【完結】王太子が「恋がしたい」と言い出したので、公爵令嬢は捨て身の復讐を始めます──みなさままとめて地獄へどうぞ

恋せよ恋

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空席の重さ

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 ヴェルデン公爵家当主サミュエルの婚約者は、ラッセル侯爵家のフランシーヌ嬢。
 十歳で結ばれた婚約は、時間をかけて穏やかに実を結び、今では周囲が羨むほどの信頼関係を築いていた。

 華美ではないが、芯の強い女性だ。
 公爵家当主の妻となる覚悟も、立場も、すでに十分に備えている。

「フランシーヌは、実務の采配が見事でね。式の準備も、僕が口を出す前に整えてしまう」
 サミュエルは苦笑まじりに言った。

「それは……心強いですわね」
 アナスタシアは紅茶を口に運び、静かに微笑んだ。

 家族の中に漂う空気は穏やかだった。
 だが、その穏やかさは、決して無邪気なものではない。
 それぞれが、立場と責任を理解したうえで、選び取ってきた結果の静けさだった。

 アナスタシアは、改めて招待状に目を落とす。

 ローゼンタール王国。
 トルドー公爵家。
 嫡男ライナス、二十歳。

 文字を追うだけで、胸の奥がわずかに緩むのを感じる。

(……ライナスは、お兄様と同じ歳ですものね)

 書面は、必要以上に親しげではない。
 だが、距離を置きすぎてもいない。
 公爵家らしい、節度ある招待状だった。
 断られても構わないという、アナスタシアへの控えめな思いやりが行間に滲んでいる。

「出席するのかい?」
 サミュエルが尋ねる。

「ええ。政務の区切りもつきましたし、正式な訪問として問題ないでしょう。」
 即答だった。
「カトリーヌ伯母様にも、久々にお会いしたいですし」

「ローゼンタールは、君にとっても縁の深い国だ。良い機会だろう」
「ええ。旅行など、する時間はありませんでしたもの……楽しみです」

 そう答えながら、アナスタシアは思う。

 彼女はもう、過去に縋らない。
 だが、過去を否定もしない。

 ただ――今の、等身大の自分として、向き合うだけ。

 兄サミュエルは、妹の横顔をちらりと見た。
 穏やかで、落ち着いている。
 だが、以前よりもどこか、遠い。

(……大人になったな)

 それが誇らしくもあり、少しだけ寂しくもあった。

「旅の準備は、無理のないように。向こうでは、あくまで公爵令嬢としてだ」
「承知しております。ご心配なく」

 アナスタシアは微笑み、招待状を丁寧に閉じた。

 ローゼンタール行きは、逃避ではない。
 新しい始まりでも、決別でもない。

 ただ、普通の貴族令嬢としての旅だ。
 普通ではなかった、アナスタシアにとっては、初めての旅になる。

 その夜。
 アナスタシアは書斎で、旅程を確認しながら、静かに息を整えていた。

(……ローゼンタール王国。他国とは、どんな場所なのかしら)

 招待状は、机の上で静かに存在感を放っている。
 それは呼び声でも、救いでもない。

 ただ――“迎える”という、当たり前の合図だった。
 そして、その合図を受け取る準備は、すでに整っていた。




 アナスタシアは、静かに王家へと書面を提出した。

 内容は簡潔だった。
 ローゼンタール王国への短期訪問にあたり、その期間、王家執務補佐の役を外れること。
 そして――復帰については、帰国後にあらためて相談したい、という一文。

 それだけだった。

 だが、その一枚が、王宮にもたらした動揺は、想像以上に大きかった。

「……待て。外れる、だと?」

 シリルは書面を握りしめたまま、言葉を失った。
 ただの誕生祝いへの出席だ。おそらく、数週間の旅に過ぎない。
 そう理解していても、胸の奥に湧き上がる焦燥は抑えきれなかった。

(もし――戻らなかったら?)

 その可能性を、これまで一度も真剣に考えたことがなかった自分に、気づいてしまったからだ。

 政策立案。
 税制改革。
 流通と関税の見直し。
 教育院整備、地方支援。

 それらはすでに「王家の政策」として動いている。
 だが、その骨格を組み、反対派を説得し、数字と現場を擦り合わせてきたのは――

(……アナスタシア、ただひとりだった)

 王は沈黙し、重臣たちは顔を見合わせた。

「……引き継ぎは?」
「誰が、代わりを?」

 答えは、出なかった。

 その日の夕刻、シリルはコーデリアを呼び出した。
 彼女なら――新たな王太子妃となる彼女なら、アナスタシアの政策を理解し、共に支えてくれるはずだと、どこかで信じていた。

「コーデリア。アナスタシアが進めていた、農地流通改革についてだが……君は、どう思う?」

 柔らかく問いかけたつもりだった。

 だが、返ってきた答えは――

「ええと……農地、ですか? それは……民の方々が大変なのでしょうから、もう少し、思いやりをもって……」

 そこで言葉は途切れた。

 具体案はない。
 数字も、制度も、反対派への対応もない。

 シリルは、言葉を失った。

(……話にならない)

 冷酷な評価が、頭の中で静かに下された。

「では、関税引き下げによる国内産業への影響は?」
「教育院拡充の財源は、どこから?」

 重ねるほどに、答えは曖昧になっていく。

 その瞬間、胸を貫いたのは、怒りではなかった。
 ――恐怖だった。

(僕は……とんでもない間違いを犯したのか?)

 アナスタシアが「補佐」だと、どこかで思っていた。
 自分が中心で、彼女はその隣にいる存在だと。

 だが違う。

 彼女こそが、政策の核だった。
 自分は――その成果の上に立っていただけだった。

(頼む……コーデリア……しっかりしてくれ)

 だが、その願いは、空しく宙に消えた。

 そして、シリルはようやく理解する。

 アナスタシアが王宮を離れるということは、
 「人が一人減る」ことではない。

 ――国を動かしていた意思が、一時、姿を消すということなのだと。

 その夜、シリルは初めて、心から恐れた。

 彼女が旅立つ先が、ただの誕生祝いの訪問では終わらないかもしれないという可能性を。
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