【完結】王太子が「恋がしたい」と言い出したので、公爵令嬢は捨て身の復讐を始めます──みなさままとめて地獄へどうぞ

恋せよ恋

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許されない安堵

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それは、コーデリアが、誰かに責められた瞬間ではなかった。
まして、命令されたわけでも、脅されたわけでもない。

 ただ、ひとつの書類だった。

側妃教育の一環として渡された、想定問答集。
王太子妃に関する質問、世論への回答、王家の将来像。
その中に、何気なく記された一文があった。

――「側妃は、王太子妃が子を成すまでの“補完的役割”を担う」

補完?
その言葉が、胸の奥で静かに反響した。

(……わたくしは、人ではなく、“役割”なのね……)

それでも、コーデリアは静かに微笑んだ。

読み進めるーー
 感情を交えぬこと。
 期待を持たせぬこと。
 存在は認識させるが、関係性は曖昧に保つこと。

どれも、理屈としては理解できる。公爵家に生まれた以上、覚悟はしてきた。
だが――ページの端に添えられた注釈が、決定打だった。

――「本人の感情の成熟度は考慮対象外とする」

息が、止まった。恋心も。罪悪感も。迷いも。
すべてが、“制度運用に不要な要素”として切り離されている。

(……ああ)

そこで、ようやく分かった。
シリル殿下が優しいのは、彼の性格だ。
アナスタシア様が沈黙しているのは、彼女の選択だ。

けれど――自分が、この位置に置かれた理由は、愛ではない。
王家にとって、自分は「若く」「健康で」「血統が良く」「従順そうな」都合のいい札だった。

(わたしが誰を好きかなんて、どうでもいいのだわ)

それは、怒りではなかった。
むしろ、静かな納得だった。
だからこそ、理解は、静かな反逆を生んだ。

これまで、彼女は「従う」ことで、誠実であろうとしてきた。
だが、その誠実さが、王家にとっては都合のいい材料でしかないなら。

(……もう、ただ従う必要は、ないわよね)

声に出さず、表情も変えず。コーデリアは、ページを閉じた。
従順であることと、同意することは違う。
役割を演じることと、駒になることは違う。

その違いを、ようやく理解した。それでも、わたしは“コーデリア”という名を失わない。
ただ――自分の感情だけを、王家の外に置いた。

利用されると分かった以上、渡すものは、側妃という立場だけ。
それ以上は、渡さない。それが、コーデリア・グローリーが選んだ、最初の抵抗だった。




その放課後、シリルはひとり、学園内の王族執務室に立っていた。
机の上に置かれた婚約書の写しを、ただ見下ろしていた。

条文を追うたびに、胸が冷えていく。
そこに、自分の意思が入り込む余地は、どこにもなかった。

(僕は、彼女たちを守る王子だったはずなのに)

気づけば、自分は――アナスタシアには沈黙を強い、コーデリアには希望を与え、どちらからも、逃げ道を奪っていた。

「……最低だな」

誰に言うでもなく、そう呟いた声が、部屋に落ちた。

 ――第七条。
視線が、自然とそこへ落ちる。

王家は、婚約に影響し得る全情報を、故意または過失を問わず、開示する義務を負う。

短い一文だった。が、今となっては、刃のように鋭い。

(……影響し得る、全情報)

シリルは、ゆっくりと息を吐いた。
 側妃制度。
 将来の可能性。
 王家が『まだ決まっていない』と判断した、すべての含み。

 ――彼は、知っていた。

すべてを、完全にではなくとも、『問題にならない』と思い込める程度には。

(だから……聞かなかった)

問いただせば、答えは返ってきただろう。
だが、聞かなければ、責任は曖昧なままでいられる。

 ――大丈夫だ。
 ――彼女なら、理解してくれる。

その思考が、どれほど傲慢だったかを、今になって思い知らされる。

彼女は、理解していたのだ。最初から。

(アナスタシアは……知らなかったんじゃない)

知ったうえで、沈黙した。沈黙したうえで、条件を書かせた。
そして、あの晩餐で――たった一度だけ、刃を抜いた。

「『知らなかった』という弁明は、どうか、なさらないでくださいませ」

あれは、王家への牽制であり、同時に、自分への最後の警告だった。

(僕は……間に合わなかった)

善意だった。守るつもりだった。
だが、それは『選ばせない』という暴力でもあった。

彼女に選択肢を渡さず、確認もせず、「王家のため」という名目で、黙って進めた。

それを――アナスタシアは、すべて見抜いたうえで、受け入れた。

だからこそ、彼女はもう、恋人ではない。
信頼してくれる婚約者でもない。

 ――王家を縛る者だ。

(……僕は、何を失ったんだ?)

机の上の婚約書は、微動だにしない。
だが、シリルの中で、何かが確かに崩れ落ちていた。
それは怒りでも、悲嘆でもない。
取り返しのつかない事実を、ようやく理解してしまった静かな崩壊だった。

その後、どれほど王族執務室に立っていたのか、シリル自身にも分からなかった。

扉を閉め、回廊へ出ると、足は、無意識のうちに、学園区画へ向かっていた。

 ――いけない。

そう思った時には、もう遅かった。
中庭は、講義を終えた生徒たちの姿はまばらで、風の音だけが残っている。

 そこに、コーデリアがいた。

「遅くまで、勉強かい」
「はい。少し……考えることがありまして」

それ以上、踏み込まない。踏み込ませない。
その沈黙が、ひどく心地よかった。

胸の奥で、警鐘が鳴る。
彼女は側妃候補だ。この関係は、最初から歪んでいる。

少しでも寄り添えば、それは裏切りになる。
自分が楽になるために、彼女を巻き込むことになる。

分かっている。分かっているのに――

「……大丈夫かい」

その言葉が、勝手に口をついて出た。
コーデリアが、一瞬だけ目を見開き、すぐに微笑む。

「はい。シリル殿下がそう言ってくださるだけで」

それ以上は、言わなかった。その控えめな態度が、なおさら残酷だった。

(だめだ)

これは、救いではない。逃避だ。

 それでも――

彼女の前にいる間だけ、自分は「王太子」でも「婚約者」でもなく、ただの未熟な少年でいられる。

その事実が、胸を締めつける。
僕は、拳を握りしめた。

(……僕は、弱い)

弱さを、許してくれる場所に、すがっているだけだ。
そして、その弱さが――いずれ、誰かを深く傷つけることも、もう分かっていた。

それでも、その場を離れることはできなかった。
沈黙の中で、二人は並んで立っていた。

少しも触れていないのに、すでに越えてはいけない一線を、踏み込みかけていることを――二人とも、心のどこかで知りながら。
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