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王立学園入学と「平民」のレッテル
王立学園の正門を潜る馬車は、どれもが金細工を施された豪華なものだった。しかし、その中でも一際異彩を放つのは、カークランド公爵家の紋章を刻んだ漆黒の馬車である。
車内では、デイジーが最後の手入れとして、見慣れた眼鏡を耳にかけ、落ち着いた茶色のカツラを整えていた。
「お嬢様。本当に、そのお姿で行かれるのですか?」
家令のセバスチャンが懸念を隠しきれない様子で問いかける。今のデイジーは、公爵邸を掌握した「黄金の令嬢」ではなく、再び地味な平民の娘へと偽装されていた。
「ええ。今のわたくしは、公爵家が商会の金で無理やりねじ込んだ『成金令嬢』に見えればそれでいいの。敵を欺くには、まず味方から。……それに、学園の連中が何を基準に人を判断するのか、じっくり観察させてもらうわ」
馬車の扉が開くと、貴族子女たちの好奇と侮蔑が入り混じった視線が突き刺さった。
学園という場所は、公爵邸よりもさらに露骨な階級社会だった。特に、実力行使で黙らせることができた使用人たちとは違い、ここにいるのは特権意識を肥大させた貴族の子供たちだ。彼らにとって、由緒正しき公爵家を「平民の血」が汚すことは、許しがたい冒涜に映っていた。
デイジーはそれらを春風のように受け流し、講堂へと向かった。
式典の最中も、デイジーの周囲だけはぽっかりと空白ができていた。
「見て、あれが……平民出身の公爵令嬢よ?」
「まあ、あんな地味な子が。カークランド公爵家も落ちたものね」
そんな中、壇上に一人の青年が現れた瞬間、会場の空気が一変した。
「アンドリュー王太子殿下よ……!」
流れるようなプラチナブロンドに、氷のように冷徹な青い瞳。この国の次期統治者であり、圧倒的なカリスマを持つアンドリュー。
デイジーは眼鏡の奥で彼を見つめ、首を傾げた。
(……どこかで見たことがあるような? いいえ、気のせいね。あんな高貴な方と、平民だったわたくしに接点があるはずがないわ)
デイジーは、かつて市井でお忍びの彼と会ったことなど、露ほども覚えていなかった。
一方、壇上のアンドリューは、祝辞を述べながらも、無意識に会場の隅々を検分していた。
(……いない。あの、向日葵のように笑い、私の正体を知らずに『貴方の価値は、着ている服ではなく、その手で何を成すかで決まるのよ』と生意気に言い放った少女は)
三年前。退屈な公務の合間を縫い、護衛を一人だけ連れてお忍びで下町へ降りた彼は、ある「事件」に目を奪われた。
路地裏の果物屋で、筋骨逞しい破落戸を相手に、一歩も引かずにまくし立てる少女がいたのだ。不当な値切り交渉をふっかけてくる大男に対し、彼女は怯えるどころか、算盤を武器のように構え、舌先三寸でその矛盾を鮮やかに突き崩していく。
「あんた、自分の脳みその腐り具合を棚に上げて、林檎の傷を語るなんて百年早いわよ!」
その場にいた誰もが固まる中、彼女だけが勝ち誇ったように笑っていた。
正体を隠し、呆然と立ち尽くしていたアンドリューに気づくと、彼女は屈託のない笑みを向けてきた。
「あ、そこのお兄さん。良い目をしてるけど、少し世間知らずな顔ね。……ほら、これ。騒がせたお詫びじゃないけど、安くて美味いから食べていきなさいな」
彼女が差し出したのは、真っ赤に熟した林檎だった。
この国の主である自分に対し、物怖じせず、対等な人間として林檎を「奢る」と言い切った少女。高貴な身分という鎧を剥ぎ取り、一人の男としての本質を見抜かれたような衝撃が、アンドリューの胸を貫いた。
それは、彼が人生で初めて経験した「恋」という名の熱病だった。
以来、彼は執務の隙を突いては、市井へ足を運んだ。名前さえ知らない彼女との、商売の裏話や世間話に興じる時間は、宮廷のどんな豪華な晩餐よりも彼を潤した。
だが、再会を誓い合ったある日。彼女は店ごと、まるで幻であったかのように忽然と姿を消してしまったのだ。
式典後の新入生歓迎パーティー。
デイジーは壁際で一人、冷めたカナッペを手に取ろうとした。
「あら、ごめんなさい。あまりに地味だから、そこに影があるのかと思ってしまいましたわ」
侯爵令嬢を筆頭とする集団が、デイジーを嘲笑う。
「平民の娘が、どんな手を使って公爵家に入り込んだのかしら?」
「どうせ、商会の汚い金で爵位を買い叩いたのでしょう。恥を知りなさいな」
デイジーは静かにカナッペを戻し、眼鏡を指で押し上げた。
「バークレー侯爵令嬢カタリナ様でしたかしら。貴女のその扇、骨の細工が甘いわ。それにそのシルク、昨年の在庫処分品でしょう? ……真実を見極める目をお持ちでない方が、わたくしの出自を論じるなど、滑稽極まりない話ですわ」
「……あっ、あなた! 平民の分際で!」
逆上した令嬢がグラスのワインをぶちまけようとした、その時。
「学園内での『差別』騒ぎは禁じられているはずだが?」
低く、地を這うような声が響いた。
アンドリュー王太子だった。令嬢たちは顔を蒼白にし、慌てて膝を折る。
アンドリューは彼女たちを一瞥だにせず、ただデイジーを見つめた。
デイジーは反射的に目を伏せる。今の姿で、この瞳を見られるわけにはいかない。
「……君か。カークランド公爵家に入ったという娘は」
「はい。お初にお目にかかります。アンドリュー王太子殿下に、カークランド公爵家が嫡子デイジーがご挨拶申し上げます」
デイジーは完璧な淑女の礼を見せた。それは、カツラを被った平民の娘には不釣り合いなほど、洗練された動作だった。
アンドリューの眉が、ピクリと動く。
(……この声、この不敵な立ち振る舞い。どこかで……?)
アンドリューはデイジーを射抜くように見つめた。
三年前、下町で出会ったあの少女も、今の彼女と同じような茶色の髪をしていた。だが、あの時の彼女は、もっと生命力に溢れ、その瞳は晴れやかな青い輝きを放っていたはずだ。
対して、目の前の少女の瞳は、分厚い眼鏡の奥に沈み、まるで光を拒絶しているかのように無機質で暗い。
「……君の礼法は、付け焼刃ではないようだな。頑張りたまえ」
アンドリューは冷たく翻って去っていった。
デイジーは、王太子の背中を見送りながら眼鏡を指で押し上げた。
( それにしても、お貴族様というのは、どの方も自分を中心に世界が回っていると思っているのかしらね)
デイジーは、王太子の関心を引いたとしてさらに険しくなった周囲の視線を鼻で笑い、学園という戦場へ最初の一歩を記した。
___________
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車内では、デイジーが最後の手入れとして、見慣れた眼鏡を耳にかけ、落ち着いた茶色のカツラを整えていた。
「お嬢様。本当に、そのお姿で行かれるのですか?」
家令のセバスチャンが懸念を隠しきれない様子で問いかける。今のデイジーは、公爵邸を掌握した「黄金の令嬢」ではなく、再び地味な平民の娘へと偽装されていた。
「ええ。今のわたくしは、公爵家が商会の金で無理やりねじ込んだ『成金令嬢』に見えればそれでいいの。敵を欺くには、まず味方から。……それに、学園の連中が何を基準に人を判断するのか、じっくり観察させてもらうわ」
馬車の扉が開くと、貴族子女たちの好奇と侮蔑が入り混じった視線が突き刺さった。
学園という場所は、公爵邸よりもさらに露骨な階級社会だった。特に、実力行使で黙らせることができた使用人たちとは違い、ここにいるのは特権意識を肥大させた貴族の子供たちだ。彼らにとって、由緒正しき公爵家を「平民の血」が汚すことは、許しがたい冒涜に映っていた。
デイジーはそれらを春風のように受け流し、講堂へと向かった。
式典の最中も、デイジーの周囲だけはぽっかりと空白ができていた。
「見て、あれが……平民出身の公爵令嬢よ?」
「まあ、あんな地味な子が。カークランド公爵家も落ちたものね」
そんな中、壇上に一人の青年が現れた瞬間、会場の空気が一変した。
「アンドリュー王太子殿下よ……!」
流れるようなプラチナブロンドに、氷のように冷徹な青い瞳。この国の次期統治者であり、圧倒的なカリスマを持つアンドリュー。
デイジーは眼鏡の奥で彼を見つめ、首を傾げた。
(……どこかで見たことがあるような? いいえ、気のせいね。あんな高貴な方と、平民だったわたくしに接点があるはずがないわ)
デイジーは、かつて市井でお忍びの彼と会ったことなど、露ほども覚えていなかった。
一方、壇上のアンドリューは、祝辞を述べながらも、無意識に会場の隅々を検分していた。
(……いない。あの、向日葵のように笑い、私の正体を知らずに『貴方の価値は、着ている服ではなく、その手で何を成すかで決まるのよ』と生意気に言い放った少女は)
三年前。退屈な公務の合間を縫い、護衛を一人だけ連れてお忍びで下町へ降りた彼は、ある「事件」に目を奪われた。
路地裏の果物屋で、筋骨逞しい破落戸を相手に、一歩も引かずにまくし立てる少女がいたのだ。不当な値切り交渉をふっかけてくる大男に対し、彼女は怯えるどころか、算盤を武器のように構え、舌先三寸でその矛盾を鮮やかに突き崩していく。
「あんた、自分の脳みその腐り具合を棚に上げて、林檎の傷を語るなんて百年早いわよ!」
その場にいた誰もが固まる中、彼女だけが勝ち誇ったように笑っていた。
正体を隠し、呆然と立ち尽くしていたアンドリューに気づくと、彼女は屈託のない笑みを向けてきた。
「あ、そこのお兄さん。良い目をしてるけど、少し世間知らずな顔ね。……ほら、これ。騒がせたお詫びじゃないけど、安くて美味いから食べていきなさいな」
彼女が差し出したのは、真っ赤に熟した林檎だった。
この国の主である自分に対し、物怖じせず、対等な人間として林檎を「奢る」と言い切った少女。高貴な身分という鎧を剥ぎ取り、一人の男としての本質を見抜かれたような衝撃が、アンドリューの胸を貫いた。
それは、彼が人生で初めて経験した「恋」という名の熱病だった。
以来、彼は執務の隙を突いては、市井へ足を運んだ。名前さえ知らない彼女との、商売の裏話や世間話に興じる時間は、宮廷のどんな豪華な晩餐よりも彼を潤した。
だが、再会を誓い合ったある日。彼女は店ごと、まるで幻であったかのように忽然と姿を消してしまったのだ。
式典後の新入生歓迎パーティー。
デイジーは壁際で一人、冷めたカナッペを手に取ろうとした。
「あら、ごめんなさい。あまりに地味だから、そこに影があるのかと思ってしまいましたわ」
侯爵令嬢を筆頭とする集団が、デイジーを嘲笑う。
「平民の娘が、どんな手を使って公爵家に入り込んだのかしら?」
「どうせ、商会の汚い金で爵位を買い叩いたのでしょう。恥を知りなさいな」
デイジーは静かにカナッペを戻し、眼鏡を指で押し上げた。
「バークレー侯爵令嬢カタリナ様でしたかしら。貴女のその扇、骨の細工が甘いわ。それにそのシルク、昨年の在庫処分品でしょう? ……真実を見極める目をお持ちでない方が、わたくしの出自を論じるなど、滑稽極まりない話ですわ」
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逆上した令嬢がグラスのワインをぶちまけようとした、その時。
「学園内での『差別』騒ぎは禁じられているはずだが?」
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アンドリュー王太子だった。令嬢たちは顔を蒼白にし、慌てて膝を折る。
アンドリューは彼女たちを一瞥だにせず、ただデイジーを見つめた。
デイジーは反射的に目を伏せる。今の姿で、この瞳を見られるわけにはいかない。
「……君か。カークランド公爵家に入ったという娘は」
「はい。お初にお目にかかります。アンドリュー王太子殿下に、カークランド公爵家が嫡子デイジーがご挨拶申し上げます」
デイジーは完璧な淑女の礼を見せた。それは、カツラを被った平民の娘には不釣り合いなほど、洗練された動作だった。
アンドリューの眉が、ピクリと動く。
(……この声、この不敵な立ち振る舞い。どこかで……?)
アンドリューはデイジーを射抜くように見つめた。
三年前、下町で出会ったあの少女も、今の彼女と同じような茶色の髪をしていた。だが、あの時の彼女は、もっと生命力に溢れ、その瞳は晴れやかな青い輝きを放っていたはずだ。
対して、目の前の少女の瞳は、分厚い眼鏡の奥に沈み、まるで光を拒絶しているかのように無機質で暗い。
「……君の礼法は、付け焼刃ではないようだな。頑張りたまえ」
アンドリューは冷たく翻って去っていった。
デイジーは、王太子の背中を見送りながら眼鏡を指で押し上げた。
( それにしても、お貴族様というのは、どの方も自分を中心に世界が回っていると思っているのかしらね)
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