恋していたのは私だけ、十年の献身を清算します 〜幼馴染の女の子に頼られたい婚約者〜

恋せよ恋

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初恋の温度

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 窓の外を流れる王都の景色は、春の柔らかな光に満ちている。
 クロム伯爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車のなか、ヘンリエッタは隣に座る少年の横顔をそっと盗み見た。

 明るい茶髪に、陽光を反射して輝く濃い茶色の瞳。ジャイロ子爵家の次男、デビット。
 彼はヘンリエッタにとって、十歳の頃から定められた婚約者であり、そして――たった一人の初恋の相手だった。

「ヘンリエッタ、昨日の歴史の課題、あそこが難しくてさ。また教えてくれるだろ?」
 デビットが屈託のない笑みを浮かべてこちらを向く。

 ヘンリエッタは、胸の奥が温かくなるのを感じながら、控えめに微笑み返した。
「ええ、もちろんですわ、デビット様。放課後、図書室でお待ちしておりますね」

「助かるよ! やっぱり君は最高だ。母上も言ってたんだ、『ヘンリエッタ嬢はあなたのことが大好きだから、甘えても大丈夫よ』ってさ」
 デビットは上機嫌に、彼女の肩に軽く手を置いた。

 ヘンリエッタは、その言葉に僅かな気恥ずかしさと、小さな違和感を覚える。
 『大好きだから、甘えてもいい』……?

 それは確かに事実だった。ヘンリエッタはこの七年間、成績が振るわない彼のために家庭教師役を引き受け、社交界での振る舞いに自信がない彼のために、常に一歩引いて彼を立ててきた。彼に相応しい婚約者であるために、自身の身だしなみや教養にも一切の妥協はしていない。

(デビット様が、私の愛を信じてくださっているのは嬉しいけれど……)

 けれど、時折彼が見せるその「当然だ」と言わんばかりの態度は、ヘンリエッタの心の端を少しずつ、冷たい風でなぞるようでもあった。

 学園に到着すると、馬車の扉が開かれる。
 本来ならば、婚約者であるデビットが先に降りてヘンリエッタの手を取るのがマナーだ。しかし、彼は馬車が止まるやいなや「じゃあ、また後でな!」と軽やかに飛び降り、友人たちの元へ駆け寄っていってしまった。

 取り残されたヘンリエッタは、苦笑して自らステップを降りる。

 そんな姉の様子を、後続の馬車から降りてきた十五歳の妹、キャサリンが鋭い目で見つめていた。
「お姉様! またデビット様ったら……。エスコートもなしに先に行ってしまうなんて、伯爵家の令嬢に対する不敬ですわ!」

「いいのよ、キャサリン。デビット様はああいう、飾らないお方なのだから」
「飾らないのと、無作法なのは違います! お姉様が甘やかすから、あの方は自分を王子様か何かだと勘違いなさるのよ」
 ぷんぷんと怒る妹をなだめながら、ヘンリエッタは校舎へと向かう。

 ヘンリエッタは学園でも常に上位五番以内を維持する才女だ。一方のデビットは、かろうじて上位クラスを逃した三十位前後。クラスも分かれており、接点は登下校の馬車と放課後の時間だけだった。

 廊下を歩けば、周囲の生徒たちがヘンリエッタに羨望の眼差しを向ける。
 整ったヘーゼルの瞳、手入れの行き届いた茶色の髪。クロム伯爵家の嫡子としての品格。
 しかし、その視線のなかに、時折混ざる同情の色を、ヘンリエッタは気づかない振りをしていた。

『ヘンリエッタ様は、どうしてあんなジャイロ家の次男坊に尽くされるのかしら』
『惚れた弱みってやつでしょう。ジャイロ子爵夫人も吹聴しているわ、あの子はうちの息子に夢中なのよって』

 そんな陰口が耳に入っても、ヘンリエッタはただ、自分に言い聞かせる。

 彼は、私がいないと駄目なのだ。
 あの明るい笑顔を守れるのは、私だけなのだと。

 しかし、その平穏は、ある「変化」によって音を立てて崩れ始めることになる。
 
 学園三年生に進級したその日。
 ヘンリエッタの視界に飛び込んできたのは、かつて幼い頃に一度だけ会ったことのある、可憐な少女の姿だった。

 アルバータ伯爵令嬢として学園に通っていたはずの、コレット伯爵令嬢。
 だが、その日の彼女が纏っていたのは、伯爵家の豪奢な制服ではなく、どこか古びた、身分を一つ落とした男爵令嬢としての慎ましい装いだった。

 そして、そのコレットの肩を、誰よりも優しく抱き寄せているのは……。

「――デビット、様?」

 ヘンリエッタの喉から、乾いた声が漏れた。

 初恋の温度が、一瞬にして冷めていく予感を、彼女はこの時まだ否定しようとしていた。
___________

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