【完結】王太子が「恋がしたい」と言い出したので、公爵令嬢は捨て身の復讐を始めます──みなさままとめて地獄へどうぞ

恋せよ恋

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胸に灯る光

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 アナスタシアは、執務室の机に置いた休職願に、静かに視線を落とした。

(……わたくしが抜ければ、困る。ええ、分かっているわ)

 財政、流通、関税、教育支援。
 今この王宮で、それらを一つの線として理解している者が、ほかにいないことも。

 ――それでも。

(だからこそ、ですわ)

 自分が『必要とされる』ことと、『大切にされる』ことは違う。
 その違いを、彼女は誰よりも思い知っていた。

 書類に署名を終えた指先は、わずかに冷えていたが、表情は崩れなかった。

 謁見の間で、王妃セザンヌはその書類を受け取ったまま、何も言わなかった。
 叱責も、引き留めもない。

 ただ、深く息を吸い、視線を伏せる。

 ――かつて、自分が声を上げられなかった日のように。

 その沈黙が、アナスタシアには何より雄弁だった。
 王妃は理解している。理解しているからこそ、止められないのだ。

 一方で。

「……わ、わたしに、ですか?」

 シリルに問われ、コーデリアは言葉を失った。
 アナスタシアが進めていた政策について意見を求められても、資料の文字が意味を結ばない。

(どうして……こんなに難しいの……?)

 胸の奥に、焦りと劣等感が渦を巻く。
 自分は“選ばれた”はずなのに、選ばれなかった彼女の背中が、こんなにも遠い。

「わたし……民のことは……その……」

 言葉は途切れ、沈黙が落ちる。
 その瞬間、コーデリアは悟ってしまった。

 ――彼女の代わりにはなれない。

 王宮のどこかで、アナスタシアは窓から空を見上げていた。
 誰にも見せない、ほんの一瞬の疲れを胸に抱えながら。

(困ると分かっていても、わたくしは行きます)

 それは復讐でも、逃避でもない。
 自分の心を守るための、最後の選択だった。




 執務室の空気は、重く沈んでいた。

 机の上には、アナスタシアが残した政策案と進捗報告書。
 整然と綴られた文字は、丁寧で、冷静で――そして、あまりにも多い。

「……で、これは誰が引き継ぐ?」

 シリルの問いに、誰も即答できなかった。

 財務官は視線を泳がせ、内政官は資料をめくるだけ。
 それぞれの分野に詳しい者はいる。だが、それらを一つの思想として結び、先を見通す者はいない。

「部分なら……可能です。しかし、全体は……」

 言い淀む声が、答えだった。

 シリルは、唇を噛む。

(……違う。彼女は“作業”をしていたんじゃない)

 アナスタシアは、国を“読んで”いた。
 民の生活、商人の流れ、農村の疲弊、学ぶ場を持てぬ子どもたち――それらを、同時に。

 机に残された注釈の一行が、目に留まる。

――「ここで税を下げれば、三年後に流通が持ち直す。短期の損失に惑わされてはならない」

 誰が、これを決断できる?

(……引き継げない)

 その事実が、ようやく胸に落ちた。

 彼女がいたから回っていた歯車は、代替可能な部品ではなかったのだ。

 そして、遅すぎる問いが浮かぶ。

(僕は……彼女を、何だと思っていたんだ?)





 夜更け。
 王妃セザンヌは、一人、私室に灯りをともしていた。

 机の引き出しから取り出したのは、古い婚約時代の書簡。
 まだ王妃ではなく、ただの「都合の良い選択肢」だった頃の、自分。

(……あの時、声を上げなかった)

 理不尽を、王家の安定だと飲み込み、
 感情を、責務だと言い聞かせた。

 その結果が、今だ。

 静かに、しかし確かに、優れた政治家が王宮を去っていく。

「……アナスタシア」

 名を呼ぶ声に、答えはない。

 彼女は、あの頃の自分と同じ選択を強いられながら――違う道を選んだ。

 だから、誇らしくて。
 だから、止められなくて。
 そして、何よりも――悔しい。

(わたくしが、もっと早く……)

 後悔は、もう取り消せない。

 セザンヌは灯りを落とし、闇の中で目を閉じた。
 王妃としてではなく、一人の女として。

 失われたものの大きさを、噛みしめながら。




 公爵邸の庭は、朝霧に包まれていた。
 薄く光る陽が、石畳に長い影を落とす。空気はひんやりと冷たく、静寂の中に鳥のさえずりだけが響いていた。

 アナスタシアは、軽く羽織を整え、荷物を馬車に積み込む。
 その所作は、普段の穏やかさと変わらない。
 しかし、目の奥にある光はわずかに揺れていた。

(……さあ、行くわ。民のための政策はもう大丈夫。あとは、旅を楽しもう)

 長い間、王宮で過ごした王子妃教育の厳しい日々の記憶が、胸の奥をかすかに疼かせる。
 それでも、初めての旅に胸は高鳴った。アナスタシアにとって、これは新たな希望の始まりだった。



 一方、シリルは執務室に残っていた。
 書類を整理し、王太子としての朝の業務をこなすべきだと自分に言い聞かせる。しかし、ヴェルデン公爵家から旅立つ――馬車に揺られるアナスタシアの姿が、頭から離れなかった。

(……行ってしまうのか……でも、彼女は帰ってくる)

 旅立つアナスタシアを見送りたい。だが、どうしても足が前に出ない。
 彼女を見れば、また自分の胸が締めつけられるのを知っている。
 それが、彼女を縛ることにもなると、心のどこかで理解していた。


 コーデリアもまた、学園の課題を片付ける手を止め、王宮の庭を見ていた。
 まだ彼女には、アナスタシアの存在が、シリルの心の奥に残っていることを認められない。
 それでも、二人の関係性の間で生じる小さな心の揺れに、胸を痛めていた。

 今日、アナスタシアは、ローゼンタール王国へ向けて旅立った。
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