身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜

恋せよ恋

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真実の断片、最後の決断

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 首筋に当てられたナイフの冷たさが、皮肉にも私の混濁した意識を鋭く研ぎ澄ませた。
 ミレイユ伯母様の腕から伝わる、狂気じみた震え。そして目の前で、絶望に顔を歪ませて立ち尽くすリヒャルト様。

「……リヒャルト、あなたはいつもそう。大事な局面で、私を選べない意気地なし」
「ミレイユ、頼む。彼女を離してくれ。私の命が必要なら、今ここで差し出す。だから、エリカだけは……!」
 その叫びを聞いた瞬間、私の脳内で、最後の一片ピースが音を立てて嵌まった。

 あの日。扉を開け、裏切りを目撃した時の衝撃。逃げ出した私の背中を追ってきたのは、確かにリヒャルト様だった。けれど、階段で足が滑った時、彼は私を突き落としたのではない。

 必死に、その指先が私の袖を掠めていた。
「エリカ!」という絶叫。

 大理石の床に打ち付けられた私を抱き上げ、自分の血が服を汚すのも構わず、喉を掻き切るような声で私の名を呼び続けていた。

 ――彼は私を裏切った。
 ――けれど、殺そうとしたのではない。彼は、私を失うことを誰よりも恐れていた。

「……思い出しましたわ」
 私の小さな呟きに、二人の動きが止まった。

 私は首に刃が食い込むのも厭わず、ミレイユ伯母様を冷たく見据えた。
「伯母様。貴方は今、彼が私を突き落としたと言いましたね。でも、それは嘘です。……貴方は、階段の上で立ち尽くして、落ちていく私を『これで邪魔者が消える』と、嘲笑うような目で見ていた。……その顔を、今思い出しました」

「なっ……! 違う、私は……!」
「リヒャルト様も、同じです。貴方は私を裏切った。この二年、貴方がどれほど私を慈しもうとも、その罪は消えない」

 私は、ミレイユ伯母様が動揺した一瞬の隙を見逃さなかった。彼女の腕を思い切り噛み、体当たりをしてその拘束を振り払う。

「エリカ!!」
 リヒャルト様が弾かれたように飛び出し、私を自分の背後に庇った。同時に、駆けつけた兄様と使用人たちが、ナイフを振り回すミレイユ伯母様を取り押さえる。

「離して! 私は侯爵家の娘よ! あんな子供に、私のリヒャルトを奪わせない!」
 醜く喚き散らす伯母様を、兄様が冷徹な目で見下ろした。

「ミレイユ。貴女は既に絶縁された身だ。伯爵令嬢を暗殺しようとした罪、今度こそ逃げ場はないと思え」
 伯母様は引き立てられ、夜の闇へと消えていった。今度こそ、彼女が表舞台に戻ることは二度とないだろう。

 東屋に残されたのは、私とリヒャルト様だけだった。
 雨は止んでいた。雲の切れ間から差し込む月光が、泥に汚れた私たちの姿を白々と照らし出す。

 リヒャルト様は、膝をついて激しく肩を揺らしていた。
「……エリカ。記憶が、戻ったのだね」

「ええ。すべて」
 私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。

 彼は顔を上げることができず、震える声で言葉を紡ぐ。
「……殺してくれ。いや、消えてくれと言われる方が、私には相応しい。君を裏切り、その記憶がないことをいいことに、また君の傍にいようとした。私の愛は、醜いエゴだ……。君を突き落としたのも同然だ」

 私は、彼を見つめた。二年前の、若く完璧だった婚約者ではない。罪悪感に焼き尽くされ、ボロボロになり、それでも私への執着を捨てきれなかった、哀れな一人の男。

「リヒャルト様。貴方のしたことは、決して許されることではありません。記憶が戻った今、貴方の顔を見るだけで、あの夜の百合の香りが鼻を突くような気がして、吐き気がします」
 リヒャルト様が、目に見えて落胆し、絶望に身を震わせる。

「……ですが」
 私は一歩、彼に近づいた。
 
「貴方が流した涙だけは、嘘ではなかったと……それだけは分かります」
 私は彼が肩にかけてくれた、泥のついた上着を脱ぎ、彼の膝元に落とした。

「貴方との婚約は、二年前のあの日に終わっています。……だから、もう『償い』のために私を追うのはやめてください。それは、私を苦しめるだけです」
「エリカ……。私は、どうすればいい。君がいない世界で、どう生きていけば……」

「……知りません。それは貴方が自分で考えることです。……ただ、もし。もしもいつか、貴方が私への『罪悪感』をすべて捨てて、私という人間を、伯母様の影としてではなく、ただのエリカとして愛せる日が来たら……」
 私はそこまで言って、言葉を切った。

 彼が顔を上げる。その瞳には、消えかけていた希望の火が、微かに、本当に微かに灯っていた。
「その時は、一人の『他人』として、また私に声をかけてください。……『一目惚れ』なんていう、安っぽい言葉を使わずに」
 私は背を向け、屋敷へと歩き出した。

 背後から、彼が地面に額を擦り付け、嗚咽する音が聞こえる。
 それは、今度こそ本当の、私たちの「終わり」だった。

 そして――何年かかるか分からないけれど、新しい「始まり」のための、唯一の道でもあった。
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