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逃亡者の夜と、温かき粥
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裏ギルドの拉致犯キャリーがアナスタシアを連れ込んだ隠れ家は、ローザリア王都の北の外れの商家の別邸だった。
キャリーは孤児院育ち。裏ギルドの元締めに拾われ、幼い頃から裏稼業のいろはを叩き込まれた。人を殺める方法、騙す術、逃げ延びる術――すべてを叩き込まれ、やがてそれが彼女の日常となった。
今回の仕事も、元締めから割り振られた単なる「依頼」の一つに過ぎない――はずだった。だが、なぜかキャリーには、あの気高い令嬢を「留めおいてはならない」という感覚があった。理由は自分でも分からない。ただ、そう思ったのだ。それ以上の説明は、言葉にできなかった。
「ま、依頼通りに一度は拉致したんだし……いいでしょう」
キャリーは冷笑を浮かべ、アナスタシアが駆け去った方角をじっと見つめた。低く息を吐き、眉をひそめる。心の中では、淡い苛立ちと、奇妙な違和感が渦巻いていた。
(なぜか……あの令嬢には手を出してはいけない――こんな感覚、初めてだわ)
彼女は思わず拳を握りしめる。依頼は依頼、仕事は仕事――それが今までの自分だった。
だが、アナスタシアを見た瞬間、何かが胸の奥に引っかかる。冷たく合理的なはずの裏ギルドの手練れとしての自分が、今、少しだけ迷っているのを感じたのだ。
「さて……どうしようかしら。また罰の折檻が待ってるのか。はあ……最悪だわ」
声には嘲りを含ませながらも、ほんのわずかに、先ほどの違和感の残り香が混じっていた。
暗がりに溶けるアナスタシアの後ろ姿を見つめながら、キャリーはひとつ息をつく。
「……逃げるもよし、留まるもよし。ただし、次に会う時は、私も本気で動くことになるわよ」
彼女は背を向け、再び静寂の中へ身を潜めた。目の前で自由を手にした令嬢――ただの犠牲者ではなく、自ら立ち向かえる存在。その事実を、キャリーは静かに、しかし確かに認めたのだった。
雨上がりの冷たい夜風が、濡れたアンダードレス越しに体温を奪っていく。
アナスタシアは、貴族令嬢の柔らかな肌を枝で裂き、泥に足を取られながらも、必死に闇を歩いた。絹の靴はすでにボロボロになり、素足に近い足裏には、石や棘が容赦なく突き刺さる。激痛が走るたびに呼吸が詰まるが、彼女は止まらなかった。
(止まれば、また囚われの身へと戻ることになる……!)
肺が焼け付くように熱い。もつれる足を、折れそうな意志だけで前へと進める。川沿いの道に出ると、夜の闇はさらに深まった。三日三晩、彼女は歩き続けた。夕暮れが川面を黄金に染め、再び夜が訪れる、また朝日が昇る。泥水を啜り、草木に身を隠しながら。
意識は朦朧とし、視界は端から欠けていく。それでも、その瞳には恐怖を焼き払うほどの知性の光が、消えずに残っていた。
だが、さすがに限界だった。王都の外れ、小さな民家の軒先に辿り着いた瞬間、アナスタシアの糸は切れた。冷たい壁に背を預けたまま、彼女は泥にまみれて深い眠りに落ちた。
「おやおや、こんな別嬪さんが、どうしたのかねえ」
その声で、アナスタシアは弾かれたように目を覚ました。
目の前にいたのは、深く刻まれた皺の中に、底知れぬ慈愛を湛えた老婆だった。
招き入れられた室内には、薪の爆ぜる音と、素朴な粥の香りが満ちていた。
「さあ、召し上がれ。熱いうちにね」
震える手で木匙を取り、粥を口にする。初めて口にする素朴な味わい、喉を通る温かさに、アナスタシアの目から初めて涙が溢れた。
泥を拭い、用意された質素なワンピースに着替える。その間、老婆は何も訊かなかった。ただ、外の暗闇を伺うその眼光には、一介の農婦とは思えぬ鋭さと、何かを覚悟した重みがあった。
(この方は、ただ者ではないのかも……)
アナスタシアが確信した時、老婆は静かに微笑んだ。
温かい粥が胃に落ち、人心地ついたアナスタシアは、ふと自分の首元に手をやった。着替えた質素なワンピースの襟元から、泥に汚れながらも鈍く光る小さなペンダントが覗いている。それは、生母アントワネットが「お守り」として彼女に遺した、唯一の形見だった。
老婆の視線が、そのペンダントに釘付けになる。一瞬、老婆の呼吸が止まったのをアナスタシアは見逃さなかった。
「……お嬢さん。その首飾り……どこで手に入れたんだい?」
老婆の声は、先ほどまでの穏やかさとは打って変わり、震えていた。
アナスタシアは少し警戒しながらも、老婆の瞳に宿る真摯な光に圧され、正直に答えた。
「……亡くなった……母の形見です。私が幼い頃、母から直接授かったもので……」
老婆は、シワだらけの手を口元に当て、信じられないものを見るかのようにアナスタシアを凝視した。そして、彼女の顔立ち、泥にまみれても失われない気高い背筋の伸ばし方、そしてそのペンダントを交互に見つめ、深く、深く息を吐き出した。
「ああ……ああ、なんてことだい……。お嬢さん、どうか、お前さんの名前を……名前を、聞かせておくれでないかい?」
「…… アナスタシア・ヴェルデンと申します」
その名を聞いた瞬間、老婆の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は震える膝を折るようにして、アナスタシアの前に跪いた。
「ああ!やはり、そうでしたか……。その気高さ、そしてそのペンダント。…… アントワネット様が、いつか娘に引き継ぐと仰っていた、あの意匠そのものです」
「母を……母を知っていらっしゃるのですか?」
驚きで声を震わせるアナスタシアに、老婆は自身のしわがれた手で優しく触れた。
「知っているどころではありませんよ。……あたしは、かつてお前さんの母上――アントワネット様に、命を救われた者さ。当時、身を持ち崩して路頭に迷い、赤ん坊を抱えて死を待つだけだったあたしに、手を差し伸べてくださったのがあのお方だった」
老婆の瞳に、遠い日の情景が浮かぶ。
「公爵夫人という高いご身分でありながら、あのお方はお忍びで貧民街へ通われてね。あたしたちみたいな日陰者に、生きるための知恵や資金を分け与えてくださったんだよ。……『いつか、この恩は、私の娘が困っている時に返してくれればいい』って。そう仰って、笑いながらさ」
老婆は震える指先で、アナスタシアの擦り傷の残る手を、そっと撫でた。
「あの時はね、あたしなんかが、アントワネット様のお嬢様に恩返しできる日が来るわけないって、笑っていたんだ。でも……この歳になっても、神様なんて信じちゃいなかったけれど――」
老婆は小さく息をつき、静かに続けた。
「……いるのかもしれないね。こうして、巡り合わせてくれる神様がね……」
「あの日、あのお方が見せてくれた慈愛の光を、片時も忘れたことはない。……まさか、こんな形で恩返しをする日が来ようとはね。お前さんのその強い眼差し、まさしくアントワネット様の生き写しだよ」
アナスタシアの胸に、熱い衝撃が走った。
自分の知る母は、公爵邸の奥で静かに微笑んでいる人だった。けれど、その母は、自分の知らないところで、こうして誰かの絶望を救い、娘である自分のために「未来の味方」を遺してくれていた。
「……母が、そのようなことを……」
「ああ。あたしが今、こうして(裏稼業で) 『婆っちゃ』なんて呼ばれて、(若い衆を束ねて)いられるのも、あのお方が遺してくれた資金と教えがあったからこそさ。……さあ、アナスタシア様。もう何も恐れることはないよ」
( あんたを傷つけようとする奴らは、このあたしが……裏社会の総力を挙げても、地獄の果てまで追い詰めてやるからね)
その言葉が、アナスタシアの胸の最奥に眠っていた記憶の扉を、激しく叩き割った。
母、アントワネット。公爵邸の冷たい空気の中で、幼い自分を抱き寄せ「何があっても、あなたは気高くありなさい」と囁いた、あの寂しげで強い微笑み。
点と点が線で繋がり、血の通った「真実」となって彼女の全身を駆け巡る。
泥水を啜り、棘に裂かれ、独りきりで夜を越えた孤独な逃亡の果て。行き着いた先は、名もなき民家ではなく、亡き母の愛と誇りを今もなお語り継ぐ者の、温かな腕の中だったのだ。
「ああ……」
アナスタシアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは恐怖によるものでも、疲労によるものでもない。
「一人ではなかった」という、剥き出しの衝撃と安堵。目に見えない絆が自分をここまで導いてくれたのだという確信。
「母を……。母のことを、知っていてくださったのですね」
掠れた声で問いかけるアナスタシアの手を、老婆はさらに強く、祈るように握りしめた。
「忘れるものかね。あんたが名乗る前から、その眼差しに宿る『光』があのお方そのものだった。……アナスタシア様。もう、大丈夫だよ」
老婆のしわがれた声は、どんな魔法よりも深く、アナスタシアの凍てついた心を溶かしていった。
闇の中で、かつての“赤子を抱き路頭に迷った女”――今は裏社会の『母』として君臨する老婆の瞳が、亡き恩人の娘を、この世の何よりも尊いものとして見つめ返していた。
深い眠りについたアナスタシアの枕元。先ほどまでの優しい老婆の目が、瞬間的に「裏稼業の母」の鋭い光を放った。
音もなく裏口から忍び込んできた影――それは、かつて数多の命を奪ってきた裏の精鋭だった。
「婆っちゃ、例の令嬢を追ってきた奴らが……」
「静かにおしっ」
老婆の低い一喝に、殺し屋の男が身を竦める。
「この子は、アントワネット様の忘れ形見だ。あたしが命に代えても守る。……追っ手には、この家の一線を越えたらどうなるか、その身に刻んでやりな」
闇の中で、影たちが一斉に膝をつく。
知る由もないアナスタシアの夢の中で、亡き母の面影と、老婆の温かな手が重なり合っていた。
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キャリーは孤児院育ち。裏ギルドの元締めに拾われ、幼い頃から裏稼業のいろはを叩き込まれた。人を殺める方法、騙す術、逃げ延びる術――すべてを叩き込まれ、やがてそれが彼女の日常となった。
今回の仕事も、元締めから割り振られた単なる「依頼」の一つに過ぎない――はずだった。だが、なぜかキャリーには、あの気高い令嬢を「留めおいてはならない」という感覚があった。理由は自分でも分からない。ただ、そう思ったのだ。それ以上の説明は、言葉にできなかった。
「ま、依頼通りに一度は拉致したんだし……いいでしょう」
キャリーは冷笑を浮かべ、アナスタシアが駆け去った方角をじっと見つめた。低く息を吐き、眉をひそめる。心の中では、淡い苛立ちと、奇妙な違和感が渦巻いていた。
(なぜか……あの令嬢には手を出してはいけない――こんな感覚、初めてだわ)
彼女は思わず拳を握りしめる。依頼は依頼、仕事は仕事――それが今までの自分だった。
だが、アナスタシアを見た瞬間、何かが胸の奥に引っかかる。冷たく合理的なはずの裏ギルドの手練れとしての自分が、今、少しだけ迷っているのを感じたのだ。
「さて……どうしようかしら。また罰の折檻が待ってるのか。はあ……最悪だわ」
声には嘲りを含ませながらも、ほんのわずかに、先ほどの違和感の残り香が混じっていた。
暗がりに溶けるアナスタシアの後ろ姿を見つめながら、キャリーはひとつ息をつく。
「……逃げるもよし、留まるもよし。ただし、次に会う時は、私も本気で動くことになるわよ」
彼女は背を向け、再び静寂の中へ身を潜めた。目の前で自由を手にした令嬢――ただの犠牲者ではなく、自ら立ち向かえる存在。その事実を、キャリーは静かに、しかし確かに認めたのだった。
雨上がりの冷たい夜風が、濡れたアンダードレス越しに体温を奪っていく。
アナスタシアは、貴族令嬢の柔らかな肌を枝で裂き、泥に足を取られながらも、必死に闇を歩いた。絹の靴はすでにボロボロになり、素足に近い足裏には、石や棘が容赦なく突き刺さる。激痛が走るたびに呼吸が詰まるが、彼女は止まらなかった。
(止まれば、また囚われの身へと戻ることになる……!)
肺が焼け付くように熱い。もつれる足を、折れそうな意志だけで前へと進める。川沿いの道に出ると、夜の闇はさらに深まった。三日三晩、彼女は歩き続けた。夕暮れが川面を黄金に染め、再び夜が訪れる、また朝日が昇る。泥水を啜り、草木に身を隠しながら。
意識は朦朧とし、視界は端から欠けていく。それでも、その瞳には恐怖を焼き払うほどの知性の光が、消えずに残っていた。
だが、さすがに限界だった。王都の外れ、小さな民家の軒先に辿り着いた瞬間、アナスタシアの糸は切れた。冷たい壁に背を預けたまま、彼女は泥にまみれて深い眠りに落ちた。
「おやおや、こんな別嬪さんが、どうしたのかねえ」
その声で、アナスタシアは弾かれたように目を覚ました。
目の前にいたのは、深く刻まれた皺の中に、底知れぬ慈愛を湛えた老婆だった。
招き入れられた室内には、薪の爆ぜる音と、素朴な粥の香りが満ちていた。
「さあ、召し上がれ。熱いうちにね」
震える手で木匙を取り、粥を口にする。初めて口にする素朴な味わい、喉を通る温かさに、アナスタシアの目から初めて涙が溢れた。
泥を拭い、用意された質素なワンピースに着替える。その間、老婆は何も訊かなかった。ただ、外の暗闇を伺うその眼光には、一介の農婦とは思えぬ鋭さと、何かを覚悟した重みがあった。
(この方は、ただ者ではないのかも……)
アナスタシアが確信した時、老婆は静かに微笑んだ。
温かい粥が胃に落ち、人心地ついたアナスタシアは、ふと自分の首元に手をやった。着替えた質素なワンピースの襟元から、泥に汚れながらも鈍く光る小さなペンダントが覗いている。それは、生母アントワネットが「お守り」として彼女に遺した、唯一の形見だった。
老婆の視線が、そのペンダントに釘付けになる。一瞬、老婆の呼吸が止まったのをアナスタシアは見逃さなかった。
「……お嬢さん。その首飾り……どこで手に入れたんだい?」
老婆の声は、先ほどまでの穏やかさとは打って変わり、震えていた。
アナスタシアは少し警戒しながらも、老婆の瞳に宿る真摯な光に圧され、正直に答えた。
「……亡くなった……母の形見です。私が幼い頃、母から直接授かったもので……」
老婆は、シワだらけの手を口元に当て、信じられないものを見るかのようにアナスタシアを凝視した。そして、彼女の顔立ち、泥にまみれても失われない気高い背筋の伸ばし方、そしてそのペンダントを交互に見つめ、深く、深く息を吐き出した。
「ああ……ああ、なんてことだい……。お嬢さん、どうか、お前さんの名前を……名前を、聞かせておくれでないかい?」
「…… アナスタシア・ヴェルデンと申します」
その名を聞いた瞬間、老婆の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は震える膝を折るようにして、アナスタシアの前に跪いた。
「ああ!やはり、そうでしたか……。その気高さ、そしてそのペンダント。…… アントワネット様が、いつか娘に引き継ぐと仰っていた、あの意匠そのものです」
「母を……母を知っていらっしゃるのですか?」
驚きで声を震わせるアナスタシアに、老婆は自身のしわがれた手で優しく触れた。
「知っているどころではありませんよ。……あたしは、かつてお前さんの母上――アントワネット様に、命を救われた者さ。当時、身を持ち崩して路頭に迷い、赤ん坊を抱えて死を待つだけだったあたしに、手を差し伸べてくださったのがあのお方だった」
老婆の瞳に、遠い日の情景が浮かぶ。
「公爵夫人という高いご身分でありながら、あのお方はお忍びで貧民街へ通われてね。あたしたちみたいな日陰者に、生きるための知恵や資金を分け与えてくださったんだよ。……『いつか、この恩は、私の娘が困っている時に返してくれればいい』って。そう仰って、笑いながらさ」
老婆は震える指先で、アナスタシアの擦り傷の残る手を、そっと撫でた。
「あの時はね、あたしなんかが、アントワネット様のお嬢様に恩返しできる日が来るわけないって、笑っていたんだ。でも……この歳になっても、神様なんて信じちゃいなかったけれど――」
老婆は小さく息をつき、静かに続けた。
「……いるのかもしれないね。こうして、巡り合わせてくれる神様がね……」
「あの日、あのお方が見せてくれた慈愛の光を、片時も忘れたことはない。……まさか、こんな形で恩返しをする日が来ようとはね。お前さんのその強い眼差し、まさしくアントワネット様の生き写しだよ」
アナスタシアの胸に、熱い衝撃が走った。
自分の知る母は、公爵邸の奥で静かに微笑んでいる人だった。けれど、その母は、自分の知らないところで、こうして誰かの絶望を救い、娘である自分のために「未来の味方」を遺してくれていた。
「……母が、そのようなことを……」
「ああ。あたしが今、こうして(裏稼業で) 『婆っちゃ』なんて呼ばれて、(若い衆を束ねて)いられるのも、あのお方が遺してくれた資金と教えがあったからこそさ。……さあ、アナスタシア様。もう何も恐れることはないよ」
( あんたを傷つけようとする奴らは、このあたしが……裏社会の総力を挙げても、地獄の果てまで追い詰めてやるからね)
その言葉が、アナスタシアの胸の最奥に眠っていた記憶の扉を、激しく叩き割った。
母、アントワネット。公爵邸の冷たい空気の中で、幼い自分を抱き寄せ「何があっても、あなたは気高くありなさい」と囁いた、あの寂しげで強い微笑み。
点と点が線で繋がり、血の通った「真実」となって彼女の全身を駆け巡る。
泥水を啜り、棘に裂かれ、独りきりで夜を越えた孤独な逃亡の果て。行き着いた先は、名もなき民家ではなく、亡き母の愛と誇りを今もなお語り継ぐ者の、温かな腕の中だったのだ。
「ああ……」
アナスタシアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは恐怖によるものでも、疲労によるものでもない。
「一人ではなかった」という、剥き出しの衝撃と安堵。目に見えない絆が自分をここまで導いてくれたのだという確信。
「母を……。母のことを、知っていてくださったのですね」
掠れた声で問いかけるアナスタシアの手を、老婆はさらに強く、祈るように握りしめた。
「忘れるものかね。あんたが名乗る前から、その眼差しに宿る『光』があのお方そのものだった。……アナスタシア様。もう、大丈夫だよ」
老婆のしわがれた声は、どんな魔法よりも深く、アナスタシアの凍てついた心を溶かしていった。
闇の中で、かつての“赤子を抱き路頭に迷った女”――今は裏社会の『母』として君臨する老婆の瞳が、亡き恩人の娘を、この世の何よりも尊いものとして見つめ返していた。
深い眠りについたアナスタシアの枕元。先ほどまでの優しい老婆の目が、瞬間的に「裏稼業の母」の鋭い光を放った。
音もなく裏口から忍び込んできた影――それは、かつて数多の命を奪ってきた裏の精鋭だった。
「婆っちゃ、例の令嬢を追ってきた奴らが……」
「静かにおしっ」
老婆の低い一喝に、殺し屋の男が身を竦める。
「この子は、アントワネット様の忘れ形見だ。あたしが命に代えても守る。……追っ手には、この家の一線を越えたらどうなるか、その身に刻んでやりな」
闇の中で、影たちが一斉に膝をつく。
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