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旅立ちの空、本当の笑顔
エリザベスが学園を卒業し、一年後。ハワード公爵邸を離れてリッチモンド侯爵家へと嫁ぐ日が近づいていた。
屋敷の私室では、侍女のメアリーが名残惜しそうに、だが晴れやかな顔で荷造りを進めている。かつてこの部屋に漂っていた、あの刺すような緊張感と血の匂いは、今や完全に消え去り、柔らかなハーブの香りが満ちていた。
その頃、リッチモンド侯爵邸の書斎。
シモンは、密偵から届けられた一通の報告書に目を通していた。そこには、王国最北の極寒の地へ送られた、カトリーヌ・シシリーとその娘ジュリエットの最期が記されていた。
過酷な強制労働と、北国特有の流行病。かつて贅沢を尽くし、エリザベスの尊厳を蹂躙することで悦に浸っていた母娘は、泥に塗れ、誰に看取られることもなくその命を散らしたという。
「……ふん。意外に早かったな」
シモンは冷淡な手つきで、その報告書を暖炉の火へと投じた。
炎が紙を舐め取り、黒い灰に変えていく。
「ベスの苦しんだ七年に、まったく及ばないとはな。……罪の重さに対して、あまりに短すぎる幕引きだ」
シモンの琥珀色の瞳には、一片の慈悲もなかった。彼は今でも、エリザベスの背中に残る消えない傷跡を見るたび、加害者たちへの憎悪が再燃するのを感じている。だが、その復讐の物語は、ここで終わりだ。
彼女を縛り続けていた過去の亡霊たちは、これで完全にこの世から消滅した。
数日後、ハワード公爵邸の正面玄関。エリザベスの旅立ちの時が来た。
父、母、そして兄のリチャードが、並んで彼女を見送る。
「ベス。何かあれば、いつでも戻ってきなさい。……いや、違うな。戻る必要がないほどに幸せになりなさい。それが、私たちが貴女にできる唯一の願いだ」
公爵の言葉に、エリザベスは深く、優雅に一礼した。それはかつて「失敗」を恐れて震えていた人形の礼ではなく、家族への愛に満ちた、気高い女性の礼だった。
「お父様、お母様、お兄様。……いってまいります。わたくし、必ず幸せになりますわ」
迎えに来たシモンの馬車に、エリザベスが乗り込む。
馬車がゆっくりと動き出し、見慣れた屋敷の景色が遠ざかっていく。エリザベスは窓から身を乗り出すようにして、家族に手を振った。
馬車の中で隣に座るシモンが、彼女の細い肩を抱き寄せた。
「……リザ。もう、後ろを振り返る必要はないよ。これからは僕たちが、新しい景色を書き込んでいくんだ」
「はい、シモン様」
エリザベスは、シモンの胸にそっと頭を預けた。馬車は王都を抜け、リッチモンド侯爵領へと続く、緑豊かな街道を走る。
途中の丘で休憩を取った際、エリザベスは馬車を降り、一面に広がる野原に立った。見上げる空はどこまでも高く、どこまでも青い。
かつて、暗い部屋の隅で、鞭の音に震えながら見上げたあの狭い窓の空とは、全く違う。
「……ふふっ」
不意に、エリザベスの口から零れ落ちたのは、鈴を転がしたような、澄んだ笑い声だった。
「リザ?」
シモンが驚いたように彼女を見る。
エリザベスは、眩しそうに目を細め、彼に向かって満開の向日葵のような笑顔を向けた。それは、完璧な角度を計算された「淑女の微笑」ではない。
心の底から溢れ出した、混じりけのない、本当の笑顔だった。
「シモン様、風が……風が、とても気持ちいいんです。わたくし、生きていることが、こんなに嬉しいなんて……」
シモンは息を呑んだ。
出会ったあの日から、ずっと取り戻したかった彼女の輝きが、今、目の前にある。
彼は彼女を力強く抱きしめ、その柔らかな髪に顔を埋めた。
「ああ。……僕も、最高に嬉しいよ。君のその笑顔を、一生守り抜くと誓う」
背中には、一生消えない傷跡がある。
かつての婚約者の冷酷な声や、カトリーヌの罵倒が、時折夢に現れるかもしれない。
けれど、今の彼女には、それを共に乗り越えてくれる伴侶がいる。慈しんでくれる家族がいる。そして何より、自分自身を愛し、肯定できる「心」がある。
旅立ちの空の下、エリザベスは一歩、また一歩と、確かな足取りで草原を歩んでいく。
彼女の歩く先には、もう影はない。本当の笑顔を取り戻した「完璧な令嬢」。
エリザベス・ハワード。その背中に刻まれた傷跡は、もはや絶望の証ではなく、地獄を生き抜き、真実の愛を掴み取った「一人の女性」としての、誇り高き勲章であった。
ハッピーエンド
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屋敷の私室では、侍女のメアリーが名残惜しそうに、だが晴れやかな顔で荷造りを進めている。かつてこの部屋に漂っていた、あの刺すような緊張感と血の匂いは、今や完全に消え去り、柔らかなハーブの香りが満ちていた。
その頃、リッチモンド侯爵邸の書斎。
シモンは、密偵から届けられた一通の報告書に目を通していた。そこには、王国最北の極寒の地へ送られた、カトリーヌ・シシリーとその娘ジュリエットの最期が記されていた。
過酷な強制労働と、北国特有の流行病。かつて贅沢を尽くし、エリザベスの尊厳を蹂躙することで悦に浸っていた母娘は、泥に塗れ、誰に看取られることもなくその命を散らしたという。
「……ふん。意外に早かったな」
シモンは冷淡な手つきで、その報告書を暖炉の火へと投じた。
炎が紙を舐め取り、黒い灰に変えていく。
「ベスの苦しんだ七年に、まったく及ばないとはな。……罪の重さに対して、あまりに短すぎる幕引きだ」
シモンの琥珀色の瞳には、一片の慈悲もなかった。彼は今でも、エリザベスの背中に残る消えない傷跡を見るたび、加害者たちへの憎悪が再燃するのを感じている。だが、その復讐の物語は、ここで終わりだ。
彼女を縛り続けていた過去の亡霊たちは、これで完全にこの世から消滅した。
数日後、ハワード公爵邸の正面玄関。エリザベスの旅立ちの時が来た。
父、母、そして兄のリチャードが、並んで彼女を見送る。
「ベス。何かあれば、いつでも戻ってきなさい。……いや、違うな。戻る必要がないほどに幸せになりなさい。それが、私たちが貴女にできる唯一の願いだ」
公爵の言葉に、エリザベスは深く、優雅に一礼した。それはかつて「失敗」を恐れて震えていた人形の礼ではなく、家族への愛に満ちた、気高い女性の礼だった。
「お父様、お母様、お兄様。……いってまいります。わたくし、必ず幸せになりますわ」
迎えに来たシモンの馬車に、エリザベスが乗り込む。
馬車がゆっくりと動き出し、見慣れた屋敷の景色が遠ざかっていく。エリザベスは窓から身を乗り出すようにして、家族に手を振った。
馬車の中で隣に座るシモンが、彼女の細い肩を抱き寄せた。
「……リザ。もう、後ろを振り返る必要はないよ。これからは僕たちが、新しい景色を書き込んでいくんだ」
「はい、シモン様」
エリザベスは、シモンの胸にそっと頭を預けた。馬車は王都を抜け、リッチモンド侯爵領へと続く、緑豊かな街道を走る。
途中の丘で休憩を取った際、エリザベスは馬車を降り、一面に広がる野原に立った。見上げる空はどこまでも高く、どこまでも青い。
かつて、暗い部屋の隅で、鞭の音に震えながら見上げたあの狭い窓の空とは、全く違う。
「……ふふっ」
不意に、エリザベスの口から零れ落ちたのは、鈴を転がしたような、澄んだ笑い声だった。
「リザ?」
シモンが驚いたように彼女を見る。
エリザベスは、眩しそうに目を細め、彼に向かって満開の向日葵のような笑顔を向けた。それは、完璧な角度を計算された「淑女の微笑」ではない。
心の底から溢れ出した、混じりけのない、本当の笑顔だった。
「シモン様、風が……風が、とても気持ちいいんです。わたくし、生きていることが、こんなに嬉しいなんて……」
シモンは息を呑んだ。
出会ったあの日から、ずっと取り戻したかった彼女の輝きが、今、目の前にある。
彼は彼女を力強く抱きしめ、その柔らかな髪に顔を埋めた。
「ああ。……僕も、最高に嬉しいよ。君のその笑顔を、一生守り抜くと誓う」
背中には、一生消えない傷跡がある。
かつての婚約者の冷酷な声や、カトリーヌの罵倒が、時折夢に現れるかもしれない。
けれど、今の彼女には、それを共に乗り越えてくれる伴侶がいる。慈しんでくれる家族がいる。そして何より、自分自身を愛し、肯定できる「心」がある。
旅立ちの空の下、エリザベスは一歩、また一歩と、確かな足取りで草原を歩んでいく。
彼女の歩く先には、もう影はない。本当の笑顔を取り戻した「完璧な令嬢」。
エリザベス・ハワード。その背中に刻まれた傷跡は、もはや絶望の証ではなく、地獄を生き抜き、真実の愛を掴み取った「一人の女性」としての、誇り高き勲章であった。
ハッピーエンド
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