氷の令嬢は愛を請わない - 捨て子の『義妹』に愛も家族も奪われたマリーローズの逆襲

恋せよ恋

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番外編

偽りの侯爵令嬢、最後の夢

 王国の北端、凍土に閉ざされた鉱山街。そこは、かつて王都で流行を追い、宝石に囲まれていた令嬢たちが想像もできないような、泥と暴力が支配する吹き溜まりだった。

 路地裏の突き当たり、家畜小屋のような粗末な娼館の二階で、一人の女が横たわっていた。
 かつて「ハンプトン家の陽だまり」と称されたジュリエットは、今や見る影もなく痩せさらばえていた。美しい茶色の髪は汚れ、結核に冒された胸からは、血の匂いの混じった喘鳴が漏れる。

 実父であるエーデル伯爵に「換金」され、いくつもの汚れた手を経てこの極北に流れ着いた。彼女を抱く男たちは、彼女がかつて侯爵家で暮らしていたことなど信じもしなかったし、彼女が吐く「マリーローズ様は私の妹なの」という妄言を、狂女の戯言として笑い飛ばした。

「……寒い……」

 ジュリエットは、カビの生えた毛布を引き寄せた。

 意識が混濁する中、彼女は鏡を見た。鏡に映るのは、絶世の美貌を持っていたマリーローズではなく、平凡で、今や醜く崩れた自分自身の顔だった。

(どうして……どうして、こうなったのかしら……)

 彼女は思い出す。あの日、雪の降る夜にハンプトン邸の門前に捨てられていた自分を、エリザベス夫人は温かな腕に抱き上げてくれたと何度も聞かされた。ジュリエットは本能で理解した。この美しい夫人は、自分に「何か」を求めているのだと。自分を理想の娘として演じ続ければ、この黄金の檻の中で一生、腹を満たせるのだと。

 最初は、ただ生きるためだった。
 けれど、マリーローズという本物が隣にいたことが、彼女の不幸の始まりだった。

 マリーローズは、ジュリエットがどんなに可愛らしく振る舞っても、その紫の瞳で、ジュリエットの心の底にある卑屈な嘘を見抜いているように見えた。その高潔さが、ジュリエットには耐え難かった。

「マリーローズさえいなければ……」

 その思いが、毒となって彼女の人生を蝕んだ。
 マリーローズの婚約者を奪い、友人を奪い、親の愛を奪い尽くした。

 けれど、奪えば奪うほど、自分の中の空洞は大きくなるばかりだった。手に入れた宝石はマリーローズの肌のように輝かず、アレックスの言葉はマリーローズが受ける賞賛ほど甘くなかった。

 死の間際、ジュリエットは深い微睡まどろみの中で「もしも」の夢を見た。

◇◇◇

 それは、ハンプトン邸の明るい庭園だった。
 そこには、自分を虐げるエーデル伯爵も、狂ったエリザベスもいない。

 銀色の髪をなびかせ、本を読んでいたマリーローズが、ふと顔を上げた。

『ジュリエット、また刺繍を投げ出したのね。……貸してごらんなさい、私が直してあげるわ』

 夢の中のマリーローズは、冷たくなかった。

 ジュリエットは彼女の膝に頭を預け、甘えるように笑っている。

『ねえ、マリー、私、マリーみたいに完璧にはなれないわ』

『いいのよ、ジュリエット。あなたは私の家族なのだから。私があなたを守ってあげる。あなたが笑っていられるように、私がハンプトンの盾になりましょう』

 マリーローズの細い指が、ジュリエットの髪を優しく梳く。

 そこには、策略も、嘘も、裏切りもなかった。
 ジュリエットは、マリーローズの影として、彼女の光を誇りに思いながら、ただ穏やかに暮らしていた。

『マリー、大好き……』

 夢の中の自分は、心からの言葉を口にしていた。

 もし、自分があの時、マリーローズを追い落とそうとせず、彼女の差し出した「本当の家族」としての手を取っていたら。

 もし、自分が「欲」という名の毒に染まらず、分をわきまえた妹として彼女に寄り添っていたら。

 今頃、自分は帝国の華やかな宮廷で、美しいドレスを着て、自慢の姉の隣で微笑んでいたのではないか。
 
◇◇◇

「……あ……ああ……っ」

 目を開けると、そこは冷たく汚れた板の床だった。夢から覚めた絶望が、胸を締め付ける。

 ジュリエットは、自分が一度もマリーローズを家族として愛したことがなかったことに気づいた。彼女をライバルとしてしか見ていなかった。彼女の中にあったはずの孤独や、自分への密かな気遣いを、すべて「利用できる隙」だとしか思わなかった。

 マリーローズに家族を捨てさせたのは、自分だ。

 そして、その結果、ハンプトン家という盾を自ら粉砕し、自分をこの地獄に叩き落としたのも、自分自身だった。

「ごめんなさい……マリー……ローズ……様……」

 最期の瞬間に漏れたのは、許されるはずのない謝罪だった。

 ジュリエット・エーデル。偽りで王国を揺るがした少女の亡骸は、翌朝、鉱山の名もなき共同墓地へと投げ捨てられた。

 同時刻、帝国のマリーローズは、朝食の席でふと窓の外を眺めた。

「……何か、風の音が悲しく聞こえましたわ」

「ただの冬の終わりを告げる風だよ、マリーローズ」

 リュシアンが彼女の手に自分の手を重ねる。

 マリーローズの記憶から、ジュリエットという存在は、すでに過去という名の一節に変わっていた。

 偽物は消え、本物だけが残る。ジュリエットが夢見た「もしも」の幸せは、彼女自身の業によって、永遠に失われた過去の残滓となった。
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