身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜

恋せよ恋

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綻びる封印

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 リヒャルト様の執拗なまでのアプローチは、日に日にその頻度と狂気を増していった。
 毎日届けられる一輪の白薔薇。私が図書館で手に取った本を、翌日にはすべて初版本で買い揃えて寄贈してくる財力。そして、決して私の視界から消えない彼の影。

 私の生活は、彼という強大な重力に引き寄せられ、少しずつ歪み始めていた。けれど、何よりも私を追い詰めたのは、彼ではなく、私自身の身体だった。

「……っ、また……」
 図書館の書庫で、私は激しい眩暈に襲われ、棚に手をついた。

 最近、特定の「音」や「匂い」に過剰に反応してしまう。雨の音、馬車の車輪が石畳を叩く音、そして――百合の香り。

 忘れたはずの記憶が、真っ白なキャンバスに黒いインクを零したように、じわりと滲み出していた。断片的な情景が、脈絡もなく脳裏をかすめる。

 幸せそうに笑う私の横顔。それを見つめる、今よりもずっと穏やかだったリヒャルト様の瞳。そして、その背後に潜む、蛇のような伯母の視線。

「エリカ、顔色が悪いわ。今日はもう帰りなさい」
 同僚に促され、私は逃げるように図書館を後にした。

 外はあいにくの雨だった。二年前、私がすべてを失ったあの日と同じ、冷たい雨。迎えの馬車を待つ間、私は軒下で雨粒を眺めていた。

 すると、雨音に混じって、聞き慣れた、けれど今は聞きたくない足音が近づいてきた。
「エリカ。……顔色が悪い。傘を持っていないのかい?」
 リヒャルト様だった。彼は自分の上着を脱ぎ、迷わず私の肩にかけた。

 彼の体温が染み込んだ布地。そこから漂うシダーの香りが、私の鼻腔を抜ける。
「……やめてください。触らないで」
 私は彼を突き放そうとした。けれど、彼の手が私の腕を掴んだ瞬間、強いフラッシュバックが私を襲った。

(――「エリカ! 待ってくれ! 行かないでくれ!」――)

 頭の中で、絶叫が響く。
 階段を駆け下りる足音。滑る床。宙に浮く身体。
 そして、何よりも鮮明に蘇ったのは、その直前に見た光景――暗がりの図書室で、彼と伯母が重なり合っていた、あの絶望的なシルエット。

「ああ……あぁぁぁっ!!!」
 私はこめかみを押さえて悲鳴を上げた。

 膝から崩れ落ちそうになる私を、リヒャルト様が必死に支える。
「エリカ! どうした、しっかりしろ!」

「……見……た……。私は、見ていた……。あの夜、貴方が……伯母様を……」
 私の口から漏れた言葉に、リヒャルト様の顔が驚愕に染まった。

 彼は私の肩を掴む手に力を込め、信じられないというように私を見つめる。
「エリカ……今、何を……。記憶が、戻ったのか!?」

「イヤっ!…… あの汚らわしい光景が……貴方が私を裏切った、あの瞬間が、今……!」
 私は泣きながら彼を叩いた。

 思い出してしまった。彼がどれほど今の私を慈しもうとも、その根底には、私の心を殺した裏切りがあるのだということを。
 リヒャルト様は抵抗せず、私の打擲を受け入れながら、悲痛な顔で私を抱きしめた。

「いい、それでいい……。思い出してくれ。私を憎んでもいい、罵ってもいい。忘れ去られた他人でいられるより、憎まれる方が、君の心の中にいられる分だけマシだ!」
「狂ってる……貴方は本当に、狂っていますわ……!」
 雨の中で、私たちは無様に縋り合い、拒絶し合っていた。

 その様子を、遠くから見つめている視線があることにも気づかずに。

 通りを挟んだ向かい側、薄汚れたフードを深く被った女が、狂気を宿した瞳で二人を見つめていた。国外追放されたはずの、ミレイユだった。

 彼女の指先は、憎しみに震え、爪が手の平に食い込んで血が滲んでいる。美しい金髪は失われ、肌は荒れ果てている。どん底の生活の中で、彼女の心を支えていたのは、自分を捨てた男と、自分からすべてを奪った姪への、暗い復讐心だけだった。

「……あの子、記憶を思い出しかけているわね」
 ミレイユは、ひび割れた唇で不気味に笑った。

「いいわ。もっと、もっと鮮明に思い出させてあげる。あの夜の続きを。……リヒャルト、あなたは私を捨てたつもりでしょうけど、私たちの罪は、あの子が死ぬまで終わらないのよ」

 女は懐から、小さなナイフを取り出した。それはかつて、リヒャルトが彼女との別れを告げた際に彼女が奪った、アシュベリー家の紋章入りの護身用ナイフだった。

 綻び始めた記憶の封印。再燃する執着。そして、戻ってきた毒婦。
蘇った、かつての幸せの記憶は、まだ誰にも予測できぬ結末――地獄へと向かおうとしていた。
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