「従妹は病弱なんだ」と私を放置する婿入り婚約者はいりません 〜帰国した義兄に、身も心も奪い尽くされる〜

恋せよ恋

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父への願い、保留された自由

  式場から戻ったその足で、ロクサーヌは父ノーマンの執務室の扉を叩いた。
 重厚なマホガニーの扉の向こう側から「入りなさい」と声がする。

「お父様、お忙しいところ申し訳ありません。折り入ってお話が……」

「いや、いい。ちょうど私からも話したいと思っていたところだ。……式場の下見はどうだった?」

 ノーマンの問いに、ロクサーヌは自嘲気味な笑みを浮かべて首を振った。

「式場の係員の方に、カルロス様とビビアン様が『お似合いの婚約者同士』だと間違われるほど、睦まじい様子でしたわ」

 ノーマンの眉がぴくりと跳ねる。

「……そこまでか。それで、お前の結論は?」

「お父様。私は、カルロス・チャーチル様との婚約を解消したいと考えております。いいえ、解消させてください」

 ロクサーヌは深く頭を下げた。
 七年という月日、家のために、両親の決定のためにと耐えてきた。けれど、もう限界だった。自分の尊厳を削り、泥を塗るような結婚に未来はない。

 当然、父はすぐに頷いてくれると思っていた。先日のティータイムで見せた父の怒りは、本物だったからだ。
 しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。

「ロクサーヌ。……あと半年、時間をくれないか」

「半年、ですか?」

 ロクサーヌは顔を上げた。半年も経てば、結婚式の予定日が来てしまう。

「なぜ、今すぐではないのですか? あの男がアステリア家に入り込む前に、一刻も早く縁を切るべきですわ」

「理由は二つある」

 ノーマンは組んだ指に力を込めた。

「一つは、手続きの問題だ。相手は伯爵家の次男。一方的な解消は、我が家に不備がなくとも角が立つ。カルロスが自ら『婿失格』であるという証拠を、社交界が認めざるを得ない形で固める必要がある」

「では、もう一つは?」

「オリビエだ」

 その名が出た瞬間、ロクサーヌの心臓が小さく跳ねた。

「オリビエが隣国から完全に帰還するまで、あと半年かかる。奴が戻るまでは、この婚約は形だけでも維持しておいてほしい」

「お兄様が……。でも、なぜ彼を待つ必要があるのですか?」

 ノーマンは窓の外を見つめ、遠い目をした。

「ロクサーヌ、お前も知っての通り、オリビエは私の友人であったロンゲール伯爵夫妻の嫡子だ」

 ロクサーヌは、記憶の中にある七歳のオリビエを思い出した。
 アステリア家に引き取られたばかりの彼は、幽霊のように青白く、絶望に塗りつぶされた瞳をしていた。

 当時、ロンゲール伯爵夫妻が馬車の事故で急逝した直後、野心家だったオリビエの叔父が「子供に爵位は継げない」と主張。正当な継承者であるはずのオリビエを、汚い裏工作で家から叩き出したのだ。
 路頭に迷う寸前だった彼を救い上げたのが、亡き友との誓いを守ろうとした父ノーマンだった。

『お父たま、お母たま。この子、だあれ?』

 二歳だったロクサーヌが、オリビエの服の裾を握って尋ねた。
 家を追われ、大人たちの醜い争いに心を壊されていたオリビエにとって、無邪気に「大好き、お兄様!」と笑いかけてくるロクサーヌだけが、暗闇の中に差した唯一の光だった。

 彼はアステリア家で育ちながら、密かに誓っていた。
 奪われたロンゲール伯爵家を必ず取り戻し、自分を救ってくれたこの家と、ロクサーヌに報いることを。

 十三歳でロクサーヌとカルロスの婚約が決まった時、彼は唇を噛み締め、誰よりも深く頭を下げて「おめでとう」と言った。その背中がどれほど寂しげだったか、当時のロクサーヌは知る由もなかった。

「オリビエは今、隣国で伯爵家再興のための決定的なカードを握ろうとしている。あいつは、自分が正当な地位を取り戻した時、お前の盾になると誓って旅立ったのだ」

 ノーマンはロクサーヌの前に歩み寄り、その肩に手を置いた。

「今ここで婚約を解消すれば、チャーチル伯爵家が逆上して我が家に嫌がらせをするかもしれん。だが、オリビエが『ロンゲール伯爵』として帰還すれば、状況は変わる。あいつなら、カルロスごときを完膚なきまでに叩き潰し、お前を完璧に守り抜くだろう」

 父の言葉に、ロクサーヌは黙って俯いた。
 右手の薬指で光るエメラルドの指輪。
 五年間の沈黙。オリビエお兄様は、私のために戦っていたというのか。

「お父様……。一つ、お聞きしてもよろしいですか?」

「なんだ?」

「お父様は、お兄様が……オリビエが、私に向ける眼差しが、単なる妹へのものではないと、気づいていらしたのですか?」

 ノーマンは苦笑し、首を振った。

「気づかない方が無理だ。あいつは、お前がカルロスと並んでいる時、まるで自分の心臓を削り取られているような顔をしていたからな。……だからこそ、私はあえて猶予を与えたのだ。あいつが男として、お前を迎えに来るための時間を」

「……っ」

 ロクサーヌの頬が、熱く火照った。
 愛されている。守られている。
 カルロスに無視され、蔑ろにされ続けて凍りついていた心に、ドクドクと温かい血が流れ始める。

「分かりました。半年……半年ですね。お兄様が帰ってくるまで、私はアステリア家の嫡女として、カルロスの無能ぶりを静かに記録し続けます。婚約解消の、最高の舞台を整えるために」

「ああ、頼んだぞ。……奴が帰ってきたら、社交界は少しばかり騒がしくなるだろうがな」

 ノーマンは、引き出しの奥にある「あいつ」からの最新の報告書に目をやった。
 そこには、隣国での武勲や外交的成果と共に、ただ一言、
『ロクサーヌに、変な虫はついていませんか?』
 という、執念にも似た一文が添えられていた。

 こうして、ロクサーヌの「耐え忍ぶ半年」が始まった。
 しかしそれは、以前のような絶望の半年ではない。
 自分を本当の意味で守り、愛してくれる王子の帰還を待つ、逆襲のためのカウントダウンだった。
___________

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