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転落したクロエ・ダグラス伯爵令嬢 〜二十歳のバレンタインに拾われて、裏通りの母になります〜
宵闇の止まり木
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ザッシュの背中に担がれ、意識を失ったクロエが目を覚ましたのは、窓一つない小部屋だった。
鼻を突くのは、安っぽい香水の匂いと、微かな酒の残り香。そして、古い木材が湿気を含んだような、裏通り独特の重苦しい空気だ。
「……っ、……ここは?」
身体を動かそうとして、クロエは短い悲鳴を上げた。指の先から足の甲まで、全身が焼け付くように痛む。泥まみれだった身体は、いつの間にか簡素な寝巻きに着せ替えられ、ガサガサとした手触りの毛布が掛けられていた。
「目が覚めたかい。泥人形のお嬢さん」
部屋の隅、影の中から声がした。
そこには、赤いビロードの椅子に深く腰掛け、紫の煙管をくゆらす一人の女性がいた。
豊かな胸元を露にした深紅のドレスを纏い、目元には濃い化粧を施している。その年齢を推し量ることは難しいが、醸し出される威圧感は、かつてクロエが社交界で出会ったどの公爵夫人よりも凄まじいものだった。
「貴女は……? 私は……」
女性は紫煙を吐き出し、氷のような眼差しでクロエを射抜いた。
「ここは娼館『宵闇の止まり木』。そして私はここの元締め、ロザリンだ。ザッシュが野良犬でも拾ってきたかと思えば、まさか『人間の娘』だったとはね。……笑わせないでおくれ」
クロエは弾かれたように起き上がろうとしたが、体力が続かずベッドに倒れ込んだ。
「ロザリン……? あ、貴女、不敬よ! 私はダグラス伯爵家のクロエ・ダグラスよ! すぐに家へ連絡しなさい! 謝礼なら……っ」
「連絡? どこの家へだい?」
ロザリンは椅子から立ち上がり、ゆっくりとクロエに歩み寄った。彼女の手には、汚れた新聞の切り抜きが握られていた。
「あんたの父親、ダグラス伯爵は一昨日、正式に『娘は病死した』と届け出たよ。今のあんたは、戸籍の上でもこの世に存在しない亡霊だ。ダグラス伯爵家にあるのは、あんたが作った借金の山と、汚された家門の評判だけ。……あんたを迎えに来る馬車なんて、この世のどこにもないんだよ」
「……嘘。お父様が、そんなこと……」
クロエの顔から、みるみる血の気が引いていく。
自分を甘やかしてくれた父。何でも買い与えてくれた兄。彼らにとって、自分はもはや「死んだこと」にされた方が都合の良い恥さらしでしかない。
「鏡を見な。今のあんたが、なにに見えるか」
ロザリンが手鏡を突きつける。
そこに映っていたのは、頬がこけ、瞳の下に深い隈を作り、生気を失った一人の女だった。かつて「向日葵」と称えられた面影はどこにもない。ただの、惨めな敗残者の顔だ。
「貴族のご令嬢様は、わたしらの利益を掠め取って、それが無くなった途端に泥の中。……滑稽だと思わないかい?」
「黙りなさい……! 貴女のような身分の女に、何がわかるのよ!」
クロエが叫んだ瞬間、ロザリンの平手打ちが飛んだ。乾いた音が響き、クロエの顔が横を向く。
「……私の身分が何だって? 私はね、あんたと同じように家を潰され、親に売られた女だよ。ここでは『元令嬢』なんて肩書きは、ケツを拭く紙以下の価値しかないんだ。働かない奴に食わせるパンはない。死にたいなら勝手にしな。だが、ザッシュに『生きたい』と言ったなら、その報いを受けな」
ロザリンは煙管を置くと、部屋の隅にあるバケツと、使い古されたボロ雑巾をクロエの足元に放り投げた。
「明日から、裏の洗濯場と便所掃除をやりな。やり遂げたら、今日のスープ代を帳消しにしてやる。……一週間やり遂げたら、あんたをここで雇ってあげてもいい」
「……便所、掃除……? 私に、そんな、汚れ仕事を……?」
絶句するクロエの背後で、扉が音を立てて開いた。
そこには、壁に寄りかかって成り行きを見ていたザッシュが立っていた。
「おい、お嬢。まだ自分が伯爵家でふかふかのベッドに寝てる夢を見てるのか?」
ザッシュはニヒルな笑みを浮かべ、顎でバケツを指した。
「ここは地獄だ。だがな、自分の手で汚物を洗えるようになった奴だけが、まともな人間になれるんだぜ。……それとも、またあの雨の路地に戻るか?」
クロエは震える手で、足元のボロ雑巾を見つめた。
屈辱。怒り。絶望。
けれど、それ以上に「生きたい」と願ったあの瞬間の、心臓の熱い脈動が彼女を突き動かしていた。
「……やって、やるわよ。私が、こんなところで……終わるわけないじゃない……っ」
クロエは震える膝を叩き、ボロ雑巾を掴んだ。
その白かった指先に、初めて重いバケツの取っ手の感触が食い込む。
元伯爵令嬢、クロエ・ダグラス。二十歳のバレンタインの翌日。
彼女の「本当の戦い」は、華やかな王宮の舞踏会ではなく、異臭の漂う娼館の裏口から始まった。
______________
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鼻を突くのは、安っぽい香水の匂いと、微かな酒の残り香。そして、古い木材が湿気を含んだような、裏通り独特の重苦しい空気だ。
「……っ、……ここは?」
身体を動かそうとして、クロエは短い悲鳴を上げた。指の先から足の甲まで、全身が焼け付くように痛む。泥まみれだった身体は、いつの間にか簡素な寝巻きに着せ替えられ、ガサガサとした手触りの毛布が掛けられていた。
「目が覚めたかい。泥人形のお嬢さん」
部屋の隅、影の中から声がした。
そこには、赤いビロードの椅子に深く腰掛け、紫の煙管をくゆらす一人の女性がいた。
豊かな胸元を露にした深紅のドレスを纏い、目元には濃い化粧を施している。その年齢を推し量ることは難しいが、醸し出される威圧感は、かつてクロエが社交界で出会ったどの公爵夫人よりも凄まじいものだった。
「貴女は……? 私は……」
女性は紫煙を吐き出し、氷のような眼差しでクロエを射抜いた。
「ここは娼館『宵闇の止まり木』。そして私はここの元締め、ロザリンだ。ザッシュが野良犬でも拾ってきたかと思えば、まさか『人間の娘』だったとはね。……笑わせないでおくれ」
クロエは弾かれたように起き上がろうとしたが、体力が続かずベッドに倒れ込んだ。
「ロザリン……? あ、貴女、不敬よ! 私はダグラス伯爵家のクロエ・ダグラスよ! すぐに家へ連絡しなさい! 謝礼なら……っ」
「連絡? どこの家へだい?」
ロザリンは椅子から立ち上がり、ゆっくりとクロエに歩み寄った。彼女の手には、汚れた新聞の切り抜きが握られていた。
「あんたの父親、ダグラス伯爵は一昨日、正式に『娘は病死した』と届け出たよ。今のあんたは、戸籍の上でもこの世に存在しない亡霊だ。ダグラス伯爵家にあるのは、あんたが作った借金の山と、汚された家門の評判だけ。……あんたを迎えに来る馬車なんて、この世のどこにもないんだよ」
「……嘘。お父様が、そんなこと……」
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そこに映っていたのは、頬がこけ、瞳の下に深い隈を作り、生気を失った一人の女だった。かつて「向日葵」と称えられた面影はどこにもない。ただの、惨めな敗残者の顔だ。
「貴族のご令嬢様は、わたしらの利益を掠め取って、それが無くなった途端に泥の中。……滑稽だと思わないかい?」
「黙りなさい……! 貴女のような身分の女に、何がわかるのよ!」
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「……私の身分が何だって? 私はね、あんたと同じように家を潰され、親に売られた女だよ。ここでは『元令嬢』なんて肩書きは、ケツを拭く紙以下の価値しかないんだ。働かない奴に食わせるパンはない。死にたいなら勝手にしな。だが、ザッシュに『生きたい』と言ったなら、その報いを受けな」
ロザリンは煙管を置くと、部屋の隅にあるバケツと、使い古されたボロ雑巾をクロエの足元に放り投げた。
「明日から、裏の洗濯場と便所掃除をやりな。やり遂げたら、今日のスープ代を帳消しにしてやる。……一週間やり遂げたら、あんたをここで雇ってあげてもいい」
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