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宵闇の鴉が向かう先
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アナスタシアが、父リチャードの墓参りの最中に姿を消したという凶報は、即座にヴェルデン公爵家を揺るがした。
当主サミュエル・ヴェルデンは、報告を聞いた瞬間、手にしていた万年筆を指の中でへし折った。
「アナスタシアが……拉致されただと? 護衛は何をしていた! これで、二度目だぞ!」
怒号に、報告役の騎士は蒼白になり、言葉を失う。
拉致現場に残されていたのは、空の馬車と、石畳に散った血痕だった。護衛と襲撃者が激しく刃を交えた痕跡は明白で、折れた剣、裂けた外套、そして地面に黒く滲んだ血が、その凄惨さを物語っている。
護衛の数名は重傷を負い、生きてはいたものの、当時の状況を断片的に語るのが精一杯だった。一方で、襲撃犯側にも確かに致命傷を与えたはずだという証言がある。それほどの深手であれば、倒れていても不思議ではない――にもかかわらず。
「……死体が、ない」
その事実だけが、現場に不気味な違和感を残していた。大量の血痕がありながら、襲撃者の遺体も、決定的な手がかりも、一切見当たらない。
まるで、傷を負ったまま闇に溶けるように消え去ったかのような、不自然な結末だった。
それから三日――サミュエルは一睡もしていなかった。
私兵を総動員し、街道、墓地周辺、王都近郊、さらには貧民街の外縁にまで捜索網を広げた。
情報は断片的に集まるものの、決定的な手がかりは一つもない。
執務室の机には、地図と報告書が幾重にも重なり、床には徹夜の痕跡がそのまま残っていた。
「少しはお休みくださいませ……」
そう声をかけたのは、婚約者のフランシーヌだった。彼女はこの三日間、公爵家に泊まり込み、黙ってサミュエルを支え続けている。温かな飲み物を差し出し、無言で肩に手を置くだけ――それ以上のことは何も言わなかった。
「……眠れるものか」
サミュエルは低く呟いた。
「妹が……アナスタシアが、今どこにいて、何をされているのかも分からないというのに……」
その時だった。
開け放たれていた窓から、羽音もほとんど立てずに、一羽の黒い鴉が舞い込んできた。それは迷いなく執務机の上へと降り立ち、無造作に一通の書簡を落とす。
宵闇の鴉――裏の世界でのみ使われる、緊急の伝令。
サミュエルの瞳が、初めて鋭く細められた。
「……ようやく、来たか」
三日間、血眼で探し続けた末に辿り着いた、最初の“確かな兆し”だった。
封蝋はない。ただ、そこにはローザリアの闇に生きる者なら誰もが恐れる「宵闇の鴉」の刻印が刻まれていた。
『――アナスタシア様は、我が主の忘れ形見。我ら「鴉」がその身をお預かりした。愚かな依頼主どもへの掃除を始めるゆえ、公爵家は表の始末をつける準備をされたし』
サミュエルは絶句した。妹が裏ギルドの最大勢力に「お預かり」されている。そして、彼らが妹を「忘れ形見」と呼んだ。
(……まさか、母上が遺した繋がりか? だとすれば、アナスタシアを狙った連中は、もはや死人と同じだ)
サミュエルは冷徹な当主の顔を取り戻した。
「……騎士団を動かせ。行き先はグローリー公爵家だ。妹の不在を、あの一族を根絶やしにする大義名分として使うぞ」
一方、ローゼンタール王国。
ライナス・トルドーは、アナスタシアの失踪を知らされてから、まったく眠っていなかった。
その夜明け前、トルドー公爵邸の執務室に、一羽の黒い鴉が舞い降りた。
残されたのは、暗号化された短い急報――《ローザリア王都北方。拉致の可能性高し。続報は直接》
「……屋敷で待つ時間はないな」
ライナスは即座に判断し、身支度も最低限のまま愛馬に跨った。
彼は愛馬を飛ばし、国境付近の宿場町へと向かっていた。そこは、「鴉」の工作員と直接接触するために指定された場所だった。
瞳は充血し、普段の冷静な青年貴族の面影はない。その手は、手綱を握る指先に力が入りすぎ、微かに震えていた。
そこへ、キャリーが音もなく姿を現した。彼女はライナスの前に跪き、老婆から預かった伝言を口にする。
「……ライナス・トルドー様。アナスタシア様からの伝言です」
ライナスが息を呑む。
「『――狩りの時間です』。あの方は、ご自身で復讐の指揮を振るわれる覚悟を決められました」
その言葉を聞いた瞬間、ライナスの顔に、この世のものとは思えないほど美しく、恐ろしい微笑が浮かんだ。絶望が、瞬時にして歓喜を孕んだ殺意へと変質する。
「……そうか。彼女がそう望むなら、俺は彼女の最も忠実な猟犬になろう」
その後、アナスタシア拉致の顛末と三人の依頼主を告げられたライナスの表情が変わった。
「キャリーと言ったな。案内しろ。カノリア公爵家のバーナードの居所は、すでに「鴉」が掴んでいるのだろう?」
「ええ。奴は今、勝利を確信して国境近くの別邸で祝杯をあげていますわ」
「いい酒だ。それが彼の末期の水になるだろう」
ライナスは腰の剣を確かめると、最強と名高いトルドー公爵家の私兵を動員して、夜の闇へと馬を向けた。
アナスタシアの知略と、鴉の牙、そしてライナスの武力。鴉の牙、それは、裏の人々が恐れる、情報の先に待つ、静かな血の結末。
三つの力が合流し、黒幕たちを地獄へ引き摺り下ろすための、凄惨な「狩り」が始まった。
民家の居間では、アナスタシアが老婆――婆っちゃと向かい合い、地図を広げていた。その手には老婆から授かった漆黒の短刀。
「婆っちゃ。グローリー公爵家への攻撃は、まず『金』から始めてください。彼らが裏ギルドへ支払った多額の報酬……その出処が、王宮の公金流用であることを示す証拠を、サミュエル兄様に届けさせます」
「ははあ、なるほどね。鴉が闇から脅し、公爵様が表から公的に首を絞める。逃げ場をなくすわけだ」
「ええ。そしてバーナード様……。あの御方は、私を『飼い慣らす』と仰ったとか。ならば、彼自身が、自分が飼っていた獣、裏ギルドに食い殺される恐怖を味わうべきですわ」
アナスタシアは、地図上のルミナルア国境地点に短刀を突き立てた。
その瞳に迷いはない。守られることを知った令嬢は、今、愛する者たちを汚そうとした世界に対し、最も美しく残酷な復讐者として君臨した。
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当主サミュエル・ヴェルデンは、報告を聞いた瞬間、手にしていた万年筆を指の中でへし折った。
「アナスタシアが……拉致されただと? 護衛は何をしていた! これで、二度目だぞ!」
怒号に、報告役の騎士は蒼白になり、言葉を失う。
拉致現場に残されていたのは、空の馬車と、石畳に散った血痕だった。護衛と襲撃者が激しく刃を交えた痕跡は明白で、折れた剣、裂けた外套、そして地面に黒く滲んだ血が、その凄惨さを物語っている。
護衛の数名は重傷を負い、生きてはいたものの、当時の状況を断片的に語るのが精一杯だった。一方で、襲撃犯側にも確かに致命傷を与えたはずだという証言がある。それほどの深手であれば、倒れていても不思議ではない――にもかかわらず。
「……死体が、ない」
その事実だけが、現場に不気味な違和感を残していた。大量の血痕がありながら、襲撃者の遺体も、決定的な手がかりも、一切見当たらない。
まるで、傷を負ったまま闇に溶けるように消え去ったかのような、不自然な結末だった。
それから三日――サミュエルは一睡もしていなかった。
私兵を総動員し、街道、墓地周辺、王都近郊、さらには貧民街の外縁にまで捜索網を広げた。
情報は断片的に集まるものの、決定的な手がかりは一つもない。
執務室の机には、地図と報告書が幾重にも重なり、床には徹夜の痕跡がそのまま残っていた。
「少しはお休みくださいませ……」
そう声をかけたのは、婚約者のフランシーヌだった。彼女はこの三日間、公爵家に泊まり込み、黙ってサミュエルを支え続けている。温かな飲み物を差し出し、無言で肩に手を置くだけ――それ以上のことは何も言わなかった。
「……眠れるものか」
サミュエルは低く呟いた。
「妹が……アナスタシアが、今どこにいて、何をされているのかも分からないというのに……」
その時だった。
開け放たれていた窓から、羽音もほとんど立てずに、一羽の黒い鴉が舞い込んできた。それは迷いなく執務机の上へと降り立ち、無造作に一通の書簡を落とす。
宵闇の鴉――裏の世界でのみ使われる、緊急の伝令。
サミュエルの瞳が、初めて鋭く細められた。
「……ようやく、来たか」
三日間、血眼で探し続けた末に辿り着いた、最初の“確かな兆し”だった。
封蝋はない。ただ、そこにはローザリアの闇に生きる者なら誰もが恐れる「宵闇の鴉」の刻印が刻まれていた。
『――アナスタシア様は、我が主の忘れ形見。我ら「鴉」がその身をお預かりした。愚かな依頼主どもへの掃除を始めるゆえ、公爵家は表の始末をつける準備をされたし』
サミュエルは絶句した。妹が裏ギルドの最大勢力に「お預かり」されている。そして、彼らが妹を「忘れ形見」と呼んだ。
(……まさか、母上が遺した繋がりか? だとすれば、アナスタシアを狙った連中は、もはや死人と同じだ)
サミュエルは冷徹な当主の顔を取り戻した。
「……騎士団を動かせ。行き先はグローリー公爵家だ。妹の不在を、あの一族を根絶やしにする大義名分として使うぞ」
一方、ローゼンタール王国。
ライナス・トルドーは、アナスタシアの失踪を知らされてから、まったく眠っていなかった。
その夜明け前、トルドー公爵邸の執務室に、一羽の黒い鴉が舞い降りた。
残されたのは、暗号化された短い急報――《ローザリア王都北方。拉致の可能性高し。続報は直接》
「……屋敷で待つ時間はないな」
ライナスは即座に判断し、身支度も最低限のまま愛馬に跨った。
彼は愛馬を飛ばし、国境付近の宿場町へと向かっていた。そこは、「鴉」の工作員と直接接触するために指定された場所だった。
瞳は充血し、普段の冷静な青年貴族の面影はない。その手は、手綱を握る指先に力が入りすぎ、微かに震えていた。
そこへ、キャリーが音もなく姿を現した。彼女はライナスの前に跪き、老婆から預かった伝言を口にする。
「……ライナス・トルドー様。アナスタシア様からの伝言です」
ライナスが息を呑む。
「『――狩りの時間です』。あの方は、ご自身で復讐の指揮を振るわれる覚悟を決められました」
その言葉を聞いた瞬間、ライナスの顔に、この世のものとは思えないほど美しく、恐ろしい微笑が浮かんだ。絶望が、瞬時にして歓喜を孕んだ殺意へと変質する。
「……そうか。彼女がそう望むなら、俺は彼女の最も忠実な猟犬になろう」
その後、アナスタシア拉致の顛末と三人の依頼主を告げられたライナスの表情が変わった。
「キャリーと言ったな。案内しろ。カノリア公爵家のバーナードの居所は、すでに「鴉」が掴んでいるのだろう?」
「ええ。奴は今、勝利を確信して国境近くの別邸で祝杯をあげていますわ」
「いい酒だ。それが彼の末期の水になるだろう」
ライナスは腰の剣を確かめると、最強と名高いトルドー公爵家の私兵を動員して、夜の闇へと馬を向けた。
アナスタシアの知略と、鴉の牙、そしてライナスの武力。鴉の牙、それは、裏の人々が恐れる、情報の先に待つ、静かな血の結末。
三つの力が合流し、黒幕たちを地獄へ引き摺り下ろすための、凄惨な「狩り」が始まった。
民家の居間では、アナスタシアが老婆――婆っちゃと向かい合い、地図を広げていた。その手には老婆から授かった漆黒の短刀。
「婆っちゃ。グローリー公爵家への攻撃は、まず『金』から始めてください。彼らが裏ギルドへ支払った多額の報酬……その出処が、王宮の公金流用であることを示す証拠を、サミュエル兄様に届けさせます」
「ははあ、なるほどね。鴉が闇から脅し、公爵様が表から公的に首を絞める。逃げ場をなくすわけだ」
「ええ。そしてバーナード様……。あの御方は、私を『飼い慣らす』と仰ったとか。ならば、彼自身が、自分が飼っていた獣、裏ギルドに食い殺される恐怖を味わうべきですわ」
アナスタシアは、地図上のルミナルア国境地点に短刀を突き立てた。
その瞳に迷いはない。守られることを知った令嬢は、今、愛する者たちを汚そうとした世界に対し、最も美しく残酷な復讐者として君臨した。
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