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新しい契約
ライト侯爵邸の応接室。先ほどまで怒号と嗚咽が渦巻いていた部屋は、ジェームズ様が騎士たちに連れ出されたことで、静寂を取り戻していた。
マイケル侯爵は深く椅子に背を預け、まるですべての気力を使い果たしたかのように目を閉じている。
「……ヘンリーを呼んでくれ」
侯爵の低い声に応じ、扉が開いた。
入ってきたのは、十五歳のヘンリー様だった。彼は室内の重苦しい空気や、床に残されたわずかな血痕——ジェームズ様が殴られた際のもの——に眉ひとつ動かさず、ただ真っ直ぐに私を見つめて歩み寄ってきた。
「父上、お呼びでしょうか」
「……ああ。ヘンリー、先ほどサブリナ嬢とフォックス卿の前で宣言した通り、私はジェームズを廃嫡とする。本日より、お前がライト侯爵家の嫡男だ。……異論はあるか」
ヘンリー様は一瞬だけ、軽蔑の色を隠さずに兄が座っていた空席を一瞥した。
「異論などありません。あのような痴れ者に家を継がせれば、ライト家の名は一代で泥にまみれたことでしょう。……僕が、すべてを立て直します」
その声には、十五歳とは思えぬほどの冷徹な決意と、当主としての自覚が宿っていた。
マイケル侯爵は力なく頷き、私と父ダニエルに向き直った。
「ダニエル卿。……そしてサブリナ嬢。改めて提案したい。ライト侯爵家は、不祥事を起こしたジェームズとの縁談を白紙にし、新嫡男となったヘンリーとの再婚約を申し入れたい。もちろん、サブリナ嬢が望まぬのであれば、白紙のまま慰謝料をお支払いする。だが……我が家としては、貴女のような気高く優秀な淑女を失いたくないのだ」
父ダニエルは、私をじっと見つめた。
「サブリナ。お前の心はどうだ? 一度汚された縁談だ。無理に受ける必要はない。フォックス家はお前を全力で守る」
私は、ヘンリー様を見上げた。
彼は、緊張した面持ちで私の返事を待っていた。その瞳は、先ほどまでの冷徹な光とは違い、どこか祈るような熱を帯びている。
「……ヘンリー様。お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何なりと、サブリナ様」
「私は、ジェームズ様の婚約者でした。そして、あの『気持ち悪い』日々を一番近くで見ていた女です。……世間は私を、嫡男に捨てられ、次男に乗り換えた執念深い女と見るかもしれません。それでも、貴方は私を望んでくださるのですか?」
ヘンリー様は、私の前に膝をついた。
侯爵や伯爵の前であることも厭わず、彼は私の手を取り、その指先に恭しく唇を寄せた。
「……サブリナ様。僕は、兄の『代役』として貴女を求めているのではありません。ましてや、家格を維持するための道具としてでもない」
彼は顔を上げ、私のオリーブの瞳を射抜くように見つめた。
「僕は、あなたがフォックス伯爵家の令嬢だから愛しているのではない。……あの見合いの日、兄がリリアンの我が儘に同調してあなたを蔑ろにしていた時。あなたが凛として背筋を伸ばし、その瞳に決して屈しない意志を宿していた……あの瞬間から、僕はあなたに恋をしていたのです」
真っ直ぐな、熱い告白だった。
ジェームズ様がリリアン様に囁いていた、あの粘つくような甘言とは違う。
重みがあり、覚悟があり、そして何より「清潔な」愛。
「兄があなたに与えた屈辱は、僕が一生をかけて、敬意と慈しみで塗り替えてみせます。……代役などではない。僕にとって、サブリナ・フォックスという女性は、唯一無二の光なのです。どうか、僕の隣に立ってはいただけませんか?」
胸の奥が、温かいもので満たされていくのを感じた。
これまで、誰にも理解されない「気持ち悪さ」に一人で耐えてきた。けれど、この少年だけは、同じ地獄を見つめ、私の誇りを誰よりも尊重してくれていた。
私は、そっと彼の手に力を込めた。
「……ヘンリー様。私、あの方の隣にいた時、自分が汚れていくような気がして仕方がなかったのです。……でも、貴方の手はとても温かくて、澄んでいますわ」
私は微笑んだ。仮面の淑女としての微笑みではなく、心からの光を宿した笑みを。
「喜んで、お受けいたします。ヘンリー・ライト様。……貴方となら、新しい風の吹くライト侯爵家を、共に築いていける気がいたします」
「……っ、ありがとうございます、サブリナ様!」
ヘンリー様の顔が、年相応の少年のように輝いた。
マイケル侯爵は安堵の溜息をつき、父ダニエルもまた、ようやく満足げに頷いた。
「よし、決まりだ。……新しい婚約の契約書を作成しよう。今度は、一ミリの不純物も混ざらぬよう、私が自ら筆を執る」
マイケル侯爵の言葉に、部屋の空気がようやく解きほぐされていく。
その時。
階上から、何かが割れるような激しい音と、金切り声が聞こえてきた。
「嫌よ! お義兄様が廃嫡なんて信じないわ! 私の将来はどうなるのよ!?」
リリアン様の声だ。
ジェームズ様が力を失ったと知り、パニックに陥っているのだろう。
かつてなら、私はその声に胃が痛むような思いをしたかもしれない。けれど、今の私の隣には、私の手を力強く握りしめるヘンリー様がいる。
「……サブリナ様、あの声は気になさらないでください」
ヘンリー様は冷徹な、けれど私には優しい声で言った。
「あの者たちは、自分たちで選んだ『泥沼』の中で、一生もがけばいい。僕たちは、光の中へ行きましょう」
「ええ。……はい、ヘンリー様」
契約は結ばれた。
それは、過去を清算し、自分自身を大切にするための、輝かしい「新しい契約」だった。
窓の外では、春の風が不浄な空気を追い出すように、強く、心地よく吹き抜けていた。
__________
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マイケル侯爵は深く椅子に背を預け、まるですべての気力を使い果たしたかのように目を閉じている。
「……ヘンリーを呼んでくれ」
侯爵の低い声に応じ、扉が開いた。
入ってきたのは、十五歳のヘンリー様だった。彼は室内の重苦しい空気や、床に残されたわずかな血痕——ジェームズ様が殴られた際のもの——に眉ひとつ動かさず、ただ真っ直ぐに私を見つめて歩み寄ってきた。
「父上、お呼びでしょうか」
「……ああ。ヘンリー、先ほどサブリナ嬢とフォックス卿の前で宣言した通り、私はジェームズを廃嫡とする。本日より、お前がライト侯爵家の嫡男だ。……異論はあるか」
ヘンリー様は一瞬だけ、軽蔑の色を隠さずに兄が座っていた空席を一瞥した。
「異論などありません。あのような痴れ者に家を継がせれば、ライト家の名は一代で泥にまみれたことでしょう。……僕が、すべてを立て直します」
その声には、十五歳とは思えぬほどの冷徹な決意と、当主としての自覚が宿っていた。
マイケル侯爵は力なく頷き、私と父ダニエルに向き直った。
「ダニエル卿。……そしてサブリナ嬢。改めて提案したい。ライト侯爵家は、不祥事を起こしたジェームズとの縁談を白紙にし、新嫡男となったヘンリーとの再婚約を申し入れたい。もちろん、サブリナ嬢が望まぬのであれば、白紙のまま慰謝料をお支払いする。だが……我が家としては、貴女のような気高く優秀な淑女を失いたくないのだ」
父ダニエルは、私をじっと見つめた。
「サブリナ。お前の心はどうだ? 一度汚された縁談だ。無理に受ける必要はない。フォックス家はお前を全力で守る」
私は、ヘンリー様を見上げた。
彼は、緊張した面持ちで私の返事を待っていた。その瞳は、先ほどまでの冷徹な光とは違い、どこか祈るような熱を帯びている。
「……ヘンリー様。お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何なりと、サブリナ様」
「私は、ジェームズ様の婚約者でした。そして、あの『気持ち悪い』日々を一番近くで見ていた女です。……世間は私を、嫡男に捨てられ、次男に乗り換えた執念深い女と見るかもしれません。それでも、貴方は私を望んでくださるのですか?」
ヘンリー様は、私の前に膝をついた。
侯爵や伯爵の前であることも厭わず、彼は私の手を取り、その指先に恭しく唇を寄せた。
「……サブリナ様。僕は、兄の『代役』として貴女を求めているのではありません。ましてや、家格を維持するための道具としてでもない」
彼は顔を上げ、私のオリーブの瞳を射抜くように見つめた。
「僕は、あなたがフォックス伯爵家の令嬢だから愛しているのではない。……あの見合いの日、兄がリリアンの我が儘に同調してあなたを蔑ろにしていた時。あなたが凛として背筋を伸ばし、その瞳に決して屈しない意志を宿していた……あの瞬間から、僕はあなたに恋をしていたのです」
真っ直ぐな、熱い告白だった。
ジェームズ様がリリアン様に囁いていた、あの粘つくような甘言とは違う。
重みがあり、覚悟があり、そして何より「清潔な」愛。
「兄があなたに与えた屈辱は、僕が一生をかけて、敬意と慈しみで塗り替えてみせます。……代役などではない。僕にとって、サブリナ・フォックスという女性は、唯一無二の光なのです。どうか、僕の隣に立ってはいただけませんか?」
胸の奥が、温かいもので満たされていくのを感じた。
これまで、誰にも理解されない「気持ち悪さ」に一人で耐えてきた。けれど、この少年だけは、同じ地獄を見つめ、私の誇りを誰よりも尊重してくれていた。
私は、そっと彼の手に力を込めた。
「……ヘンリー様。私、あの方の隣にいた時、自分が汚れていくような気がして仕方がなかったのです。……でも、貴方の手はとても温かくて、澄んでいますわ」
私は微笑んだ。仮面の淑女としての微笑みではなく、心からの光を宿した笑みを。
「喜んで、お受けいたします。ヘンリー・ライト様。……貴方となら、新しい風の吹くライト侯爵家を、共に築いていける気がいたします」
「……っ、ありがとうございます、サブリナ様!」
ヘンリー様の顔が、年相応の少年のように輝いた。
マイケル侯爵は安堵の溜息をつき、父ダニエルもまた、ようやく満足げに頷いた。
「よし、決まりだ。……新しい婚約の契約書を作成しよう。今度は、一ミリの不純物も混ざらぬよう、私が自ら筆を執る」
マイケル侯爵の言葉に、部屋の空気がようやく解きほぐされていく。
その時。
階上から、何かが割れるような激しい音と、金切り声が聞こえてきた。
「嫌よ! お義兄様が廃嫡なんて信じないわ! 私の将来はどうなるのよ!?」
リリアン様の声だ。
ジェームズ様が力を失ったと知り、パニックに陥っているのだろう。
かつてなら、私はその声に胃が痛むような思いをしたかもしれない。けれど、今の私の隣には、私の手を力強く握りしめるヘンリー様がいる。
「……サブリナ様、あの声は気になさらないでください」
ヘンリー様は冷徹な、けれど私には優しい声で言った。
「あの者たちは、自分たちで選んだ『泥沼』の中で、一生もがけばいい。僕たちは、光の中へ行きましょう」
「ええ。……はい、ヘンリー様」
契約は結ばれた。
それは、過去を清算し、自分自身を大切にするための、輝かしい「新しい契約」だった。
窓の外では、春の風が不浄な空気を追い出すように、強く、心地よく吹き抜けていた。
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