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触れてはいけない温もり
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王宮の静寂とは対照的に、学園では、変わらぬ日常が淡々と続いていた。
三年生のシリル王太子は、相変わらず注目の中心にいた。生徒会、剣術、座学。どこにいても人が集まり、期待と敬意とが自然に彼を取り囲む。
ただひとつだけ、以前と違うことがあった。
――コーデリア・グローリー公爵令嬢の存在だ。
彼女は「側妃候補」として、特別扱いされることもなく、シリル王太子と共に生徒会役員として、学園生活を淡々と送っていた。姿勢は正しく、言葉は控えめ。誰かの陰口にも、露骨な同情にも、決して反応しない。
その様子が、かえって目を引いた。
「コーデリア」
ある日の放課後、生徒会室でひとり書架を整理していた彼女に、シリルは声をかけた。
「生徒会の書類の整理かい?」
「王妃教育の予習です。来月から、政治史の範囲が広がると伺いましたので」
顔を上げたコーデリアは、穏やかに微笑む。その微笑みには、王宮で見せるような硬さがなかった。
「……無理はしなくていい」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
コーデリアは一瞬、きょとんとした表情を見せてから、ふっと笑った。
「シリル殿下は、お優しいのですね」
「優しい、というより……」
言葉に詰まる。
アナスタシアに向けていた感情は、初恋の延長と、尊敬と憧れ、そして対等であろうとする緊張だった。隣に立つには、自分も強くならねばならないと思わせる存在。
だが、コーデリアは違う。彼女は、頼ってくれる。
しかもそれは、計算ではなく、自然な仕草として。
「シリル殿下。こちらの条文、どう解釈なさいます?」
差し出されたノートを覗き込む。指先が触れそうな距離に、シリルはわずかに息を止めた。
「……ここは、前提条件を限定して読むべきだと思う」
「やっぱり。シリル殿下に聞いてよかったです。私には、まだ、難解で。」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
(必要とされている)
その感覚は、甘く、危うかった。
数日後。剣術訓練の帰り、転びかけたコーデリアを、シリルがとっさに支える場面があった。
「大丈夫か!?」
「……はい。でも、少し驚いてしまって」
彼女は小さく笑い、すぐに頭を下げる。
「ありがとうございます。殿下がいらして、助かりました」
その言葉を聞いた瞬間、シリルの中で、何かが決定的に傾いた。
――守ってあげたい。
コーデリアと別れてからも、手のひらに、まだ彼女の体温が残っていた。
転びかけた身体を支えただけだ。ほんの一瞬。剣を持つときよりも軽い力だったはずなのに、心臓の鼓動だけが、やけにうるさい。
(……驚いた顔をしていたな)
コーデリアは、すぐに微笑んで、頭を下げた。礼儀として、完璧な角度。だが、その声は、かすかに揺れていた――そう、彼には聞こえた。
「ありがとうございます。殿下がいらして……助かりました」
助かった。
その言葉が、胸の奥に沈み込む。
(守れた)
そう思った瞬間、これまで胸にあった違和感が、ひとつの形を取った。
アナスタシアと向き合うとき、いつも感じていたもの。
対等であろうとする緊張。見透かされる恐れ。
守る側ではいられない関係。
だが、コーデリアは違う。
頼られている。
必要とされている。
少なくとも――そう見えた。
(彼女は……僕を見上げてくれる)
それは、アナスタシアに抱いた「並び立ちたい」という感情とは、まったく異なるものだった。
強さを求められない。
判断を委ねられる。
自分が前に立てばいい。
コーデリアは、すでに一歩下がっていた。
礼を終え、距離を取り、視線を伏せている。
だが、彼の目には映らなかった。
(アナスタシアは強すぎるんだ)
その考えが浮かんだ瞬間、自分がどれほど残酷な線引きをしたかにも、気づかない。
強いから、大丈夫。
理解してくれるから、説明しなくてもいい。
黙っていても、耐えられるはずだ。
(でも……コーデリアは)
彼女は、まだ若い。
守るべき存在だ。
支えが必要だ。
そうやって、彼は“守る恋”を選んだつもりになった。
その選択が、誰の選択権を奪っているのかも知らずに。
遠くで、鐘の音が鳴った。
学園の時刻を告げる音。
始まりを告げる音。
シリルは、無意識のうちに微笑んでいた。
(大丈夫だ。コーデリアは、側妃だ。交流に問題はない)
――それが、最後の勘違いだとも知らずに。
気づけば、彼はコーデリアの隣にいる時間を、無意識に選ぶようになっていた。
コーデリアもまた、変わっていく。
以前のような張り詰めた沈黙は薄れ、シリルの前では、ほんの少しだけ感情を覗かせる。
「殿下は……お忙しいのに、どうして、わたしに構ってくださるのですか?」
ある日、ぽつりと問われた。
シリルは、迷いなく答えていた。
「放っておけないからだ」
その瞬間、コーデリアの瞳が揺れた。
喜びと、安堵と、そして――側妃という立場ゆえの悲しみ。
(この優しさは、私のものではない)
そう分かっていながら、その温もりを拒めなかった。
その頃、アナスタシアは、学園の報告書を淡々と読んでいた。
三年生のシリルと、二年生のコーデリア。
交流、増加。
問題行動、なし。
紙の上では、すべてが「健全」だった。
アナスタシアは、微笑みながら書類を閉じる。
(……問題はない)
それが、恋であろうと。
慰めであろうと。
逃避であろうと。
すでに彼女は、「それを含めて」王家を縛っている。
知らぬのは、シリルだけだった。
自分がようやく手に入れたと思ったこの感情が――王家にとって、最後の引き金になることを。
そして、コーデリアもまた、知っていた。
この恋が、救いであると同時に、決して許されない“選択”であることを。
それでも。
彼女は、その一歩を、止めなかった――静かに、すべてが揃い始めていた。
______________
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三年生のシリル王太子は、相変わらず注目の中心にいた。生徒会、剣術、座学。どこにいても人が集まり、期待と敬意とが自然に彼を取り囲む。
ただひとつだけ、以前と違うことがあった。
――コーデリア・グローリー公爵令嬢の存在だ。
彼女は「側妃候補」として、特別扱いされることもなく、シリル王太子と共に生徒会役員として、学園生活を淡々と送っていた。姿勢は正しく、言葉は控えめ。誰かの陰口にも、露骨な同情にも、決して反応しない。
その様子が、かえって目を引いた。
「コーデリア」
ある日の放課後、生徒会室でひとり書架を整理していた彼女に、シリルは声をかけた。
「生徒会の書類の整理かい?」
「王妃教育の予習です。来月から、政治史の範囲が広がると伺いましたので」
顔を上げたコーデリアは、穏やかに微笑む。その微笑みには、王宮で見せるような硬さがなかった。
「……無理はしなくていい」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
コーデリアは一瞬、きょとんとした表情を見せてから、ふっと笑った。
「シリル殿下は、お優しいのですね」
「優しい、というより……」
言葉に詰まる。
アナスタシアに向けていた感情は、初恋の延長と、尊敬と憧れ、そして対等であろうとする緊張だった。隣に立つには、自分も強くならねばならないと思わせる存在。
だが、コーデリアは違う。彼女は、頼ってくれる。
しかもそれは、計算ではなく、自然な仕草として。
「シリル殿下。こちらの条文、どう解釈なさいます?」
差し出されたノートを覗き込む。指先が触れそうな距離に、シリルはわずかに息を止めた。
「……ここは、前提条件を限定して読むべきだと思う」
「やっぱり。シリル殿下に聞いてよかったです。私には、まだ、難解で。」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
(必要とされている)
その感覚は、甘く、危うかった。
数日後。剣術訓練の帰り、転びかけたコーデリアを、シリルがとっさに支える場面があった。
「大丈夫か!?」
「……はい。でも、少し驚いてしまって」
彼女は小さく笑い、すぐに頭を下げる。
「ありがとうございます。殿下がいらして、助かりました」
その言葉を聞いた瞬間、シリルの中で、何かが決定的に傾いた。
――守ってあげたい。
コーデリアと別れてからも、手のひらに、まだ彼女の体温が残っていた。
転びかけた身体を支えただけだ。ほんの一瞬。剣を持つときよりも軽い力だったはずなのに、心臓の鼓動だけが、やけにうるさい。
(……驚いた顔をしていたな)
コーデリアは、すぐに微笑んで、頭を下げた。礼儀として、完璧な角度。だが、その声は、かすかに揺れていた――そう、彼には聞こえた。
「ありがとうございます。殿下がいらして……助かりました」
助かった。
その言葉が、胸の奥に沈み込む。
(守れた)
そう思った瞬間、これまで胸にあった違和感が、ひとつの形を取った。
アナスタシアと向き合うとき、いつも感じていたもの。
対等であろうとする緊張。見透かされる恐れ。
守る側ではいられない関係。
だが、コーデリアは違う。
頼られている。
必要とされている。
少なくとも――そう見えた。
(彼女は……僕を見上げてくれる)
それは、アナスタシアに抱いた「並び立ちたい」という感情とは、まったく異なるものだった。
強さを求められない。
判断を委ねられる。
自分が前に立てばいい。
コーデリアは、すでに一歩下がっていた。
礼を終え、距離を取り、視線を伏せている。
だが、彼の目には映らなかった。
(アナスタシアは強すぎるんだ)
その考えが浮かんだ瞬間、自分がどれほど残酷な線引きをしたかにも、気づかない。
強いから、大丈夫。
理解してくれるから、説明しなくてもいい。
黙っていても、耐えられるはずだ。
(でも……コーデリアは)
彼女は、まだ若い。
守るべき存在だ。
支えが必要だ。
そうやって、彼は“守る恋”を選んだつもりになった。
その選択が、誰の選択権を奪っているのかも知らずに。
遠くで、鐘の音が鳴った。
学園の時刻を告げる音。
始まりを告げる音。
シリルは、無意識のうちに微笑んでいた。
(大丈夫だ。コーデリアは、側妃だ。交流に問題はない)
――それが、最後の勘違いだとも知らずに。
気づけば、彼はコーデリアの隣にいる時間を、無意識に選ぶようになっていた。
コーデリアもまた、変わっていく。
以前のような張り詰めた沈黙は薄れ、シリルの前では、ほんの少しだけ感情を覗かせる。
「殿下は……お忙しいのに、どうして、わたしに構ってくださるのですか?」
ある日、ぽつりと問われた。
シリルは、迷いなく答えていた。
「放っておけないからだ」
その瞬間、コーデリアの瞳が揺れた。
喜びと、安堵と、そして――側妃という立場ゆえの悲しみ。
(この優しさは、私のものではない)
そう分かっていながら、その温もりを拒めなかった。
その頃、アナスタシアは、学園の報告書を淡々と読んでいた。
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問題行動、なし。
紙の上では、すべてが「健全」だった。
アナスタシアは、微笑みながら書類を閉じる。
(……問題はない)
それが、恋であろうと。
慰めであろうと。
逃避であろうと。
すでに彼女は、「それを含めて」王家を縛っている。
知らぬのは、シリルだけだった。
自分がようやく手に入れたと思ったこの感情が――王家にとって、最後の引き金になることを。
そして、コーデリアもまた、知っていた。
この恋が、救いであると同時に、決して許されない“選択”であることを。
それでも。
彼女は、その一歩を、止めなかった――静かに、すべてが揃い始めていた。
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