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吐息の距離、熱の正体
私の体は、彼の逞しい胸板に容赦なく押し付けられる。
「あ……」
思わず小さな声が漏れた。
勢いに任せて「本当にしてみる?」なんて誘っておきながら、私は男性とこれほど密着した経験など一度もない。鼻先が触れそうな距離。そこにあるのは、ピエールが漂わせていた安っぽい香水の匂いではなく、冬の森を思わせる冷ややかで、けれど奥深くに甘さを秘めたバーナード様特有の香りだ。
「な、何を……」
「何を、ではないだろう? 君が誘ったんだ。……それとも、ただの虚勢だったか?」
見上げる彼の瞳は、先ほどまでの「氷の刃」とは思えないほど、熱を帯びて私を射抜いている。
周囲の騒めきが、遠い世界の出来事のように聞こえた。
「おい、貴様ら! 何をしている! 離れろ!」
顔を真っ赤にしたピエールが怒鳴り声を上げる。その隣で、コレットが計算高い瞳を泳がせているのが見えた。
バーナード様は私を抱き寄せたまま、首だけをゆっくりと彼らの方へ向けた。その動作一つで、会場の空気が凍りつく。
「離れろ? おかしなことを言う。ピエール・ドリトン公爵令息。……君の言う通り、私とロザリンド嬢は『戯れ合って』いるだけだが?」
「それは……だが、ここは公共の場だぞ!」
「君が私を不貞の相手に指名したのだ。ならば、今この場が密会の場に変わっても文句はあるまい。全くだ……君は事実を確認する知性よりも、妄想を膨らませる脳の方が発達しているようだ。三流劇作家も驚くほどの独創性だな」
バーナード様の冷酷な皮肉に、ピエールは言葉を詰まらせた。
「独創性」と言い捨てられた捏造話。周囲の貴族たちの間にも、「確かにあのバーナード様が、わざわざ庭の東屋で密会なんて無防備なことをするだろうか?」という疑念が広がり始める。
「さあ、行こうか。……『最愛の』ロザリンド」
バーナード様は私の肩を抱き寄せ、慌てるピエールを一瞥すると、そのまま堂々と会場の出口へと歩き出した。
震える足でなんとかついていく。ホールを出て、人気のない回廊に入った瞬間、張り詰めていた緊張が弾けた。
「……あ、あの、バーナード様! もう、離していただいて結構ですわ!」
私は慌てて彼の胸を手で押し、距離を取った。
心臓がうるさい。バクバクと胸を叩く音が、彼に聞こえてしまいそうで恐ろしかった。
「……随分と冷たいのだな。あんなに熱烈に誘っておいて」
バーナード様は足を止め、壁に背を預けて私をじっと見つめた。
夜の帳が下りた回廊で、月光に照らされた彼の顔立ちは、恐ろしいほどに美しい。
「それは、あの場を収めるための、その、方便といいますか……。巻き込んでしまった手前、せめてピエールに一矢報いたいと思いまして……申し訳ございませんでした」
私は深く頭を下げた。
そうだ。彼は女嫌いで有名な、孤高の侯爵令息。私のような初心な女の戯言に付き合わせていい相手ではない。
「……方便、か」
低い声が近づいてくる。
気づけば、私は壁と彼の手の間に閉じ込められていた。いわゆる「壁ドン」の形に、頭が真っ白になる。
「だが、私は嘘が嫌いでね。……一度口にしたからには、本当にしてもらう。君が言ったんだろう? 『いっそ、本当にしてみる?』と」
「ひっ……」
長い指先が、私の頬をゆっくりとなぞる。
その指が熱い。氷の侯爵などという渾名は、誰がつけたのだろう。
「ロザリンド。君はピエールに復讐したい。私は、婚約者に仕立て上げるための『盾』が欲しい。利害は一致している」
「盾……ですか?」
「ああ。これでお節介な縁談も止まる。……その代わり、君には徹底的に『私の女』を演じてもらう。……いいな?」
彼の顔が、先ほどよりもさらに近づく。
唇が触れそうな距離で止まった彼は、酷く意地悪で、それでいて酷く甘い微笑みを浮かべた。
「……はい、と言わなければ、逃して差し上げませんわね?」
私は精一杯の虚勢を張って、彼を見つめ返した。
頬は林檎のように赤くなっていたに違いないけれど。
「賢いな。……明日、君の屋敷へ迎えに行く。それまでに、覚悟を決めておけ」
耳元で囁かれた熱い吐息に、私は返事をするのが精一杯だった。
ピエールへの復讐。
そのために手を取った相手は、想像以上に底が知れず、そして――危険な香りがした。
__________
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「あ……」
思わず小さな声が漏れた。
勢いに任せて「本当にしてみる?」なんて誘っておきながら、私は男性とこれほど密着した経験など一度もない。鼻先が触れそうな距離。そこにあるのは、ピエールが漂わせていた安っぽい香水の匂いではなく、冬の森を思わせる冷ややかで、けれど奥深くに甘さを秘めたバーナード様特有の香りだ。
「な、何を……」
「何を、ではないだろう? 君が誘ったんだ。……それとも、ただの虚勢だったか?」
見上げる彼の瞳は、先ほどまでの「氷の刃」とは思えないほど、熱を帯びて私を射抜いている。
周囲の騒めきが、遠い世界の出来事のように聞こえた。
「おい、貴様ら! 何をしている! 離れろ!」
顔を真っ赤にしたピエールが怒鳴り声を上げる。その隣で、コレットが計算高い瞳を泳がせているのが見えた。
バーナード様は私を抱き寄せたまま、首だけをゆっくりと彼らの方へ向けた。その動作一つで、会場の空気が凍りつく。
「離れろ? おかしなことを言う。ピエール・ドリトン公爵令息。……君の言う通り、私とロザリンド嬢は『戯れ合って』いるだけだが?」
「それは……だが、ここは公共の場だぞ!」
「君が私を不貞の相手に指名したのだ。ならば、今この場が密会の場に変わっても文句はあるまい。全くだ……君は事実を確認する知性よりも、妄想を膨らませる脳の方が発達しているようだ。三流劇作家も驚くほどの独創性だな」
バーナード様の冷酷な皮肉に、ピエールは言葉を詰まらせた。
「独創性」と言い捨てられた捏造話。周囲の貴族たちの間にも、「確かにあのバーナード様が、わざわざ庭の東屋で密会なんて無防備なことをするだろうか?」という疑念が広がり始める。
「さあ、行こうか。……『最愛の』ロザリンド」
バーナード様は私の肩を抱き寄せ、慌てるピエールを一瞥すると、そのまま堂々と会場の出口へと歩き出した。
震える足でなんとかついていく。ホールを出て、人気のない回廊に入った瞬間、張り詰めていた緊張が弾けた。
「……あ、あの、バーナード様! もう、離していただいて結構ですわ!」
私は慌てて彼の胸を手で押し、距離を取った。
心臓がうるさい。バクバクと胸を叩く音が、彼に聞こえてしまいそうで恐ろしかった。
「……随分と冷たいのだな。あんなに熱烈に誘っておいて」
バーナード様は足を止め、壁に背を預けて私をじっと見つめた。
夜の帳が下りた回廊で、月光に照らされた彼の顔立ちは、恐ろしいほどに美しい。
「それは、あの場を収めるための、その、方便といいますか……。巻き込んでしまった手前、せめてピエールに一矢報いたいと思いまして……申し訳ございませんでした」
私は深く頭を下げた。
そうだ。彼は女嫌いで有名な、孤高の侯爵令息。私のような初心な女の戯言に付き合わせていい相手ではない。
「……方便、か」
低い声が近づいてくる。
気づけば、私は壁と彼の手の間に閉じ込められていた。いわゆる「壁ドン」の形に、頭が真っ白になる。
「だが、私は嘘が嫌いでね。……一度口にしたからには、本当にしてもらう。君が言ったんだろう? 『いっそ、本当にしてみる?』と」
「ひっ……」
長い指先が、私の頬をゆっくりとなぞる。
その指が熱い。氷の侯爵などという渾名は、誰がつけたのだろう。
「ロザリンド。君はピエールに復讐したい。私は、婚約者に仕立て上げるための『盾』が欲しい。利害は一致している」
「盾……ですか?」
「ああ。これでお節介な縁談も止まる。……その代わり、君には徹底的に『私の女』を演じてもらう。……いいな?」
彼の顔が、先ほどよりもさらに近づく。
唇が触れそうな距離で止まった彼は、酷く意地悪で、それでいて酷く甘い微笑みを浮かべた。
「……はい、と言わなければ、逃して差し上げませんわね?」
私は精一杯の虚勢を張って、彼を見つめ返した。
頬は林檎のように赤くなっていたに違いないけれど。
「賢いな。……明日、君の屋敷へ迎えに行く。それまでに、覚悟を決めておけ」
耳元で囁かれた熱い吐息に、私は返事をするのが精一杯だった。
ピエールへの復讐。
そのために手を取った相手は、想像以上に底が知れず、そして――危険な香りがした。
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