブラシだった。
「……っ、冷たい……!」
洗濯場に溜められた水に手を入れた瞬間、刺すような痛みが走る。二月という季節は、この裏通りの底冷えをさらに過酷なものにしていた。かつては香油で丹念に手入れされ、絹の手袋に守られていたクロエの指先が、見る間に赤紫に変色していく。
「いつまで突っ立ってるんだい、お嬢様。日が昇るまでに娼婦たちのシーツを全部洗い終えなきゃ、あんたの朝食は抜きだよ」
背後から声をかけたのは、娼婦の一人、マーサだった。彼女は二十歳そこそこのはずだが、その肌は白粉で荒れ、瞳には隠しきれない生活の疲れが滲んでいる。彼女たちは皆、夜通し客の相手をし、ようやく眠りにつく時間なのだ。
「分かっているわよ……言われなくても!」
クロエは反反するように言い返し、石鹸を泡立ててシーツに擦りつけた。だが、やり方を知らない。力を入れすぎれば布が傷み、入れなければ汚れは落ちない。苛立ちに任せてゴシゴシと擦るうちに、爪の間から血が滲み、泡が赤く染まった。
「ふん、無様だねぇ」
通りがかった別の女たちが、クスクスと笑いながら通り過ぎる。
「見てよ、あの手。あんなに白くて細い指で何ができるのかしら。男を誘惑することしか知らなかったツケが回ってきたのよ」
「自業自得よね。お貴族様なんてバチが当たったのよ」
クロエは耳を塞ぎたかった。かつて自分が「地味だ」「無能だ」と嘲笑っていた平民たち。
(……うるさい。うるさいわよ……!)
涙が溢れそうになるのを、クロエは必死に堪えた。ここで泣けば、本当に負けたことになる。
洗濯が終われば、次は「便所掃除」だった。
鼻を突く悪臭。こびりついた汚れ。かつての彼女なら、その場に立っているだけで失神していただろう。だが、今の彼女には逃げ場がない。
「……おえっ……」
何度もえずき、胃液を吐きそうになりながらも、彼女はブラシを動かした。
屈辱だった。自分がかつて「汚らわしい」と見下していた世界の、さらに底に自分がいる。自分が磨いているこの床は、かつての自分が軽蔑していた男たちが歩いた場所なのだ。
「おい、まだ終わってねえのか」
不意に頭上から声が降りてきた。
バケツの取っ手に寄りかかって座り込んでいたクロエが顔を上げると、そこにはザッシュが立っていた。相変わらず、三白眼で何を考えているか分からない男だ。
「……見ての通りよ。腰が限界なの。指も動かないわ……」
「そうかよ。だがな、お前のその汚れは、石鹸じゃ落ちねえぞ」
ザッシュはしゃがみ込み、クロエの真っ赤に腫れた指先を、大きな、タコだらけの掌で無造作に掴んだ。
「ひゃっ……! 何するのよ!」
「お前が今まで握っていたのは、他人の情けと、他人の財布だけだ。だから、自分の手が汚れるのを異常に怖がる。……いいか、お嬢。この裏通りで生きていくなら、自分の汚れは自分で引き受けろ。他人に洗ってもらおうと思うな」
ザッシュはそう言うと、懐から小さなくしゃくしゃになった紙包みを取り出し、クロエの膝に放り投げた。
「……何、これ」
「安物の薬草だ。塗っておけ。お前のその『綺麗な手』が、ただの『働く女の手』に変わるまで、その痛みは消えねえよ」
ザッシュはそれだけ言うと、背を向けて立ち去った。
クロエは残された紙包みを開けた。中には、独特の苦い匂いがする緑色の軟膏が入っていた。それを指先に塗ると、不思議とズキズキとした痛みが和らぎ、代わりに心地よい熱が広がった。
(……なによ、偉そうに……)
けれど、クロエの目から、今度は我慢していた涙がポロリとこぼれ落ちた。
誰かに心配されたことなんて、何年ぶりだろうか。男たちは自分を「華」として扱い、父は自分を「商品」として扱った。誰も、自分の「指先の痛み」なんて見てくれなかった。
掃除を終え、疲れ果てて厨房へ向かうと、ロザリンがいた。彼女はクロエに、一切れの硬いパンと、具のほとんどない薄いスープを差し出した。
「お疲れさん。全部やり遂げたようだね」
「……ええ。死ぬかと思ったわ」
「死にゃしないよ。人間は、思っているよりしぶといもんさ。特に、あんたみたいに業の深い女はね」
ロザリンは煙管をふかし、窓の外の暗い空を見上げた。
「あんたが捨てられた二月十四日から、もう三日が経った。王都じゃ、バレンタインの浮かれ気分も消えちまったよ。……さあ、食べな。明日も早いよ」
クロエは、泥のように疲れた身体で、その硬いパンを齧った。
これまでの人生で食べてきたどんな豪華なコース料理よりも、そのパンは噛み締めるほどに味がした。自分の「労働」で手に入れた、最初の食事。
パンを飲み込む時、喉の奥が熱くなった。それは空腹が満たされる喜びだけではない。
自分の中にあった「伯爵令嬢」という名の空虚な殻が、メキメキと音を立てて崩れ、代わりに「クロエ」という一人の女の、泥臭い自我が芽吹こうとしている音だった。
(……負けない。エレナ、貴女にだけは……そして、私を捨てたあの男にだけは……!)
彼女の瞳に、再び強い光が宿る。それは華やかさではなく、暗闇の中で静かに燃える、残り火のような青い光だった。
泥にまみれたその手で、彼女は今、自分の運命という名の雑巾を、力強く絞り始めていた。
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