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転落したクロエ・ダグラス伯爵令嬢 〜二十歳のバレンタインに拾われて、裏通りの母になります〜
泥の中の再起 バレンタイデーの慟哭
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冷たい雨が、容赦なく王都の石畳を叩いていた。
二月十四日。かつては甘い香りと華やかな期待に胸を躍らせたはずのその日は、今やクロエ・ダグラスにとって、自身の人生が完全に終わったことを告げる命日となっていた。
裏路地のゴミ溜めに横たわるクロエの視界には、ぬかるんだ地面に踏みにじられた、数日前の新聞の端切れが映っていた。
『真実の愛、ここに結実。ローゼイ侯爵夫妻、辺境での輝かしい再起』
見出しの下には、かつての親友、エレナ・ヴィリアーズ――今はエレナ・ローゼイとなった女が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべてアルベルトの隣に立つ姿が描かれていた。
「……はは、……あはは……っ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
皮肉なものだった。エレナを「置物」と蔑み、アルベルトの愛を勝ち取ったと信じていた自分は、今や泥水を啜り、誰にも看取られず死のうとしている。一方で、地味で真面目だけが取り柄だと思っていたエレナは、自らの手で運命を切り開き、国中の尊敬を集める「聖女」のような存在になっている。
クロエが最後にアルベルトに会ったのは、一年前のバレンタインだった。
『君という女の浅ましさには反吐が出る。もう二度と、僕の前に現れないでくれ』
氷のような眼差しで告げられたその言葉を、彼女は今でも昨日のことのように思い出す。彼を追い出された後、実家の伯爵家は彼女を「家の恥」として廃嫡し、借金まみれの老貴族へ売り飛ばそうとした。そこから逃げ出し、転落し続け、行き着いた先がこの汚泥の中だった。
「……寒い。……お腹が、すいたわ……」
胃を掴まれるような空腹と、熱に浮かされた身体。もう、指先一つ動かす気力も残っていない。かつて自慢だった金の髪は泥にまみれて固まり、贅を尽くした指先は荒れ果てて黒ずんでいる。
(……ああ。ここで、終わるのね)
意識が遠のき、暗闇が視界を塗り潰そうとしたその時。
コツン、と。無骨な革靴の先が、汚泥に横たわるクロエの肩を小突いた。
「おい、女。生きてるか?」
低く、酒と煙草の匂いが混じったような、野性的な声だった。
クロエは重い瞼を、必死に押し上げる。
そこには、三白眼の、ひどく人相の悪い男が立っていた。頬には古い刀傷があり、無精髭を生やした顔は「やさぐれている」という言葉がこれ以上なく似合う。だが、その立ち姿には、ただの荒事師ではない、どこか鍛え上げられた武人の名残があった。
「……ぁ……」
「返事ができるならまだマシだが、その目は死んでるな。楽になりたいか?」
男――ザッシュは、腰に差した短刀の柄にゆっくりと手をかけた。
それは、裏通りで野垂れ死ぬ者への、この男なりの「慈悲」の形だった。苦しまずに、一突きで終わらせてやるという無言の宣告。
死。それを待ち望んでいたはずだった。けれど、鈍く光る刃の予感を感じた瞬間、クロエの心臓が、まるで別の生き物のように激しく鼓動を打った。
(……嫌だ)
泥にまみれた指が、無意識に石畳を強く掻いた。
(こんなところで、あいつらに笑われたまま……。私を捨てた家族や、アルベルトや……あの完璧なエレナの噂を聞きながら死ぬなんて……!)
「……嫌。……死ぬ…なんて……絶対…に……嫌よ……っ!」
掠れた、けれど魂を振り絞ったような叫び。
ザッシュは短刀から手を離し、意外そうに目を細めた。
「へぇ。まだ吠える元気があったか。お前、自分が今、どんなザマか分かってるのか?」
「分かっ…てる…わよ……! 泥棒猫に、嘘つき…の裏切り…者……。みんな、私を…そう呼んだわ。でも、このまま…終わる…なんて……許さ…ない。…私は……まだ……生きたい…わ。 生きて、生きて……私は……!」
溢れ出したのは、謝罪でも反省でもなかった。それは、生への剥き出しの執着。醜く、汚く、けれど何よりも力強い本能。
ザッシュは鼻で笑うと、雨の中に立ち尽くしたまま、クロエをじっと見下ろした。
「……生きたいか?」
「生きたい。生きて……思い知らせてやるのよ……」
その言葉を聞いた瞬間、ザッシュはニヒルな笑みを浮かべた。
「なら、地獄へ付き合え。……お前、いいツラになったな。学園でふんぞり返ってた時より、よっぽどマシなツラだぜ、お嬢」
ザッシュは、まるで荷物でも扱うようにクロエの細い腕を掴むと、力任せに泥の中から引き摺り出した。
その掌は驚くほど熱く、ゴツゴツとしていて――けれど、絶望の中にいたクロエにとっては、この世で最も確かな「生」の感触だった。
二月十四日。雨の降る王都の片隅で、元伯爵令嬢クロエ・ダグラスは、一度死に、そして「泥の中から咲く」ための第一歩を、無様に、けれど力強く踏み出した。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
二月十四日。かつては甘い香りと華やかな期待に胸を躍らせたはずのその日は、今やクロエ・ダグラスにとって、自身の人生が完全に終わったことを告げる命日となっていた。
裏路地のゴミ溜めに横たわるクロエの視界には、ぬかるんだ地面に踏みにじられた、数日前の新聞の端切れが映っていた。
『真実の愛、ここに結実。ローゼイ侯爵夫妻、辺境での輝かしい再起』
見出しの下には、かつての親友、エレナ・ヴィリアーズ――今はエレナ・ローゼイとなった女が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべてアルベルトの隣に立つ姿が描かれていた。
「……はは、……あはは……っ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
皮肉なものだった。エレナを「置物」と蔑み、アルベルトの愛を勝ち取ったと信じていた自分は、今や泥水を啜り、誰にも看取られず死のうとしている。一方で、地味で真面目だけが取り柄だと思っていたエレナは、自らの手で運命を切り開き、国中の尊敬を集める「聖女」のような存在になっている。
クロエが最後にアルベルトに会ったのは、一年前のバレンタインだった。
『君という女の浅ましさには反吐が出る。もう二度と、僕の前に現れないでくれ』
氷のような眼差しで告げられたその言葉を、彼女は今でも昨日のことのように思い出す。彼を追い出された後、実家の伯爵家は彼女を「家の恥」として廃嫡し、借金まみれの老貴族へ売り飛ばそうとした。そこから逃げ出し、転落し続け、行き着いた先がこの汚泥の中だった。
「……寒い。……お腹が、すいたわ……」
胃を掴まれるような空腹と、熱に浮かされた身体。もう、指先一つ動かす気力も残っていない。かつて自慢だった金の髪は泥にまみれて固まり、贅を尽くした指先は荒れ果てて黒ずんでいる。
(……ああ。ここで、終わるのね)
意識が遠のき、暗闇が視界を塗り潰そうとしたその時。
コツン、と。無骨な革靴の先が、汚泥に横たわるクロエの肩を小突いた。
「おい、女。生きてるか?」
低く、酒と煙草の匂いが混じったような、野性的な声だった。
クロエは重い瞼を、必死に押し上げる。
そこには、三白眼の、ひどく人相の悪い男が立っていた。頬には古い刀傷があり、無精髭を生やした顔は「やさぐれている」という言葉がこれ以上なく似合う。だが、その立ち姿には、ただの荒事師ではない、どこか鍛え上げられた武人の名残があった。
「……ぁ……」
「返事ができるならまだマシだが、その目は死んでるな。楽になりたいか?」
男――ザッシュは、腰に差した短刀の柄にゆっくりと手をかけた。
それは、裏通りで野垂れ死ぬ者への、この男なりの「慈悲」の形だった。苦しまずに、一突きで終わらせてやるという無言の宣告。
死。それを待ち望んでいたはずだった。けれど、鈍く光る刃の予感を感じた瞬間、クロエの心臓が、まるで別の生き物のように激しく鼓動を打った。
(……嫌だ)
泥にまみれた指が、無意識に石畳を強く掻いた。
(こんなところで、あいつらに笑われたまま……。私を捨てた家族や、アルベルトや……あの完璧なエレナの噂を聞きながら死ぬなんて……!)
「……嫌。……死ぬ…なんて……絶対…に……嫌よ……っ!」
掠れた、けれど魂を振り絞ったような叫び。
ザッシュは短刀から手を離し、意外そうに目を細めた。
「へぇ。まだ吠える元気があったか。お前、自分が今、どんなザマか分かってるのか?」
「分かっ…てる…わよ……! 泥棒猫に、嘘つき…の裏切り…者……。みんな、私を…そう呼んだわ。でも、このまま…終わる…なんて……許さ…ない。…私は……まだ……生きたい…わ。 生きて、生きて……私は……!」
溢れ出したのは、謝罪でも反省でもなかった。それは、生への剥き出しの執着。醜く、汚く、けれど何よりも力強い本能。
ザッシュは鼻で笑うと、雨の中に立ち尽くしたまま、クロエをじっと見下ろした。
「……生きたいか?」
「生きたい。生きて……思い知らせてやるのよ……」
その言葉を聞いた瞬間、ザッシュはニヒルな笑みを浮かべた。
「なら、地獄へ付き合え。……お前、いいツラになったな。学園でふんぞり返ってた時より、よっぽどマシなツラだぜ、お嬢」
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二月十四日。雨の降る王都の片隅で、元伯爵令嬢クロエ・ダグラスは、一度死に、そして「泥の中から咲く」ための第一歩を、無様に、けれど力強く踏み出した。
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