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凍土の再会
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北部の冬は、王都のそれとは比べものにならないほど厳しかった。
馬車を降りた瞬間、切り裂くような寒風が頬を叩く。私は厚手の毛皮に身を包み、案内された修道院跡へと足を踏み入れた。
そこは、村の再生拠点となっていた。
かつては荒廃していたであろう石造りの建物は、丁寧に補修され、周囲には開拓民たちの活気ある声が響いている。その中心で、村人たちと肩を並べて重い石材を運んでいる一人の男がいた。
――リヒャルト様。
私は思わず息を呑んだ。
二年前、贅を尽くした夜会服に身を包んでいた完璧な貴公子は、そこにはいなかった。
泥に汚れ、使い込まれた革の作業着を着た彼は、日焼けした肌に無精髭を蓄え、逞しい腕を剥き出しにしている。かつての繊細な美しさは消え、代わりに大地に根を張る巨木のような、静かな力強さが宿っていた。
「……アシュベリー卿」
私が呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。
その瑠璃色の瞳が、驚愕に揺れる。彼は手にした石材を置き、慌てて汚れを拭おうとして……それから自嘲気味に笑い、深く頭を下げた。
「……よく来てくださいました、グロスナー司書官。遠路はるばる、感謝いたします」
その声は以前よりも低く、落ち着いていた。
そこには、かつての私を追い詰めた狂気的な執着も、卑屈な後悔も見当たらない。ただ一人の依頼主として、専門家を敬う「他人」の距離感が保たれていた。
翌日から、修道院の地下書庫での作業が始まった。
そこは確かに歴史の宝庫だった。湿気から守られた石室には、数百年分もの羊皮紙や古文書が眠っていた。私は司書としての本能を刺激され、寒さも忘れて整理に没頭した。
リヒャルト様は、必要以上に私に近づかなかった。
彼は私の作業を円滑に進めるため、棚を設置し、明かりを整え、必要があれば重い革袋を運ぶ。けれど、会話は常に仕事に関することだけ。
「この年代記は、こちらの棚でよろしいですか?」
「ええ、お願いします。アシュベリー卿、その資料は非常に脆いので、手袋を」
淡々としたやり取り。
けれど、ふとした瞬間に、彼が私の背中を静かに守るように立っていることに気づく。私が資料に夢中になりすぎて足元をよろつかせると、彼は触れるか触れないかの距離でそっと支え、私が安定したのを見届けるとすぐに手を引く。それは、言葉よりも確かな「敬意」の形だった。
「……卿は、なぜこれほどまでにこの村のために尽くすのですか?」
ある日の休憩時間、私はたまらずに問いかけた。
彼は、冷え切った指先を暖炉の火に翳しながら、穏やかに答えた。
「最初は、逃げ場を求めていただけでした。君への罪悪感から逃れ、自分を罰するためにこの過酷な地を選んだ。……ですが、この土地を耕し、名もなき民とパンを分け合ううちに、気づいたのです。過去を悔いることよりも、今、目の前にある命のために汗を流すことの方が、どれほど価値があるか。……私はようやく、自分の足で立てるようになった気がします」
彼は私を見ず、揺れる炎を見つめていた。その横顔には、かつて私が求めていた「誠実さ」の真の形が宿っていた。
――身代わりとしてではなく、一人の人間として、私に相応しい男になろうとしている。
その変化に、私の頑なだった心が、少しずつ、春の雪解けのように緩んでいくのを感じていた。
しかし、北の自然は非情だった。作業の最終日、急激な吹雪が村を襲った。
書庫の入り口に、村の少年が駆け込んできた。
「アシュベリー様! 荷運びの馬が暴れて、雪崩に……! 誰か助けて!」
リヒャルト様は瞬時に立ち上がった。
「エリカ様、貴女はここにいてください。……いいですね、絶対に外に出ないで」
彼はマントを翻し、猛吹雪の中へと飛び出していった。
窓の外は白銀の地獄と化し、数メートル先も見えない。不安に胸を締め付けられながら、私はただ、彼が無事に戻ることを祈り続けた。
一時間、二時間。祈りはやがて恐怖へと変わった。
(もし、彼がこのまま帰ってこなかったら?)
その問いに、私の身体が激しく反応した。嫌だ。もう一度、彼を失うのは嫌だ。
裏切りの記憶も、憎しみも、すべてを飲み込むほどの強い感情が、私の奥底から突き上げてきた。
それは、記憶を失う前の私が彼に抱いていた、あの純粋な、けれど未熟だった「恋」とは違う。
過ちを知り、絶望を越え、それでもなお、この人の隣で生きたいと願う、新しい「愛」の萌芽だった。
扉が激しく開かれた。雪まみれになり、気を失った少年を背負ったリヒャルト様が、満身創痍で戻ってきたのだ。彼は少年を床に下ろすと同時に、力尽きたように膝をついた。
「卿! リヒャルト様!」
私は駆け寄り、彼の凍えた身体を抱きしめた。
彼は意識が朦朧とする中で、私の顔を見て、微かに微笑んだ。
「……よかった。君が、無事で……」
その言葉を聞いた瞬間、私の瞳から涙が溢れ出した。
私は彼の名前を、何度も、何度も呼んだ。
二年前のあの日、彼に言えなかった言葉。
記憶をなくした私が、ずっと心の底に隠していた言葉。
「生きて……生きてください、リヒャルト様。私……貴方のことが……」
雪深い北の地で、私たちの二度目の恋が、静かに、けれど熱く産声を上げた。
______________
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馬車を降りた瞬間、切り裂くような寒風が頬を叩く。私は厚手の毛皮に身を包み、案内された修道院跡へと足を踏み入れた。
そこは、村の再生拠点となっていた。
かつては荒廃していたであろう石造りの建物は、丁寧に補修され、周囲には開拓民たちの活気ある声が響いている。その中心で、村人たちと肩を並べて重い石材を運んでいる一人の男がいた。
――リヒャルト様。
私は思わず息を呑んだ。
二年前、贅を尽くした夜会服に身を包んでいた完璧な貴公子は、そこにはいなかった。
泥に汚れ、使い込まれた革の作業着を着た彼は、日焼けした肌に無精髭を蓄え、逞しい腕を剥き出しにしている。かつての繊細な美しさは消え、代わりに大地に根を張る巨木のような、静かな力強さが宿っていた。
「……アシュベリー卿」
私が呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。
その瑠璃色の瞳が、驚愕に揺れる。彼は手にした石材を置き、慌てて汚れを拭おうとして……それから自嘲気味に笑い、深く頭を下げた。
「……よく来てくださいました、グロスナー司書官。遠路はるばる、感謝いたします」
その声は以前よりも低く、落ち着いていた。
そこには、かつての私を追い詰めた狂気的な執着も、卑屈な後悔も見当たらない。ただ一人の依頼主として、専門家を敬う「他人」の距離感が保たれていた。
翌日から、修道院の地下書庫での作業が始まった。
そこは確かに歴史の宝庫だった。湿気から守られた石室には、数百年分もの羊皮紙や古文書が眠っていた。私は司書としての本能を刺激され、寒さも忘れて整理に没頭した。
リヒャルト様は、必要以上に私に近づかなかった。
彼は私の作業を円滑に進めるため、棚を設置し、明かりを整え、必要があれば重い革袋を運ぶ。けれど、会話は常に仕事に関することだけ。
「この年代記は、こちらの棚でよろしいですか?」
「ええ、お願いします。アシュベリー卿、その資料は非常に脆いので、手袋を」
淡々としたやり取り。
けれど、ふとした瞬間に、彼が私の背中を静かに守るように立っていることに気づく。私が資料に夢中になりすぎて足元をよろつかせると、彼は触れるか触れないかの距離でそっと支え、私が安定したのを見届けるとすぐに手を引く。それは、言葉よりも確かな「敬意」の形だった。
「……卿は、なぜこれほどまでにこの村のために尽くすのですか?」
ある日の休憩時間、私はたまらずに問いかけた。
彼は、冷え切った指先を暖炉の火に翳しながら、穏やかに答えた。
「最初は、逃げ場を求めていただけでした。君への罪悪感から逃れ、自分を罰するためにこの過酷な地を選んだ。……ですが、この土地を耕し、名もなき民とパンを分け合ううちに、気づいたのです。過去を悔いることよりも、今、目の前にある命のために汗を流すことの方が、どれほど価値があるか。……私はようやく、自分の足で立てるようになった気がします」
彼は私を見ず、揺れる炎を見つめていた。その横顔には、かつて私が求めていた「誠実さ」の真の形が宿っていた。
――身代わりとしてではなく、一人の人間として、私に相応しい男になろうとしている。
その変化に、私の頑なだった心が、少しずつ、春の雪解けのように緩んでいくのを感じていた。
しかし、北の自然は非情だった。作業の最終日、急激な吹雪が村を襲った。
書庫の入り口に、村の少年が駆け込んできた。
「アシュベリー様! 荷運びの馬が暴れて、雪崩に……! 誰か助けて!」
リヒャルト様は瞬時に立ち上がった。
「エリカ様、貴女はここにいてください。……いいですね、絶対に外に出ないで」
彼はマントを翻し、猛吹雪の中へと飛び出していった。
窓の外は白銀の地獄と化し、数メートル先も見えない。不安に胸を締め付けられながら、私はただ、彼が無事に戻ることを祈り続けた。
一時間、二時間。祈りはやがて恐怖へと変わった。
(もし、彼がこのまま帰ってこなかったら?)
その問いに、私の身体が激しく反応した。嫌だ。もう一度、彼を失うのは嫌だ。
裏切りの記憶も、憎しみも、すべてを飲み込むほどの強い感情が、私の奥底から突き上げてきた。
それは、記憶を失う前の私が彼に抱いていた、あの純粋な、けれど未熟だった「恋」とは違う。
過ちを知り、絶望を越え、それでもなお、この人の隣で生きたいと願う、新しい「愛」の萌芽だった。
扉が激しく開かれた。雪まみれになり、気を失った少年を背負ったリヒャルト様が、満身創痍で戻ってきたのだ。彼は少年を床に下ろすと同時に、力尽きたように膝をついた。
「卿! リヒャルト様!」
私は駆け寄り、彼の凍えた身体を抱きしめた。
彼は意識が朦朧とする中で、私の顔を見て、微かに微笑んだ。
「……よかった。君が、無事で……」
その言葉を聞いた瞬間、私の瞳から涙が溢れ出した。
私は彼の名前を、何度も、何度も呼んだ。
二年前のあの日、彼に言えなかった言葉。
記憶をなくした私が、ずっと心の底に隠していた言葉。
「生きて……生きてください、リヒャルト様。私……貴方のことが……」
雪深い北の地で、私たちの二度目の恋が、静かに、けれど熱く産声を上げた。
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