10 / 19
綻びる封印
しおりを挟む
リヒャルト様の執拗なまでのアプローチは、日に日にその頻度と狂気を増していった。
毎日届けられる一輪の白薔薇。私が図書館で手に取った本を、翌日にはすべて初版本で買い揃えて寄贈してくる財力。そして、決して私の視界から消えない彼の影。
私の生活は、彼という強大な重力に引き寄せられ、少しずつ歪み始めていた。けれど、何よりも私を追い詰めたのは、彼ではなく、私自身の身体だった。
「……っ、また……」
図書館の書庫で、私は激しい眩暈に襲われ、棚に手をついた。
最近、特定の「音」や「匂い」に過剰に反応してしまう。雨の音、馬車の車輪が石畳を叩く音、そして――百合の香り。
忘れたはずの記憶が、真っ白なキャンバスに黒いインクを零したように、じわりと滲み出していた。断片的な情景が、脈絡もなく脳裏をかすめる。
幸せそうに笑う私の横顔。それを見つめる、今よりもずっと穏やかだったリヒャルト様の瞳。そして、その背後に潜む、蛇のような伯母の視線。
「エリカ、顔色が悪いわ。今日はもう帰りなさい」
同僚に促され、私は逃げるように図書館を後にした。
外はあいにくの雨だった。二年前、私がすべてを失ったあの日と同じ、冷たい雨。迎えの馬車を待つ間、私は軒下で雨粒を眺めていた。
すると、雨音に混じって、聞き慣れた、けれど今は聞きたくない足音が近づいてきた。
「エリカ。……顔色が悪い。傘を持っていないのかい?」
リヒャルト様だった。彼は自分の上着を脱ぎ、迷わず私の肩にかけた。
彼の体温が染み込んだ布地。そこから漂うシダーの香りが、私の鼻腔を抜ける。
「……やめてください。触らないで」
私は彼を突き放そうとした。けれど、彼の手が私の腕を掴んだ瞬間、強いフラッシュバックが私を襲った。
(――「エリカ! 待ってくれ! 行かないでくれ!」――)
頭の中で、絶叫が響く。
階段を駆け下りる足音。滑る床。宙に浮く身体。
そして、何よりも鮮明に蘇ったのは、その直前に見た光景――暗がりの図書室で、彼と伯母が重なり合っていた、あの絶望的なシルエット。
「ああ……あぁぁぁっ!!!」
私はこめかみを押さえて悲鳴を上げた。
膝から崩れ落ちそうになる私を、リヒャルト様が必死に支える。
「エリカ! どうした、しっかりしろ!」
「……見……た……。私は、見ていた……。あの夜、貴方が……伯母様を……」
私の口から漏れた言葉に、リヒャルト様の顔が驚愕に染まった。
彼は私の肩を掴む手に力を込め、信じられないというように私を見つめる。
「エリカ……今、何を……。記憶が、戻ったのか!?」
「イヤっ!…… あの汚らわしい光景が……貴方が私を裏切った、あの瞬間が、今……!」
私は泣きながら彼を叩いた。
思い出してしまった。彼がどれほど今の私を慈しもうとも、その根底には、私の心を殺した裏切りがあるのだということを。
リヒャルト様は抵抗せず、私の打擲を受け入れながら、悲痛な顔で私を抱きしめた。
「いい、それでいい……。思い出してくれ。私を憎んでもいい、罵ってもいい。忘れ去られた他人でいられるより、憎まれる方が、君の心の中にいられる分だけマシだ!」
「狂ってる……貴方は本当に、狂っていますわ……!」
雨の中で、私たちは無様に縋り合い、拒絶し合っていた。
その様子を、遠くから見つめている視線があることにも気づかずに。
通りを挟んだ向かい側、薄汚れたフードを深く被った女が、狂気を宿した瞳で二人を見つめていた。国外追放されたはずの、ミレイユだった。
彼女の指先は、憎しみに震え、爪が手の平に食い込んで血が滲んでいる。美しい金髪は失われ、肌は荒れ果てている。どん底の生活の中で、彼女の心を支えていたのは、自分を捨てた男と、自分からすべてを奪った姪への、暗い復讐心だけだった。
「……あの子、記憶を思い出しかけているわね」
ミレイユは、ひび割れた唇で不気味に笑った。
「いいわ。もっと、もっと鮮明に思い出させてあげる。あの夜の続きを。……リヒャルト、あなたは私を捨てたつもりでしょうけど、私たちの罪は、あの子が死ぬまで終わらないのよ」
女は懐から、小さなナイフを取り出した。それはかつて、リヒャルトが彼女との別れを告げた際に彼女が奪った、アシュベリー家の紋章入りの護身用ナイフだった。
綻び始めた記憶の封印。再燃する執着。そして、戻ってきた毒婦。
蘇った、かつての幸せの記憶は、まだ誰にも予測できぬ結末――地獄へと向かおうとしていた。
____________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
📢新作告知📚六作品をまとめて一挙投稿しました!作者の作品欄より、ぜひご覧ください💖
毎日届けられる一輪の白薔薇。私が図書館で手に取った本を、翌日にはすべて初版本で買い揃えて寄贈してくる財力。そして、決して私の視界から消えない彼の影。
私の生活は、彼という強大な重力に引き寄せられ、少しずつ歪み始めていた。けれど、何よりも私を追い詰めたのは、彼ではなく、私自身の身体だった。
「……っ、また……」
図書館の書庫で、私は激しい眩暈に襲われ、棚に手をついた。
最近、特定の「音」や「匂い」に過剰に反応してしまう。雨の音、馬車の車輪が石畳を叩く音、そして――百合の香り。
忘れたはずの記憶が、真っ白なキャンバスに黒いインクを零したように、じわりと滲み出していた。断片的な情景が、脈絡もなく脳裏をかすめる。
幸せそうに笑う私の横顔。それを見つめる、今よりもずっと穏やかだったリヒャルト様の瞳。そして、その背後に潜む、蛇のような伯母の視線。
「エリカ、顔色が悪いわ。今日はもう帰りなさい」
同僚に促され、私は逃げるように図書館を後にした。
外はあいにくの雨だった。二年前、私がすべてを失ったあの日と同じ、冷たい雨。迎えの馬車を待つ間、私は軒下で雨粒を眺めていた。
すると、雨音に混じって、聞き慣れた、けれど今は聞きたくない足音が近づいてきた。
「エリカ。……顔色が悪い。傘を持っていないのかい?」
リヒャルト様だった。彼は自分の上着を脱ぎ、迷わず私の肩にかけた。
彼の体温が染み込んだ布地。そこから漂うシダーの香りが、私の鼻腔を抜ける。
「……やめてください。触らないで」
私は彼を突き放そうとした。けれど、彼の手が私の腕を掴んだ瞬間、強いフラッシュバックが私を襲った。
(――「エリカ! 待ってくれ! 行かないでくれ!」――)
頭の中で、絶叫が響く。
階段を駆け下りる足音。滑る床。宙に浮く身体。
そして、何よりも鮮明に蘇ったのは、その直前に見た光景――暗がりの図書室で、彼と伯母が重なり合っていた、あの絶望的なシルエット。
「ああ……あぁぁぁっ!!!」
私はこめかみを押さえて悲鳴を上げた。
膝から崩れ落ちそうになる私を、リヒャルト様が必死に支える。
「エリカ! どうした、しっかりしろ!」
「……見……た……。私は、見ていた……。あの夜、貴方が……伯母様を……」
私の口から漏れた言葉に、リヒャルト様の顔が驚愕に染まった。
彼は私の肩を掴む手に力を込め、信じられないというように私を見つめる。
「エリカ……今、何を……。記憶が、戻ったのか!?」
「イヤっ!…… あの汚らわしい光景が……貴方が私を裏切った、あの瞬間が、今……!」
私は泣きながら彼を叩いた。
思い出してしまった。彼がどれほど今の私を慈しもうとも、その根底には、私の心を殺した裏切りがあるのだということを。
リヒャルト様は抵抗せず、私の打擲を受け入れながら、悲痛な顔で私を抱きしめた。
「いい、それでいい……。思い出してくれ。私を憎んでもいい、罵ってもいい。忘れ去られた他人でいられるより、憎まれる方が、君の心の中にいられる分だけマシだ!」
「狂ってる……貴方は本当に、狂っていますわ……!」
雨の中で、私たちは無様に縋り合い、拒絶し合っていた。
その様子を、遠くから見つめている視線があることにも気づかずに。
通りを挟んだ向かい側、薄汚れたフードを深く被った女が、狂気を宿した瞳で二人を見つめていた。国外追放されたはずの、ミレイユだった。
彼女の指先は、憎しみに震え、爪が手の平に食い込んで血が滲んでいる。美しい金髪は失われ、肌は荒れ果てている。どん底の生活の中で、彼女の心を支えていたのは、自分を捨てた男と、自分からすべてを奪った姪への、暗い復讐心だけだった。
「……あの子、記憶を思い出しかけているわね」
ミレイユは、ひび割れた唇で不気味に笑った。
「いいわ。もっと、もっと鮮明に思い出させてあげる。あの夜の続きを。……リヒャルト、あなたは私を捨てたつもりでしょうけど、私たちの罪は、あの子が死ぬまで終わらないのよ」
女は懐から、小さなナイフを取り出した。それはかつて、リヒャルトが彼女との別れを告げた際に彼女が奪った、アシュベリー家の紋章入りの護身用ナイフだった。
綻び始めた記憶の封印。再燃する執着。そして、戻ってきた毒婦。
蘇った、かつての幸せの記憶は、まだ誰にも予測できぬ結末――地獄へと向かおうとしていた。
____________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
📢新作告知📚六作品をまとめて一挙投稿しました!作者の作品欄より、ぜひご覧ください💖
851
あなたにおすすめの小説
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
冷遇夫がお探しの私は、隣にいます
終日ひもの干す紐
恋愛
愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに!
妻に駆け落ちされた、傷心の辺境伯ロシェのもとへ嫁いでほしい。
シャノンが王命を受け、嫁いでから一年……とんでもない場面に立ち会ってしまう。
「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」
シャノンには冷たいの夫の、甘ったるい囁き。
扉の向こうの、不貞行為。
これまでの我慢も苦労も全て無駄になり、沸々と湧き上がる怒りを、ロシェの愛猫『アンブル』に愚痴った。
まさかそれが、こんなことになるなんて!
目が覚めると『アンブル』になっていたシャノン。
猫の姿に向けられる夫からの愛情。
夫ロシェの“本当の姿”を垣間見たシャノンは……?
* * *
他のサイトにも投稿しています。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
【完結】三歳年下の婚約者は、嘘を覚えた
恋せよ恋
恋愛
ランバート侯爵令嬢フィオーラには三歳年下の病弱な婚約者がいる。
保養地で十二歳まで静養するフィッチモ公爵家の嫡男、エドワード。
病弱で儚げだった可愛い彼を、フィオーラは献身的に励まし支えた。
十四歳でエドワードが健康を取り戻し王都へ戻ると、環境に変化が。
金髪に青い目の整った容姿の公爵家嫡男に群がる令嬢たち。
「三歳年上の年増」「素敵なエドワード様に相応しくないおばさん」
周囲の令嬢たちによるフィオーラへの執拗な侮辱。
そして、エドワードの友人の義妹マリアンヌの甘い誘惑と、接近。
思春期真っ盛りのエドワードと、美しいフィオーラの関係は拗れていく。
二人の婚約の結末は、婚約解消か、継続か、はたまた……。
若い二人の拗れた恋の行方の物語
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
嫌われたと思って離れたのに
ラム猫
恋愛
私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。
距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。
【完結】宝石の妖精は、愛を暴く~すれ違う四組の婚約者たち〜
恋せよ恋
恋愛
「このブローチが、私たちの友情の証」
公爵令嬢ガーネットと、固い絆で結ばれた三人の親友たち。
彼女たちはある日、街のアンティークショップで一目惚れした
「コスモスのブローチ」を、一ヶ月交代で身につける約束を交わす。
それは、純粋な友情と慈愛から始まった遊び心だった。
しかし、その美しい宝石が放つ光は、最も近くにいる婚約者たちの心を、
音もなく暴いていく。
騎士、魔導師、外交官、書記官。婿入りという立場で彼女たちを支える
完璧な婚約者たちは、胸元で輝く石の色を「自分ではない、別の男を想う
秘めた恋情」だと誤解し、密やかな絶望に囚われていく。
「愛している。だが、君がその石に見ているのは、私ではない誰かなのだろう?」
互いを深く慈しみ、思慮深いからこそ、「真実」を問いかけられずにすれ違う日々。
四十代後半になり、すべてを乗り越えた彼女たちが、あのあまりに美しく、
あまりに痛切だった「愛の誤解」を振り返る物語。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる